廻廊

一ヶ村銀三郎

廻廊

 色がなくてつまらない細長い空間には、初めて見る顔が点在していた。ここは人員の入れ替わりが激しいのだろうかと感じながら、少女は特徴のつかめない薄緑の衣服を着た人の傍を通過して行った。

 年末の霜のように冷たい感じがする扉を填め込んでいる単調な廊下の景色に紛れ込もうとしているのか、少女が歩いて行く空間は白い服を着ている人物が大半を占めていて、その他は薄い緑色をした薄手の寝間着のような衣服を着けているようだった。そのせいもあってか、その少女の目にはいずれも差の少ない単一的な存在であるように映っていた。

「――つまんないな。外の気色を見てみたいけど、どういうわけか出口がまったく見つからないし、ヘンな場所ね……」

 変化がなく均一で殺風景な空間は、少女にとっては異質な世界であった。ここに来る以前に、よく見ていた風景は、うまく思い出せなくなってしまったが、緑や萌黄、紅紫が乱れていて、少なくともここよりかは開放的であろうと思われた。

 あの退屈で仕方がないベッドしかない小部屋から抜け出したのは良いが、結局、眠っていた小部屋と同じくらい特徴のない真っ白な廊下をぐるぐると回っているような気がした。きっと出口はあるのだろうが、おそらく、この辺りの壁と同じ色合いをしていて、そして特徴がないのだろう。だから見つからないのだと、少女は感じた。

 最初のうちは先にも語ったように、ぐるぐると回っていると少女は感じていたが、進むにつれて、ドーナツの中にいるというよりは、大昔に父親から聞いたことがあるLabyrinthosのようなもののど真ん中に自分はいるのだなという感覚に変化してきた。

 そして本家と同様なのか、個性の殺がれた装飾が壁面、天井、床面に施されているために、迷ってしまうのだなと思われた。少女の歩まざるを得ない特色なき廊下には、年配の人物や、若い人物、目が血走っている者、慌ただしく走り去っていく者、ささやかな会話や中程度の騒音を放つ存在などもあったが、少女が通り過ぎた次の瞬間には、全てが静寂に帰していった。

 そんな調子で、細長い空間を進んで行くと、比較的大きな部屋に入ることになった。周りを見ると、植木鉢に収まった窮屈そうな観葉植物や、クッションを備えている長いベンチ、そして白衣に身を包んでいる表情がつかめない若い女と男の数々が長いカウンターの向こうにあるのがよく分かった。多分受付だろう。少女はこの世界が病棟の一種であることをようやっと察した。しかし、大病をわずらった記憶は一切なく、致命的な怪我も体にないのは、少女にも感覚的に分かっていた。

 仮にここが病院だとしたら、なぜあたしはここにいるのだろうか。両手両腕胴体を見ても障っている箇所が見当たらず、彼女は不思議に感じた。受付の向こうにいる白ずくめの男女に聞けばすぐに分かると思うが、尋ねれば、またあの面白みに欠ける狭くて白いだけの空間に押しやられてしまうだけのような気がした。この疑問については一旦封印することにして、少女はカウンターの前に広がる待合所とも言うべきスペースに目を遣った。

 空間に居る人々の格好は色々だった。薄緑や白一色というひねりのないものが大半を占めていたが、その中には見ていて飽きない被服もチラホラあった。長いベンチに腰を掛けて順番を待っている人たちだ。中でもひときわ目立つのが、黒い背広を思わせる上着を着た若い男であった。

 その顔面を見ると、どこか兄に似通っているように感じられた。しかしどこか違う。少女は黒い服の青年が、どこか近親者と相似通っていながら、相違うように感じられて、その不思議な印象に戸惑った。

 黒衣に身を包んでいる兄を思わせる顔立ちをした見ず知らずの人物の表情は、どこか深刻そうで、気難しい感じがしたので、どこか役人のような感じがした。以前、父が金銭のことで役場と揉めていたことを思い出すと、どうにも近寄りがたく思われた。しかし、その顔とその姿は、どこか他人ではない感じがして、少女の目には奇妙に映った。

 じっと見ていたせいだろうか。青年は予想していなかった少女の眼差しに気が付いたようだった。少し驚いたのか、目を見開き、口を僅かに開けていた目の前の男は、とっさにこう話してきた。

