悲しき物語
――少女と子猫
昔々その昔、下川原村と呼ばれる大きな村があった。
この村は愛鷹連峰山から始まる源流、赤渕川の下流に位置する村だった。
ある年の夏、七月二十三日のことだった。
何十年に一度といわれるほどの大豪雨に見舞われた。
川の堤防はついに決壊し大洪水が発生した。その川の下流に位置するこの村は濁流にのみこまれた。
村の人々は逃げる間もなく、押し寄せる濁流にその多くの人々が村ごと押し流され、尊い命を落とした。
そんな中、奇跡的に濁流から命からがら逃げ伸びた少女がいた。少女は目の前で濁流に押し流されてゆく家族をただ見ていることしかできなかった。
少女は絶望に打ちひしがれていた。
そこへ濁流に流されてゆく一匹の子猫を見つけた。
それを見た少女は、自分の命も顧みず濁流の中へ飛び込み子猫を掬い上げた。
力なき少女が自然の脅威に立ち向かうには、あまりにも無謀だった。
少女は子猫と共に濁流に押し流されていった。
流されていく途中、木から伸びる枝に何とかつかまることができた。
少女は子猫を木に登らせると、濁流に押し流されないよう必死にしがみついた。
少女は何度か木に這い上がろうと試みたが滑り落ち、木に登ることができない。
ただ濁流にのみ込まれないように必死に枝につかまることしかできなかった。
子猫は声が嗄れても必死に鳴きながら少女を励ました。
その時だった。
上流から濁流に乗った大木が、少女めがけて勢いよく流れてくるのが見えた。
それに気づいた少女は何とか木に這い上がろうと必死だった。
無情にも少女の体力が底をつき、もうどうすることもできなかった。
少女は顔を上げ子猫の無事を確認すると、子猫に至極満面の笑みで微笑んだ。
それは見たこともないほど美しい慈愛に満ちた微笑だった。
不思議と少女の表情に恐怖の色を感じなかった。
それどころか、どこか解放されたかのような清々しさまで感じられた。
きっと少女は、最期に子猫の恐怖心を取り除いてあげたかったのかもしれない。
「あなたが無事でよかった……どうか……あなただけでも無事に生き抜いて……」
そう言うと少女の手は枝からすっと離れ、凄まじい濁流の渦にのみ込まれていった。
一瞬だった……少女は子猫の目の前から消えてなくなった……。
子猫と少女の初めての出会いは、最期の別れでもあった。
子猫は思った。
もしも僕が人間だったら……
少女の手を離すことはなかっただろう。
もしも僕が人間だったら……
この手で少女を救い出せたのに。
もしも僕が人間だったら……
少女の身代わりにだってなれたのに……
もしも……
もしも……
僕が猫だったばかりに……
少女を救うことができなかった。
僕と出会ってしまったばかりに……
少女は尊い命を失ってしまった。
僕が生まれてこなければ……
少女は素晴らしい人生を歩んでいたに違いない。
僕が……
僕が……
猫は悔やんでも悔やんでも悔やみきれなかった。
どんなに悔やんでも、少女は
その後、村には地蔵が建立され死者の魂をともらった。
この悲しい出来事を後世に伝え忘れないように、生き残った者たちが希望をもって生きれるよう、願いを込めて一本の銀杏の木が植えられた。
子猫は、少女のおかげで寿命が尽きるまで生きることができた。
やがて子猫は死を迎えると地蔵に救いを求めた。
ある少女に助けられこれまで生きてこられたことを。
その少女を助けることができなかった心残りを。
子猫は、何度でも生まれ変わり少女の元へ巡り合わせて欲しいと。
いつか少女に恩返しがしたいと、地蔵に強く願った。
地蔵は子猫のその願いを聞き届けてくれた。
そして子猫は何度も何度も輪廻転生し、少女のもとへやってきた。
少女が寒さで凍えている時、子猫が少女を温めた。
少女が悲しみに打ちひしがれている時、子猫は傍で寄り添った。
少女が食料に困り飢えてしまいそうな時、子猫は食べ物を運んだ。
少女が一人ぼっちでこの世を去る時、寂しくないように最期を看取った。
少女は何度生まれ変わっても悲しみの中にいた。
だから子猫は永遠の時を少女のために生き、少女の幸せを心から願った。
いつしか子猫は少女に恋をした。
実らない恋だとわかっていた。
それでも子猫は少女を想い続けた。
永遠に叶うことのない願いだということもわかっていた。
それでも子猫は少女を愛した。
少女だけをずっと見つめてきた。
少女の幸せだけを願って。
抱えきれない程の愛を。
精一杯の愛を。
その全てを惜しむことなく少女に奉げた。
子猫には願いが一つだけあった。
幸せそうな少女の笑顔を見てみたい。
子猫の儚い願いだった。
子猫は今もどこかで少女の幸せを願い見守っているのであった。
――なんて悲しい物語なのだろう。クラスの皆が泣いている。先生までも……
彩夏の瞳から絶え間なく涙が零れ落ちていった。
温かいものが彩夏の肩に触れた。
「彩夏……大丈夫?」
「ちっとも楽しくなんかないじゃない。こんなにも悲しい物語を書いていたなんて……」
「銀杏地蔵の昔話を書いた……」
まだ涙が止まらない彩夏は両手で涙を拭っていた。
「創作でよかった……いくら何でも、悲しすぎるでしょ……」
「……ごめん、君を悲しませるつもりはなかった……」
彩夏があまりにも泣くため深彗も悲しげな表情を浮かべていた。
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