忘飲忘食

北緒りお

第1話

 白くつぶつぶとしたかたまりが茶碗のなかに積み上がっている。一つづつを橋でつまむこともできるだろうけれども、それぞれがねっちりとくっつきあっているので、適当な大きさに塊を分けたほうがいいだろう、と、体の中心がどっかにいってしまったようなふらつきのなかで考えていた。

 こめかみの上を通るようにわっかをつくって、それが頭の中心にむかって外側からぎゅうぎゅうと締めつけてくるような痛みで目が覚めてからというもの、この締めつけに耐えて眉間にシワを寄せているか、時おり痛みよりも眠気が勝り、とろとろとした眠りに落ちるかのどちらしかなかった。

 昨日、気がついたときには、自分がどこにいるのかがわからず、どうしてこうなったのかがわからなかった。

 ぐっすりと眠っていたのか、それとも眠りに近い昏睡にいたのかわからないが、目が覚める直前、ほどよく暖かく、ふわふわとした波のなかにいるような、それでいて、自分の体が上を向いているのか、横を向いているのかわからないような、平衡感覚の狂いに翻弄されていた。

 えらく頭が痛い。でも、トイレにもいきたい。とりあえずは、起きてトイレだけでも済ましてこようと体を動かしたところで、腕と股間にチューブが繋がれているのに気づいた。

 呆然とといえばかっこがいいのだろうが、頭の痛みに邪魔され、考えることや、こうなったまでのことを思い出そうとするのを阻み、濁々とした痛みの渦のなかに思考がうずくまっているような状態だった。

 一人ベッドの上で横になったり仰向けになったりともんどりうっていたところ、巡回している看護婦に見つかり、医者が駆けつけてきた。

 声をかけられたり、医者が俺の状態を見るためなのか体のあちこちを動かせというので、言われるままに腕をあげてみたりしているなかで、今日の日付を聞かれ、たしか、九月の二十日だと言ったものの訂正され、今日が十月の二日だということがわかった。

 日付のズレ以外は、めだった不都合もなく、ただただ頭がいたいと医者に伝えたのだが、医者は俺の今の状態に驚いていた。

 俺は溺れた状態で発見され、長時間の無酸素状態から、脳の機能に大規模な損傷があるのではないかと心配されていた。もっと言うと、意識が戻らないままでいるのではないかと思われていたとのことだ。俺は痛みの波が高架線の下の騒音のように、絶え間なく押し寄せるなか、医者の話を聞いていたが、この痛みをどうにかしてほしい、というのを伝え、それでそれ以上の話ができなかった。

 看護婦さんが点滴のなかに注射器でなにか薬をいれたのがわかったが、横目でそれを見ているだけであり、ああ、とも、うう、とも発声ができず、ただただ見ているだけであった。

 薬のせいなのか、すこしの眠気が来たと思うと、うとうとと一眠りをし、目が覚めたところで、周囲がえらく静かなのに気づいた。

 気づいたというと表現が聡明すぎるぐらいで、急に誰もいない大広間につれてこられたような、静けさの圧迫感に唖然としてしまったのだ。

 病室は静寂であるようでそうでなく、隣室から聞こえてくる医療機器の電子音や、看護婦さんや医者が廊下を歩く音、なにやら診察道具らしきものを乗っけたカートが時々ガチャガチャとしたおとをたてるのも聞こえてくる。こういうのですら、頭痛の騒音から解き放たれたあとでは、「水を打ったような」などと言い表されるような静けさと感じられるのだった。

 久しぶりの平穏な状況に、半ば唖然としながらベッドの上であぐらを組んでいると、看護婦がまたやって来たのだった。どうやらさっきの注射は強力な痛み止めをいれてくれていたらしく、それが効いているとのことだった。ただ、薬が切れるとまたあの痛みが戻ってくるとのことで、今のうちに医者をもう一回呼んでくるとのことだった。

 そこで改めて、医者から脳の損傷の可能性について話を聞かされた。精密検査はこれから機械の予約をとるが、簡単なテストは今やっちゃいましょうと、いくつかのテストをやらされた。

 今日の日付と自分の名前から始まり、家の住所、携帯の番号あたりを言わされ、その他にも医者が挙げた果物の名前を同じように言う、また、早口言葉をいくつか繰り返す、からだのあちこちに鈍い針をつき当てられ、それがどこにあるかをあてる、などの、本気でやってるのか冗談なのか判然としないような検査を一通り受けた。