「あなた、どうしてここに?」

 落ち着きを取り戻しつつある黒い服の青年の顔を見ていると、やはり、どこか身内の人間に似通っているような気がした。しかし、よくよく見ると別人である。少女がやって来た理由を聞くという、どこか妙な質問をしてきた初対面と思われる相手に対して、少女は戸惑いながらも、まずは最低限の挨拶を行うことにした。

「こんにちは。……初めまして。……何か問題でも?」

 そう言って彼女は相手の反応を窺ってみた。すると、役人のようにも見える黒一色の地味な背広を着た相手は、どこか曖昧な発言をしてきた。

「――いや、その。何であなたが、こんなところに来ているのかが、ちょっと疑問に思いましてね」

 体に支障のないあたしが病院なんかにいることを珍しいと言いたいだけだろう。それにしてもずいぶん回りくどい。やはり役人なのかなと思いながら、少女は本当のことを少しだけ話した。

「ここは退屈だから、抜け出して、いえ、ちょっとそこまで歩くことにしたんです。……本当ですよ、ただここまで行くつもりで来たんです。誰かの目をわけじゃないですよ……」

 数秒の間、青年は少女への回答をためらっているように見え、同時にどうすべきか戸惑っているようにも見えた。そうして少女の発言を無理やりに要約しただけの短い発言をしてきた。

「つまり、抜け出したと言うことだね」

「……そうよ。だって、あたしはこんなに元気なんだから、こんな所にいる必要ないでしょう?」

 当然の理屈を彼女は喋ったが、初対面でないような感じがしなくもない目の前にいる若い男は、まるで明言を避ける行政のような、当たり障りのない一言を答えてきた。

「……そう。……そうだね。まあ、あなたがそう思うなら、その通りのはずだと思うよ」

 なんて無関心な。少女は、自分の意見を言う事を避けているように見える青年が不気味に思えた。しかし、僕があなたに話しかけてしまったせいで、怖い思いをさせてしまったようだ。すまないことをしてしまった、と兄に似ている彼は言ってきた。

 確かに青年に声を掛けられて、少女は緊張し、硬直して、本来ならできるはずの応答ができなくなってしまった。目の前の彼は彼女がそういう事態に陥っていることを瞬時に把握したのだろうか。少女は、そんな驚異的な観察眼が、この痩せぎすで頼りなさそうな黒衣の身体に備わってることと考えると、自然と読唇術に長けていて察しが良い母の面影が脳裏に。しかし、相手は男だ。少女は若干唐突に出現した親しい幻影を

「ただ、まさか、あなたのような人がここに来るとは思わなかったから、僕も驚いてしまったんです。声をかけてしまって、申し訳ありません……」

「あたしのような?」

 漆を幾重にも塗りたくったような背広を着ている青年の言ったことに違和感を覚えた。いったい、あたしの何が黒ずくめの彼の感覚に引っ掛かってしまったのだろう。何かヘンな行動でもしただろうか。服装に乱れでもあったのだろうか。そこまで考えて、少女はやっと今着ている服が周辺にいる入院患者と同じ、薄緑色であることを思い出した。

「……この服は、別に着たいから着ている訳じゃないですよ。本当です。着せられてしまって、いえ、着ている服は偶然、他の患者さんと似たようなものになっただけで……」

 病室と思しき空間から抜け出したことを悟られないように、何とか彼女は言い繕おうとしたが、かえってボロを出してしまったようだった。

 腕を組んでいる青年は冷めたような目で、支離滅裂になってしまった発言をする少女の姿を、じっと見つめていた。その目は充血していて、彼女はなんだか腐ったイワシを思わせるような薄気味の悪さを感じた。しかし、それは冷酷な役人を思わせる黒い服装に身を包んでいることから生じる雰囲気のようにも思われた。その理由は、相手の両目、黒い目にはわずかに光が宿っており、どうやら目には涙が少しだけ湛えられているように見えたからである。

 けれども、青年の仕打ちはひどいものだった。なんと彼は近くを通り過ぎていく看護師に声を掛けたのだ。

「すみません。この人なんですが――」

 看護師の目に映った少女は、あまりにも場違いな存在として映っていたのだろう。白い服を着ている、いかにも神経質そうな顔つきの女性は驚いた表情で、彼女の顔面、胴体、両腕、両脚を眺めやってきた。

