僕の知らない君 ④
あの頃私の家は貧しかったから?お金がなかったから?否、そうではなかった。
当時事業は、大手企業の下請けを担い右肩上がりの急成長だったと記憶している。
いくら儲かっているとはいえ、毎月二十万以上の交際接待費はざらで、数々の高価な贈呈品をデパートから購入したり、高級車を乗り回しブランドバッグを惜しげなく購入する母の派手な暮らしぶりは、子供ながらに目に余るものがあった。
そこへパチンコ依存症だった母は、暇さえあればパチンコ屋に入り浸っていた。お金を湯水の如く使う母の金銭感覚は異常なものがあった。それは、現在も然り。
そんな母と祖母との間には確執があった。祖母は、忙しい母に変わり彩夏を育ててきた。いつしか祖母を母親のように慕っては懐つく彩夏を忌み嫌う母。
母の仕打ちは彩夏の成長と共にエスカレートしていった。ご近所さんは、それを知ってか知らずか、彩夏の実母なのに継母と噂するほどに。
今にして思えば、ご近所さんは葉月家の異様さに気づいていたのかもしれない。
虚空を見つめる彩夏は、忘れ去りたい過去の数々の出来事を思い出し苦しげな表情を浮かべた。
「彩夏……僕でよかったら、何でも言って……」
「ありがとう……本当に大丈夫だから……」
作り笑顔をして見せるけれど、深彗には彩夏が泣いているように見えた。
この時、深彗はまだ彩夏の悲しみの原因を知る由もなかった。
ただ、彩夏を守ってあげたい、そう強く思った。
「彩夏、これから行きたいところがある。ちょっとつき合ってくれないか?」
「いいけど。どこに行くの?」
「ここ、海に近いだろ?」
「どうしてわかったの?」
「さっきほんのりと潮の香りがしたからさ」
僕たちは海を目指して歩き始めた。
暫く歩くと海風に乗って潮の香りがしてきた。海はすぐ近くだ。少し先には漁港と灯台が見えてきた。
漁港を横目に更に歩いていくと、高さ十メートルはある防波堤にたどり着いた。その防波堤は上に登れる造りになっていて、僕たちは上を目指すことにした。
上がりきると突如視界が開け、眼下には碧い大海原が広がり反射する日の光に眩しさを覚えた。
海から吹きつける色なき風は、彩夏の長い髪を悪戯に遊び深彗の頬を掠めた。
そのやわらかな髪に触れてみたい心境に陥ったがぐっと堪えた。
乱れた髪をかきあげる彩夏の何気ない仕草に、深彗の心臓は跳ね上がる。
本人は全く気づいていないようだが、大人びた雰囲気を醸し出す彩夏はとても魅力的に映った。
「綺麗な髪だね」
深彗の率直な言葉に目を丸くした彩夏は、はにかみながら髪に触れ「ありがとう」そう言って微笑んだ。
大人びているようで、どこかあどけない一面を覗かせる彩夏にまたもや魅せられてしまった深彗。
――心臓の鼓動がどうしようもないくらい速く大きくなっているなんて、きっと君は知らないだろう。
こんなにも人を好きになったのはこれが初めてだと自覚する深彗だった。
そこは遮るものがなく湾を一望することができた。
澄み渡る蒼天に
どこまでも続く水平線は地球の丸みを感じるほど遥か遠くまで望めた。
「学校の高台から望む海の景色を気に入っていたけど、こうして実際、目前に眺める海は清々しくて心洗われるようだ」
深彗は遥か彼方の水平線を眺めながらそう言った。
「そうだね。海って凄いね」
そう言って遥か彼方の水平線を見つる彩夏は、海に抱かれ心が浄化されていくような癒しの感覚を覚えた。
湾曲した海岸線に沿って、遥か遠い町まで何十キロにも及ぶ防波堤はまるで城壁のよう。振り返ると、日本一の山が誇らしげにそびえ立ち、その雄大な景色に圧倒された。その壮大なスケールは今までに見たことがないほど見事なまでに美しく絶景だった。
「君はこんなにも素晴らしい自然の景色の中で育ったんだね」
「当たり前のように見てきたからあまり意識したことはなかったけど。言われてみれば確かにそうかもしれない」
二人は、防波堤から望む絶景を堪能した。防波堤は人々の憩いの場となっていた。
お年寄りや親子連れの姿、犬を連れて散歩する者、ジョギングする者、自転車サイクリングする者、日光浴しながら読書する者、スケートボードを楽しむ若者、皆各々の時間を満喫しているようだ。