 とりあえず、医者の所見では奇跡的に障害が残らずとのことで、今日は夕御飯を食べてゆっくり寝ていろとのことだった。

 痛みがなくなると、体が自己主張し始めるのか、今まで気にならなかった、足の爪が伸びていることや、長いことちゃんと風呂に入っていないからか、あちこちがうっすらと脂ぎっているような不快感なんかが気になりながら、布団にくるまり、鎮静を堪能していたのだった。

 ほんの少し寝てしまった頃だろうか、あまり深く寝ってないせいもあり、すこしの物音で目を覚ました。

 看護婦とは違う女性が夕飯を運んできた音であった。

 お盆の上には小さいお椀が三つほどならび、その上にはドロリと白濁した所々に白色の粒が見え隠れする暖かなお湯状のもの、親指の先ぐらいの大きさだろうか、くすんだ赤紫で、いやにシワシワになっている小さな木ノ実らしきもの、それに深い緑色の濡れそぼった布っぽいものが単一電池ぐらいの大きさにゆるく固めてあった。

 箸をもったまではよかったが、そのあとどうしていいのかがわからず、白濁した湯を底になにか入っていないかつついてみたり、緑色の布っぽいものを少しつまんでひっくり返したりしていた。

 巡回してきた看護婦と目が合うと、どうしていいのかわからず、これ、どうしたらいいんでしたっけ? などと、間の抜けた質問をしてしまった。

 質問された看護婦も、なにを聞かれているのかわからないようで、どうぞ召し上がってくださいなどと言っているのだが、召し上がるものがないからきいてるんであってそれが伝わってないようだ。

 押し問答をしたわけではないのだけれども、これをどうしたら良いのか本気でわからないってのを力説していると、少し待っててくださいねと看護婦は言い残し、どこかに消えてしまった。

 やることもないので、湯をじっとにらんでいた。

 陶器を模した樹脂製のお椀のなか、白濁した緩いペーストのなかに、ほろほろと崩れてはしまって入るもののずんぐりとした楕円を思わすような小さな粒がまばらに沈んでいる。まるで、浮き上がろうとして途中でやる気を失い表面までは届かず、かといって沈むわけでもなく、放っておいたら数年後でもそこで漂っていられるだろうと思うような重力間のなさでぽつぽつとならんでいる。少し冷ましてから持ってきたのか、ゆらりと湯気が立ち上ぼり、表面にうっすらと膜が張っていた。

 後遺症があるかも、と俺に伝え、受けてる方が気恥ずかしくなるような検査をしていった医者がもどってき、どうしましたと、俺に現状を説明しろと求める。

 俺は、持ってこられたこれらのお椀や箸をどうしたらいいのだろうと聞いたのだが、ここで新しい質問をなげられた。

 あなたにはこれがどのように見えてますか、と言う。

 見えているままに伝えた。

 この事を医者に伝えると、お腹が空いていますかと聞かれた。特段すいているわけでもないが、減っているわけでもない。かといって具合が悪いわけでもなく、春先の日中のように、平々凡々と何事もない、というのが今の状態だろうか。

 食べたくないのですか、と聞かれたが、食べ物でないものを食べたいという感覚がわからなかった。

 医者は、目の前にあるスプーンを使い、俺の目の前にある白濁したお湯を一口を自分の口に入れ飲み込んだ。

 看護婦が配膳用のカートから新しいスプーンを持ってくると、医者はそれを受け取り、俺に向かい同じことをやってみろと言う。

 かるく掬い上げ、スプーンに入っている分をくちびるで口のなかに閉じ込めた。

 口のなかにはかろうじて形を保っていた粒が形を崩し、正体をなくして何粒かが上顎についたりしていた。粒がただよい、汁が舌の上だけではなく、上顎のしたにもくっついてくる。

 医者がどうでしたと聞くが、俺は口のなかにはいているからなにもしゃべれず、手をダメだというように左右に降り、口のなかを指差して、両手でばつを作った。

 飲み込んでいいんですよ、といわれ、のどの奥に追いやろうとしたができない。舌が邪魔をして喉の奥に流れていかないのだ。しょうがないので顔をうえにあげ、口と喉とを一本のまっすぐの管にしてしまえば飲み込めるだろうと思ったが、ここで俺は溺れかけた。