「あなた、いつの間にここに……。どうしてこんな所にいるんですか」

 ややヒステリック気味に声を発した白衣の女は腰に両手を当てて、少女に迫った。

「ちょっと、シンセンな空気を吸いたくて……。それで部屋から歩いて出たんです」

「入院の身で、ここまで歩くとはね」

 少女を売り渡した黒い服を着た青年が関心したように、そんな呑気なことを言ってきた。それに加えて「じゃあ、あとは面倒をみてあげてください」なんて言って、そそくさと退場していった。利益を奪取する連中にも似た青年が悪魔のように感じられたが、兄に似た面持ちだったことを思い出すと、どういうわけか彼に対する腹立たしさが緩和されてしまう。それどころか、ここにいる白衣を着た融通の利かないたちの手を煩わせるのもダメだろうとも感じられてきてしまう。

 しかし、どこか騙されてしまっているような気もする。少女は、あの男が恨めしく思われて仕方がなかったが、完全に憎み切れないもどかしさもあった。

「さあ、ベッドに着きましたよ」

 なんてなれなれしい。あたしはそこまで幼くないと心の中で反発した。しかし、今度は白い衣類で身を固めている女が見張っているし、そいつは動く気配も見せてくれない。仕方ない。少女は観念して、修道女の衣服のような白衣の女の言う通りに、少女は若干乱暴に清潔なだけで煎餅のように固い寝台へ寝そべった。

 たぬき寝入りしていれば、そのうち脱走の機会も巡ってくるだろう。そう思って彼女は目を閉じた。それがまずかったのだろう。意識の有無が混濁してしまっているうちに、どうやら微睡まどろんでいたことに少女は気付いた。そうして徐々に意識が薄れていくのを感じていった。



 夢と言っても、よくある日常の風景だった。父が居て、無論母が居る。平均的で面白みのないステレオタイプな家庭だと心無いことを平気で抜かすものも一定数あるだろうが、それでも少女の家族であることは確からしかった。そのことを一体誰が否定できようか。

 その中には黒いズボンにワイシャツを着た姿の兄の姿もあった。学生服の上着を脱いだのであろう彼は読書に没頭している。少女が遊びに誘っても、いつも突っぱねてくる。物静かで、お世辞にも面倒見が良くない人だった。どんなにねだっても相手にしてくれないので、思わず近所にまで聞こえるくらいに大きな声で叫ぶように呼び掛けた。

そこで夢が醒めた。

 少女にとっては昼寝した程度の睡眠だった。けれども、外に見えていた花はたちまちに崩壊してしまったのだろうか。窓の向こうには草木が力強く生い茂る日差しの強い忙しない世界が広がっていた。

 強烈な日差しから目を背けると、今度は見慣れない人物が視界に飛び込んできた。白衣を着た男だ。彼はなれた口調で喋ってきた。

「おはようございます。調子はいかがですか」

 新しくやって来たであろう人は、少女が横になっているベッドをぐるりと回って、世間話を始めてきた。

「よく眠れましたか」

 白い服を着た男は慣れた口調でそう喋った。初対面の人物相手に、よく軽々と挨拶が言えるものだと、相手の出方を奇妙に感じながらも、少女は当たり障りのない回答をすることにした。

「えっ。……あぁ、はい。おかげ様で……」

 その後、体調に関する質問に二、三答えてはやったが、相手は初対面の中年の男である。彼は一体、何であたしに話しかけてきたのか。彼女には相手の具体的な事情がよく分からなかったが、一応相手の話に合わせておく方が無難であった。

 一通り話した後、体温だの、触診だのをこなした少女はその間、外の情景について考えていた。あの肌寒さが残っていて僅かに暖かく、花鳥風月の豊かな頃は、少女が寝ていた間にも瓦解し過ぎ去ってしまったのだろうか。彼女はそう思うと悲しくなってきた。こんなにもあっけなく時間が推移してしまったら、あたしは恋人もできず、たちまちに。何もできないままに……。