二人は防波堤を歩き始めた。眼下にジャリだらけの浜が続いていた。
ジャリの浜は浸食されているのか、無数の波消しブロックが摘まれている。
「この海の湾はね、とても深くて最深部は水深二千五百メートルと言われていて、日本で最も深い湾と言われているの」
「湾の中がそんなに深いの?」
「うん。だから深海魚がとれるんだよ」
「どんな深海魚がいるの?」
「この深海にはタカアシガニと言われる巨大なカニが生息している。食べることもできるんだよ」
「それならば水族館で見たことがあるよ。エイリアンみたいにデカい奴でしょ」
「そう、そう」
「深海には未確認生物がいっぱいいるだろうな」
「それって、まだ誰にも見つかっていないてこと?」
「そうだね。人は深海まで容易に潜ることはできないだろ?無人探索機で深海の調査を行っているようだけど、深く暗い海の中ではまだ見つかっていない生物がいてもおかしくないと思わないか?」
「うん、確かに、そうかもしれない」
「まだ人が踏み入れたことのない未開の領域には、古代都市なんかが眠っていたりして」
「古代都市?」
「そうだな、天変地異で水没したとされる伝説の島アトランティス大陸やムー大陸、レムリア大陸に栄えた都市のこと」
「なんか聞いたことがある。未だ解明に至っていない古代ミステリーでしょ。なんかロマンがある話だね」
「そうだね」
「もし、この湾にそんな伝説めいた都市が見つかったら歴史的大発見だね」
「そうしたら君は幻の大陸にかつて栄えた古代人の末裔かもね」
「なんかスケールの大きな話になってきたね」
「でもそんな大陸が海の底に沈んでしまうなんて人間は自然の脅威には敵わないってことだね。人間は何て無力なんだろう」
「さぞかし怖かったでしょうね……」
彩夏は、深海の海の底に想いを馳せた。
――深くて暗い海の底はどんなだろう。仲間を探すのだって一苦労だろうな。一人ぼっちで寂しくないだろうか……
彩夏は自分と深海の生物たちをシンクロさせ思考の世界に浸っていた。
「海は好き?」
深彗の質問に、彩夏は思考の世界から現実世界に意識を戻した。
「見るのは好き。だけど泳ぐのは苦手かな」
「泳げないの?」
「ううん。こう見えて私、元水泳部なの。泳ぐのは得意だよ。ただ、プールは底が見えるけど、海は見えないでしょ。それにどこまでも深い海の底はなんか怖い気がする。ただ何となく嫌なだけ。その感覚は不思議と物心ついたころからなの。自分でもよくわからないのだけれど。物心ついた頃から繰り返し見る同じ夢のせいかな」
「繰り返し見る同じ夢?どういう夢なの?」
「濁った水が辺りを覆いつくす夢。私はなぜか少し高いところから下を見下ろしているの。ただそれだけの夢なんだけどね……」
「なんか不思議な夢だね。子供の頃溺れたりとかしたの?」
「ううん。溺れたことはないの。ただその夢から目が覚めた時は決まってトイレに行きたくて駆け込むけどね」
深彗は拳を口元に宛て笑いを堪えているように見えた。
「深彗君は海が好きなのね」
「僕もあまり好んで海に入る方ではないけど。学校の高台から見る海があまりにも綺麗だったからね」
「じゃあ、私と同じだね」
「あ、珍しく気が合った」
深彗に揶揄われ面白くない彩夏だった。
「今日ここに来ることができてよかった。深彗君のおかげだね」
「今度はやけに素直だね」
彩夏は深彗の顔を見てむっとした表情を見せた。深彗はそんな彩夏を見て笑った。
「言ってもいい?」
「何?」
「さっきの夢の話なんだけど。夢から覚めた時トイレに行きたいってやつ。それってもしかして……幼い子がよくする、おねしょの前触れってやつ?」
彩夏は顔を真っ赤に染めた。
「酷いよ、深彗君!もうおねしょなんかしてないからね!」
二人は声を上げて笑った。深彗は、海に来て本当によかったと思った。
やっぱり、笑っている彩夏の顔をずっと見ていたい。深彗はそう思った。
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