 のどに流れ込んでいき、ひと安心とおもったら胸の奥から発作的に込み上げてくる激しい咳の連打になり、息ができなくなったのだ。

 ひとしきり咳き込み、やっと咳がでなくなったが、落ち着いた後は肩で息をするほどの苦しさであった。

 医者は精密検査を急ぎましょうと言うと、看護婦に何やらニ三の指示を出すとどこかに行ってしまった。

 点滴には新しい袋が追加された。

 また、少しうとうととしていたが、痛み止が切れたのか、鼓動に合わせきりきりと頭を締め付けながら削岩機が動脈でのたうち回っているような頭痛に襲われていた。

 鎮痛剤さえ打ってくれればいいのだが、かなり強力な薬らしくなかなか追加してもらえない。眉間に力を入れすぎ額の辺りが筋肉痛になりそうなぐらいになったとき、やっと点滴の管に鎮痛剤の注射を追加してもらえた。

 この痛みの退きかたというのは、正座していた足のしびれが、はじめはどうにもならないぐらいだったのが、砂時計が落ちていくみたいに少しづつ消えていくあの感じににている。その様子が顔に出ているのだろうか、やっと口が聞けそうなぐらいになったところで、医者が話始めた。

 どうやら俺は高次脳機能障害というものになっているらしい。

 医者も検査がどうこうと前置きを入れ、現段階では言い切れないといっているが、そういう方向性で精密検査や今後どうするかについて対応するとのことだった。。

 医者が言っていたことを正確に把握できたかわからないが、俺の脳は、一見は正常のように見えるが、あることをしようとすると、その回路だけが正常に繋がらず、うまくできなくなってしまうものらしい。医者があげていた例だと、人の顔だけがわからなくなるというのがあり、人の顔が覚えられないとか物覚えが悪いとかではなく、顔であるということがわからなくなるといった状態になってしまった例。また、話をしていると正常なのだが、数時間経つとその記憶がまるまるなくなってしまう例というのもあった。曖昧な記憶になるというわけではなく、一定の時間が経つと、キレイにそのこと自体を忘れてしまうというのもあるのだそうだ。

 それで、医者が見立てるには、俺は食べ物を見ても食べ物と認識できなくなったんじゃないだろうか、それにあわせて、食べるための基本的なからだの動作、噛むとか飲み込むとかの一連が消えてしまったんじゃないだろうか、ということだった。

 あまり大袈裟な障害じゃないなあ、なんて考えていたのだが、医者が言うには、死活問題であるので、なぜそうなっているのかの原因究明ができるまえに、とにかく飲み込むこと、ができないといけない。と言われた。

 食べることができないと、本人の自覚は無くとも、ゆっくりと飢えていってしまう。

 そこで言われたのが、食べるためのリハビリをする。ということだった。

 医者の見立てではものを飲み込むことを制御できないだけであり、すこし練習すればどうにかなるだろう、とのことだった。

 リハビリをするまえにいくつか試験をしたいといわれた。

 なにをされるのかとおもったら、耳掻きの先程の量だろうか、黒い粉末を口のなかに放り込まれた。それで、できるだけ口のなかを動かさないようにしてじっとしていてほしい、十分ぐらいしたら見に来るから、と言い残し、医者はそそくさとどっかにいってしまった。

 放り込まれるまえに、これはカーボンの粉末で、要は清潔な木炭を無味無臭にして粉にしたようなものです、などと言われ、俺はキャンプファイヤーか何かか、と思ったのだがくちにはしなかった。

 舌のうえになにかが乗っていると思えば、そう思えるし、なにもないと思えばなにもないように思える。ただ、黒く鉛筆の芯の削りカスみたいなものが乗っているのだけれども、それも、そうだというのを知らなければなにもないのと変わらなかった。

 医者がやって来て、口のなかをペンライトで照らしながら観察し、からだの機能としてはちゃんとものを食べることができるから、たぶん、練習で食べるという動作は元に戻るだろう、と告げると、看護婦からまずは水を飲む練習をしましょう、と言われた。

 どうやら、俺の脳は意識して飲み食いしようとするとどうやるのやらわからなくなるのだが、無意識のうちであれば、どうにかこなせるようになっているのだという。なので、まずは無意識での飲み込みがどれくらいできるかの確認だと言われた。

 そこで看護婦に渡されたのは、スプーン一杯の水だった。これをとりあえず口のなかに含んでおいてください、という。飲めそうだったら飲み込んで構いませんが、無理して飲もうとすると肺にはいって危険なので、自然に減っていくようであればそうしてください。という、するなとは言われるけれども、なにかをしろと言われているわけではない曖昧な指示をもらった。