 そんなことを考えているうちに、安静にすることという注文を受けて、寝転んでいた少女は、居ても立っても居られなくなってしまった。誰もいないので、少女は起き上がり、ベッドから出て外の様子を見ることにした。この空間の外に出ないと閉塞感で潰されてしまいそうだったからでもあった。

 扉をこじ開けてみると、そこには同じく殺風景で白一色の窮屈な世界が広がっていた。ホコリの一つも見当たりそうにない廊下の角を曲がり、蛍光灯の並ぶコンクリート製の道を直進し、再び没個性的な曲がり角を折れて行く。どうやらここは入り組んだ迷路のような世界だ。

 ありきたりなデザインばかりでつかみどころのない清浄すぎる細長い白亜の空間を突き抜けていくと、待合室だろうか。気が付けば少女はクッションが配置されているベンチが複数ある空間に入っていた。

 そこに黒い服を着た青年がいた。どこかで見かけたような感じもしたが、はっきりと思い出すことができなかった。どういうわけか、その若い男に既視感を抱いたが、新鮮な感じが強く、それでいて何か身内のような印象を受けるし、他人のような部外性も散見された。どうにも食い違っている二つの印象に彼女は戸惑ったが、きっと、初めて会う人なのだろうと理解することにした。

 本来なら赤の他人だから、素通りして、この息苦しい廊下の出口を探すべきだろうが、なぜか、黒い服の男が深刻そうな顔をして、白衣を身にまとった清潔感のある老人と会話しているのが、妙に気がして仕方がなかった。

「それで、祖母の状態はどうでしょう。……最近じゃ、よく徘徊するようになってしまっているので、……どうしても気にかかってしまって……。それに、あの人は僕のことを完全に忘れているような気もして、……すみません……」

 そう言ったきり、男は口ごもり、ハンカチを取り出して光を含んだ両目を押さえた。どうやらまだ彼女の存在には気づいていないようだった。

「患者さんの状態をこんな所で話すべきではないですが、あくまで簡単なことだけお伝えしましょう。今は健康そのものです。ただ、記憶については、……かなり進行しています。難しいでしょうね」

 周囲を見渡しながら老紳士はそう呟くように言った。彼らの会話が聞き取れない少女は、ゆっくりと青年たちに近づいて行った。

「そうですか。……やはり、僕のことを忘れてしまっているんでしょうね」

「残念ながら、そうかと。……ただ、完全に消えてしまっているというわけではありません。部分的な、その個人にとって重要な、基礎となる記憶くらいならある程度は残っていると思われます。……あなたのお祖母様の場合は刺激を与えなければ健康を保つことができます。無論、その結果――」

 少女は彼らに近づきすぎた。眼鏡を掛けていて、いかにも知的な風貌の、宿老を思わせる年寄の鋭い眼球が、彼女の顔面を瞬時に捉えた。

「あっ、……こんにちは……」

 目が合ったことに戸惑いつつも、彼女は小さい声で挨拶した。

「なんでまた、あなたがここに居るんだっ」

 老練の医師が突然沈黙したので、周囲の状況を察知した背広姿の若い男は少女を発見したために、やや声を押さえながら、そう叫んだ。

「た、たまたま、ここにいただけですよ。それにあなたと会ったのはこれが初めてですよ」

 彼女は青年の発言に訂正を加えたが、脱走していることがバレてしまうと分かったので、それ以上詳しいことは言わないことにした。

 病室から抜け出したことを青年は指摘してきたが、少女は明言を避けた。しかし、次に聞かれた質問はとんでもない難問だった。「どうして僕らが話している中で、近づいてきたんです?」少女は答えられなかった。どこか黒い背広を着た目の前の男に不思議な既視感を覚えたからというのが最も正しい回答であるという感覚があったものの、彼女にその理屈と原因など分かる筈もなかった。

「――なんとなく、です。特に深い意味なんてないわ」

「まったく、あなたという人は……。とにかく、病室から抜け出したことは事実だろう?」

 少女がしてきたことは、既に相手にお見通しであったようだが、少女はすぐさま否定した。

「だいたい、あたしは病人じゃないわ。ただ、ここにいただけ。それに、抜け出したわけじゃなくて、散歩しているだけですよ……」

 応援に駆けつけてきた見ず知らずの白衣の女が、少女を見て驚いた顔をしてきた。そのとき嫌な予感がした。なんだか、窮屈な空間にまたしても押し込められてしまうのではないかと、本能的に思われてきた。

