第32話 出撃指令
アンジェント侯爵が会議場から出ていったあと、パイアル公爵が尋ねてきた。
「なぜ今戦ってはならないのか。陛下の御前だが忌憚なく聞かせてほしい」
そうか。もし陛下を説得できたら、この出兵を止められるかもしれない。
「はい、公爵閣下。まず今は戦うべきときではございません。先に情報を収集して敵軍、今回はアルマータ共和国軍ですが、その将兵を調べるのです。そうして敵の得意と不得意、できることとできないことを詳らかにして、そのうえでいかに戦うかを決めなければ勝てる戦も勝てません」
公爵が穏やかな表情で見つめてくれている。
これだけの度量がアンジェント侯爵にもあれば、むざむざ負ける戦になど向かわせないものを。
「次に万全の備えはこちら側の準備だけで可能ですが、敵が崩れるのは敵の不備を待つしかないのです。示威行動に出て餌をちらつかせているので、こちらもつい食いつこうとしてしまいますが、それこそが罠なのです」
「イーベル伯の意見もわかるが、アンジェント侯も用兵では一家言ある男でな。そなたの主張がそれに反すれば意地でも押し通そうとするのだ」
「それでは、私の対応のせいでアンジェント侯爵が負けるとおっしゃるのですか?」
「いや、おそらく私が同じことを主張しても、あの男は止められまい。一度決めたことを曲げるような人物ではないのでな」
「陛下、もしよろしければ、今からでも出撃を取りやめるようご指示を出してくださいませんか?」
「いや、ひとたび軍に出撃命令を出したからには、軍の行動は将のみが決めることである」
「将能にして君御せざる者は勝つ。」とは有能な将軍がいて、君主が口出しをしなければ勝つという意味だ。
肝心の将軍が有能でなければ敗北は必至である。
「そこを曲げてお願い申し上げます、陛下!」
「そなたの言いたいことはわからないではない。前イーベル伯が禁断の魔法によってそなたをこの地に転生させたのだから、言い分はもっともなのだろう。しかし伯はまだ若い。宮廷はさまざまな思惑を抱く人物が入り乱れる魔窟である。もう少し腹芸ができるようにならなければ、全軍を率いる将軍にはなれんぞ」
「私がなりたいのは将軍ではございません。軍師です!」
だが名軍師と呼ばれる孫武も将軍として呉に雇われたのである。
ここは体裁にこだわるべきではないのかもしれない。
「それはともかく、此度の戦においては可能なかぎり犠牲者を減らす必要がございます。ここで撃ち減らされてしまっては、後日の再戦にも支障をきたしかねません」
「ではどうするべきだと?」
少し策を弄するべきかもしれない。
孫武もそのへんはあまり得意ではないのだが、並び称される呉起ならば政治家としての発言もいくつか残っていたはずだ。
「軍官吏にお命じくださいませ。圧倒的な不利を悟ったら、将軍の兵権を無視してでも全軍を引き返させるのです。そのための詔書をアンジェント侯爵の軍官吏にお渡ししておけば、犠牲を最小に抑えられるかもしれません」
「伯が同じことをされたとして、黙って兵権を譲り渡すのか?」
「私なら無視します。私が戦うのは勝算があるときだけです。戦えば必ず勝てるというのにやめよと言われてやめるのは国家に反します」
「アンジェント侯も同じことを考えておるやもしれぬぞ」
「しかし、此度の戦には勝機がございません。万に一つの勝ち目もないのです」
パイアル公爵を煩わせていることはわかっている。
しかし言うだけのことを言わなければあとで必ず悔いるだろう。
あのときもっと主張していたら、と。
「伯の考えもわかるが、ここはアンジェント侯の手並みを見届けたい。これが彼にとって最期の戦になるやもしれぬからな。なるべくなら負けずに帰ってほしいところだが」
「それ兵の形は水に
「なんじゃ、その呪文のような言葉は」
「以前お話しした“完全に失われた書物”の虚実篇第六に書かれていた言葉です。戦は水の流れのようでなければならない。水は高いところを避けて低いところに流れていく。戦も、充実した敵を避けて相手の手薄を突くのだ。水は地形によって流れが決められ、戦は敵の態勢に応じて勝ちを決める。だから戦に不変の態勢はありえない。水に一定の形がないように。という意味です、閣下」
「つまりアルマータ軍は充実しているから避けるべきである、ということか。あとは敵がどのように攻めてくるかだな。敵が下手を打ったらもしかしてまぐれ勝ちするやもしれぬ」
「それはございません、閣下。戦にまぐれ勝ちなどというものは存在しないのです。敵の弱点を戦う前から把握して、そこを突くから常勝でいられるのです」
ここまで言って気がついた。
そうか、私は自ら情報を得る機会を潰すところだった。
「陛下、此度の戦、私も戦場の外から観察したいと存じます。必ずや敵の強みと弱みを見つけてまいります。ご許可をいただけませんか」
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