 スプーンから流し込んだ水は、口のなかで舌の表面をくぼませたところにためておき、それからなにをするというわけではなく、ほんのわずかな水をためておくうすらでかい容器となっていた。

 舌の上でよどんでいる水は、口に入れたときにはわずかに冷たさを感じたように思ったが、ほどなく温度差は感じなくなった。いつぞや口のなかにまかれた炭素の粉と違うのは、存在しているのかどうかがわからないというものではなく、たしかに口のなかにあるのがわかるところがおおきな負担となっていた。

 十分ちょっとだろうか、もしかしたらもうちょっと短い時間かもしれないが、舌がつりそうだったので、やめたくなってきた。しかし、看護婦は見当たらず、飲み込もうにも、まえに粥でむせかいり、窒息しかけたこともあり、むやみに喉の奥に送り込もうとすると危険であるということはわかっていた。

 これぐらいの量ならば吐き出してしまってもいいのだが、そうしていいのかどうかも看護婦に聞いてからの方がいいであろう。そう考えると、むやみに吐き出すわけにもいかず、もて余していた。

 舌のうえにとどまらせておこうと思うからつかれるんであって、動かしていたら変わるかと思い、水の置場所を変えてみる。舌の上から下にしてしまえばすこしは楽であろうとやってみると、舌は楽にはなった。

 しかし、窪ませておくという動作を持続させなければならないというのがなくなったというだけであり、下にしたらしたで、そこにとどめておかなければならないというのもおっくうであった。

 他に、ほほの内側に入れたり、前歯と唇の間に移したりとしていたが、どれもこれも意識して留めて置かなければならなかった。

 そこで、口全体に水を伸ばし、漫然と口全体でおいておくことを思いつき試した所、これがいい結果となった。

 口の中からゆっくりと喉の奥へと水が流れたのでった。

 看護婦にそのことを話すと、だんだんと水の粘り気が強くなってきた。はじめは、ゆるいペースト状となったものが、だんだんと硬くなり、スプーンから口に移すのに唇に力がいるような、固いペースト状のものとなった。これらのものも、口の中でまんべんなく広がるようにしてやると、だんだんと喉の奥へ流れていくように担ったのだった。

 入院してから今まで、俺の体を維持していたのは点滴による養分だった。

 しかし、少しづつでも自分の口で取ることができるのであれば、そのようにしようと医者が告げられた。

 つまりは、俺は、やっと生きるという事が自分でできるようになりはじめたということだ。

 大げさな感動はないが、妙な高揚感と、目の前の道が暗雲だったのが、急に霧が晴れたような爽快さに近い感じがった。子供がハイハイをできるようになった時、大人のような思考能力があればこういう感じになるのではないかと思う。

 その日のこと、警察官が面会したいと病室にやってきた。

 そもそも俺は、溺死しかけて復活したのである。その溺死の理由について話を聞きたいという。

 教えて欲しいのはこっちの方だったが、断る理由も無いので話をした。

 俺は、秋の始まりにしては肌寒い日の朝、用水路に浮かんでいる所を見つかったこと、胃の中からは処方箋が必要となる薬、鎮静剤や睡眠薬が出てきたこと、そして、それらに合わせ大量のアルコールが血液から検出されたことを知らされた。

 その瞬間、晴れたはずだった霧が俺の前を覆い始めた。

 そして、用水路の下流に俺が履いていたであろう靴とメモ書きが残されていたとのことだった。

 警察の人が言うには、今の段階ではみないほうがいい内容であるのだが、君は自分でそういう状況になるようにしたのだとのことだった。

 急に息苦しく、今吸っている空気がザラザラとした不快感を感じた。

 窓際に立っていた警官に頼み、窓を開けてもらう。

 大きく開いた病室の窓から、初冬のよく澄んだ空に目をやりどこか別の方向に意識向けようと顔を向けると、肌に軽く力が入るような冷えきった空気が入ってきた。ほどよく暖かい病室のなかは、心地はいいのだけれども長い間呼吸で煮込まれたような淀みがあり、外から流れ込んでくる冷ややかでどこまでも透明に思える空気は、無味無臭であるはずなのだが、すこし甘美な鼻腔の刺激があった。

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忘飲忘食 北緒りお @kitaorio

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