「この通り、あたしは健康そのもので、まったく病気なんかしてないし、元気なのよ。それなのに、こんな病院にいるなんて、おかしな話でしょう?」

 少女はそう言って、青年を見て、そうして周りの緑色の衣服を着た人々や白ずくめ達を見回した。

「そう。それは良かったな。……まったくオメデタイもんだ」

 皮肉のこもった不愛想な発言に、少女は腹が立ってきたが、どこか兄の悪い癖を思わせる行動だった。あの人と言い合ってもラチが明かないのは、いつものことだった。今度はいい加減に、その記憶を教訓として生かすことにした。

「――そう言えば、さっき何を話していたの?」

 どうしたことか、白い服の老紳士は、ぎょっとした顔をして、青年の方を見た。一方の役人を思わせる黒い背広を着た若い男は身じろぎせず、坦々と今までの状況を語ってきた。

「なに、僕の祖母のことでね、色々確認したいことがあったから、こちらの先生とちょっとお喋りしていたのさ。……それだけだ」

 あの時の会話では「進行している」という発言だけは聞き取れていた。親族に会えない辛さを知っているため、青年の祖母なる人の状態が少し気になった。

「それで、あなたのおばあさまはどうなさっているの? お元気そうなの?」

 そう聞くと、黒い服を着た青年は、まるで鏡に映り込んだ幽霊でも見つめるかのように、少女の顔面を強く凝視してきた。

「な、なんです? いきなり……」

 初対面の男の人に、ここまで見つめられるのは気持ち悪い。しかし、青年の顔面を近くでよく見ると、なぜか憎めない面構えをしているように感じられた。

「……何とも言えないな」

 人の顔をジロジロ見ておいて、どうということもない素っ気ない返事をしてきた青年が、少女には少し不気味に思えた。一体、この人はどんな教育を受けてきたのか。あたしが親だったなら、少しは諫めるものを……。ふと少女は余計なことを思ってしまった。彼女にも原因が分からないは、目の前の黒服の発言によって遮られた。

「……先生、この方とは一度直接話をしてみたかったんです。すみませんが、僕と彼女の二人だけにしてくれませんか。後で部屋に送りますので――」

 どこか窮屈そうな黒い背広を着た若い男は、さっきまで話していた白髪の医師に、そう提案した。少女にとっては、あの狭くて面白みに欠ける部屋にいるよりはマシなことであったが、何を考えているのか捉えにくい、この青年がオマケになるのが、ちょっと懸念材料だった。

 青年の案を聴いた白衣の老人は、近くの白ずくめたちを呼び集めて、一斉に発言していった。即席の議論は二三分で結論を産み出した。



「――しかし、あなたも変な人だ。いつもこの廊下を歩きますね」

 いきなりヘンとは何事か。少女はちょっと腹を立てた。それに、こんな変わり映えのしない細長いだけの空間に居るのは初めてだった。

「さっきも少し言いましたけど、ここには初めて来ました。それに、好きこんで歩き回っているわけじゃありません」

「てっきり、この病棟のこの廊下がお好きなのかと思ってましたよ」

 看護師や、医師と思しき人々による合議によって、この白い廊下を散歩することが許されたのは、少女にとってビックリすることであった。しかし、不思議な黒い服の青年の随伴が条件となったのが、どうにも分からなかった。

「好きじゃないわ、こんな所。さっき食べた朝食もおいしくないし、さっき刺してきた注射針も痛いし、飲まされたおクスリだって苦いし、……こんなとこイヤだわ」

 少女は出口を探しながら言った。

「それに、ここの土地勘はまったくないの。人工的で分かりにくいし、……だから、『この廊下』って言いましたけど、ここのことは、よく分からないんです」

 少女は青年の顔を見た。どこか兄の面影を孕んでいるように思われるが、所々で別人の姿が入り混じってくる。親戚のようで、他人のような感じがした。

「……それにしても、あなた、あたしのことをだれかと勘違いしていません? あなたの話を聞いていると、前にも会ったことがあるような話し方に聞こえるのだけど、どうしてです?」

