悪意

 坂道さんは動物が大好きだ。

 犬でも猫でも鳥でも、おおよその生きているものなら何でも好きだ。

 視界に入ると思わず追いかけてしまうほどで、一緒に歩いていて突然いなくなったかと思えば、路地裏で野良猫に話しかけていた、なんてのはしょっちゅうだ。

 動物好きなら、飼ってもいいのではないかと思うのだが、動物の方はなぜか坂道さんに決して懐かない。

 どんなに大人しい犬でも、人に馴れた猫でも、坂道さんを前にすると吠えて暴れて収拾がつかなくなる。まるでこの世の終わりを見たかのような騒乱が起きるので、坂道さんの出入りを禁止するペットショップがあるほどだ。

 ぼくが飼っていた犬も普段はぼくのしつけのおかげで吠えたり噛んだり逃げたりしない賢い犬だったのだが、坂道さんが視界にとらえた瞬間、狂ったかのように力の限り吠え続けし、終いには噛みついてしまったこともある。まるでなにかに怯えているみたいだった。

 幸い傷は浅く坂道さんは「べつにええよ」と言ってくれたおかげで大惨事にならなくて済んだけど、どうして坂道さんを前にするとこんなにも気性が荒くなるのか不思議でたまらなかった。

「君んちの犬、あご弱いな。柔らかいものばかり食べさせてはあかんよ」と涼しい顔をけらけらと笑っていたが、ぼくは笑いごとではないと思っていた。


 さりげなく坂道さんに聞いたことがある。

「原因は臭いやね」

 パンフレットを片手に、動物園の話をしている最中のときだった。

「……加齢臭っていうやつですか?」

 冗談めかしで言うぼくに対して、坂道さんは皮肉気な笑みを浮かべた。

「犬も猫も、人間とは比べ物にならないくらい鼻がええからなあ。どんなに薄い臭いでも気づいてしまうのだろうね」

 試しにぼくは鼻を近づけて坂道さんの臭いをかいでみた。

 ……なんてことはない。少し黴臭(かびくさ)い。通い慣れた店の中と同じ匂いがしただけだ。

 ぼくにとっては親しみがあって落ち着く匂いだけど、動物はこれが苦手なんだろうか?

「君は長いこと一緒におるから麻痺しているのかもね」

「初めて会ったときから臭いなんてしていませんでしたよ」

「ああ、言い方が悪かったか」

 坂道さんはぼくからパンフレットを取り上げてぼくの鼻を掴むと嗅いでみてという無茶ぶりを言われながらもやった。

「ボクが言うとる臭いとは君が感じているところの”悪意”やね」


 途端に鼻孔(びこう)の奥に悪臭が湧いた。肉が腐ったような胸が苦しくなる。背筋が凍り付き頭痛がして気が遠くなりそうな臭いだった。

 口の中に酸っぱいものがこみ上げてくる。ぼくは坂道さんの手を振り払うとトイレに駆け込み口の中にあったものをすべて吐いた。体が震えて止まらない。苦しくて仕方がない。指先が震えて感覚が薄くなる。胃液を吐いても、気分はまったくよくならなかった。

 便器にすがりつくぼくの滲(にじ)む視界の端に、坂道さんの無表情な白い顔が映った。

「……いったい、なんなんですか……」

 どうにか息を落ち着かせ、ぼくは上手くしゃべれない口を動かしながら坂道さんに聞いた。

 坂道さんは答えず、ただ曖昧に笑った。その笑みにまた臭いが沸く。

見慣れた顔のはずなのに、それが恐ろしい。

 これは、本当にぼくが知っている坂道さんなのだろうか。それともぼくの知らない一面が覗いているのだろうか。

「悪意を感じるなんて、ただ無防備なだけや」

 哀れむような悲しむような声が聞こえてきた。

 ぼくは振り返る力はなくトイレの床にへたりこむしかできなかった。


 ぼくが感じたのが本当に悪意だったとしたら、いったい坂道さんになにがあったのだろうか。坂道さんから発した悪意はまるですべてを憎んでいるかのような無差別にふりまかれていた。

 動物が近づかない、暴れるのはこれが原因なのか。だったとしたら、坂道さんはいったい何者なのだろうか。謎が深まるばかりだ。

 いつのまにか動物園のパンフレットはレジスターの下の引き出しに入っていた。坂道さんを連れて動物園へ行こうかと思っていたが、坂道さんを前にして動物たちはいったいどんな恐ろしいことになるのか想像つかない。ぼくにでさえも坂道さんは恐怖の対象として見ている。

 それでも「運命を変える」といわれたあの日から、ぼくは坂道さんを友人にしてこの店に通い続けている変人だ。いまさら、どんなことが起きようとも恐れることはしない。そう決意した。

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