 なぜか脳裏に浮かんでくる不愛想な親族の姿を打ち消すべく、少女は疑問に感じていた青年の不可解な発言について尋ねてみた。

 すると背広の男は少し迷っているような顔をしてきた。その表情は、まるでイタズラに引っ掛かった時の兄のようであった。

「……確かに、あなたの事を、別の誰かと勘違いしてしまったかも知れないですね。あなたに似ている人と思い違いをしてしまったと言えなくもないでしょうね……」

 青年は戸惑い気味で、彼女に語るべき言葉を選びながら話しているように思われた。

「それはだれ?」

 若い男は回答をためらっていたのか、少し間を置いてから、ゆっくりと呟いた。

「教えない」

 ケチ。少女は心の中で毒付いた。そうして、青年が投げ掛けてきた難問に答えてやろうという反発心が芽生えて、少し推測してみると、さっきの医者との会話が思い出されてきた。

「さっき話していた、あなたのおばあさんのことを思い出しながら話していたんじゃないでしょうね? ……だとしたらひどいわ。あたしはそんな年齢じゃないもの……」

「…………」

 黙って彼女の発言を聴いているだけだった青年は、話題を変えてきた。

「……あなたは、今歩いている場所に詳しくないし、どこに何があるのか、まったく分からない。つまり、この場所にいても気持ちは晴れないし、面白くもないというわけだ」

 少女の心情を要約してきた青年はそう言って、立ち止まった。はぐらかされてしまった感じがしないでもないが、背広を着た男の発言を概ね正しいと感じた彼女は先の要約を認めた。

「まあ、そういうことになるね」

 青年は少女の心境をよく理解しているようだった。

「ということはだ、あなたはこの病院から抜け出したいのかい?」

「ええ、その通り。あたしはただ気晴らしに散歩しているだけじゃないの。あなたがここに来られたのだから、必ず、この廊下には出入口があるはず。そうすれば外に出られる。そうすれば外には……」

 そこで彼女は突然口が動かなくなってしまった。説明すべきだったが、言葉が出てこなかった。語るべき何かがあったはずだ。しかし、それが少女の頭の中には思い当たらない。見つからないのだ。病院の外。廊下の外。そこには何かがあったはず。何があったか。何かとはなんだ。親、父と母と、それから兄と……。

「――外には?」

 懐かしい面影を有している青年は少女の発言に興味を持ったようで、彼女にそう話しかけてきた。

「何かがあるんだろう? そのために脱走してきた」

「……ごめんなさい、分からないの。でも、何かがあったはず。心地よくて、落ち着ける場所。忘れちゃいけないもの。あったはずなの。でも、……よく思い出せない。何だろう……」

 少女は、すっぽりと抜け落ちた部分があることに気付いたが、それが何であるか、何と呼ばれているものであったか、正確に思い出せなかった。

 どこか捉えにくい少女の発言を黙って聞いていた青年は、少し間を置いてから、ゆっくりと話していった。

「そうだな、友達がいるだろう。それに家族だって、親兄弟が居るんじゃないか? それに――」

 黒い服を着た男は、そこで発言を止めて、こう言い直した。

「――まあ、とにかく、あなたの回りには色々な人がいた筈だろう。あなたは彼らの事も思い出せないのかい?」

 どうして青年は様々な人が周囲にいることを言い直したのか。よく分からないが、少女は素直に答えていった。

「どうだったかな。でも、確かにお父様もお母様もいるはず。それから……」

 そこで少女は発言を止めた。黒い服を着た目の前の男を見て、何かが頭の中で引っ掛かったのだ。そのせいもあって、家には兄もいるだろう、という言葉を言うべきか、少し迷ったのだ。

「まあ、無理に思い出す必要もないよ。いつかは思い出す時がくるだろうしね」

 何かが頭の中でつっかえていた少女は、気にかけてくれていることを知って、少し気分が優れてきた。

「……うん。ちょっと不安だけど、そうなるかもしれないわね。……ありがとう、少し気が楽になったよ。あなたって、少しはやさしい所があるのね」

 不愛想ながらも面倒をみてくれる一面があった兄を思い返しながら、少女がそう言うと、相手は曇った表情をして、ぽつりと呟くように言った。

「やさしいかどうかは、判断がつかないけどね」

 随分と暗いことを言う。少女は発言の真意を探ろうとした。

「どういうこと?」

「……やさしいというよりか、何かをこう、少し諦めてしまっているような気がするんだよ……」

 ますます分からない。ぽかんとした少女の表情を見てか、青年は先の発言を詳細に言い換える形で喋っていった。

「いや、諦めているというのは、その、何だ……。気を悪くしないで、人の能力を諦めているという事なんだ。つまり、人を信頼するのも程々にしようとすることで……。簡単に言えば、どうせ、何を言っても無駄だと諦めているんだ。だから、他人に自分の思いを話さないし、自分の欲を言わないんだ」

 彼の言っていることの半分が分かるような気もしたものの、それでも少女にはまどろっこしく感じられた。彼女はこう聞いてみた。

「あなたの言ってること、難しすぎて分からないよ。結局、何が言いたいの」

 青年は一呼吸置いて、重そうな唇を動かした。

「――つまりだ、あなたは今までのことを、できれば、全て思い出して欲しいんだ……」

 そんな簡単なことだったら、はじめからそう言えばいいのに、と思いながら少女は青年の顔を見ていた。

「そうね、そうしたら少しは退屈しないで済むかもしれないしね」

 兄を思わせる男は微笑んで、「いつか思い出せるといいね」と言って、再び歩きはじめた。呼び止めた方が良いと本能的に感じられたが、動けなかった。周りの目もあったが、体が言うことを聴かなかったのだ。少女は俯いた。まるで重要な箇所に欠陥があるかのように、声を掛けたいという欲求に制限が掛かってしまった。

「……そろそろ病室だな」

 結局、出口は見つからなかった。このまま落ち込んでいてもしょうがない。せめてもう一度青年の姿を見ようとして、白くて無機質な地面から目を離し、顔を上げると、そこには白衣を着た若い女が病室の戸の前に居た。

「もう時間ですよ。さあ、お部屋に戻りましょう」

 女は優しい声でそう言った。出迎えてくれたのだろうが、少女を待ち構えているのは退屈な空間でしかなかった。

「……どうやら、あなたとはここでお別れのようですね。……楽しかったよ」

 青年はぽつりと呟くように、そんなことを言ってきた。兄の姿を彷彿とされる青年の面影のせいか、目の前の若い男の今後が妙に気になった少女は、こう尋ねた。

「また、会えますか?」

 兄にも似た若い男は、寂しそうな顔をしていたが、明るい声で答えてきた。

「……ええ。きっと、いや必ず会えますよ」

 少し言葉につっかえながらも、そう言って、黒い背広の青年は白い廊下の奥へ歩いて行き、とうとう黒い点になってしまった。彼はどこかの角を折れたが、その光景から出口らしい箇所は見出せなかった。その姿を見送った少女は、白衣の女に勧められるままに、窮屈で白い直方体の中に入り込んで行った。

「歩き疲れたでしょう。お薬をのんだら、少し横になったほうが良いですよ」

 確かに疲労感が少女の身体をむしばみはじめていた。言われるがまま、彼女は錠剤をコップ一杯の水で飲んだ後、清潔なシーツが張られている頑丈な寝台に座り、寝そべった。そして若い女は、さっさと寝ろと言わんばかりに、白い毛布を少女に掛けてきた。頼んでもいないのに余計なことを。そう思った少女はため息が出そうになった。

 さっき見た、あの男に逢うことはもうないように感じられて、なんだか切なく思われてきた。けれども、また会えるような気もした。あの若い女に飲まされた薬のせいか、睡魔が少女に襲いかかってきた。このまま眠ったら、きっと何かを忘れてしまいそうな気もしたが、身体から生じる欲求には勝てそうもなかった。

 この、自分の言うことを聴いてきれない体が鬱陶しい。しかし、止むを得なかった。ここで寝てしまってもいいけど、明日は良い日になってほしいな。そう思うほかなかった。清浄で白いシーツに巻かれた少女は重くなってきたまぶたを閉じ、一向に進展しない辛い現世を忘れされてくれる、大いなる眠りに身を投じていった。

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