秘密 ①

「ただいま……」

 彩夏は、帰宅するとすぐ台所に向かい弁当箱を流し台の中に入れた。

「おばあちゃん、今日もお弁当美味しかったよ」

 そう言うと祖母はつぶらな瞳を細くして頷いた。

「この匂い。もしかして今日のお夕飯は唐揚げ?」

 彩夏は目を輝かせた。料理上手の祖母の料理は何を食べても美味しい。中でも唐揚げは絶品だった。

「そうだよ。皆いつ帰ってくるか分からないから先に食べな」

「うん、じゃあそうする。先に着替えてくるね」

 彩夏の家は両親が自営業を営み帰宅時間も決まっていない。返ってきたと思いきや着替えて再び出かけることも多々あった。

 二人の兄たちも大学に通いアルバイトもしているため、帰宅時間が遅く皆で揃って食事をすることはここ何年もなくなった。おかげで両親と顔を合わせて食事することもなくなり、彩夏にとって気が楽だった。

 祖母と二人、たわいもない話をして過ごすことが彩夏には心安らぐひと時だった。

 着替え手洗いうがいを済ませた彩夏は、ダイニングテーブルのいつもの席に着く。

 既にテーブルにはおかずが並べられていた。料理好きの祖母はいつも何種類ものおかずを用意してくれてある。鶏の唐揚げ、生野菜にはレタス、ふんわり刻まれたキャベツ、ブロッコリー、きゅうり、トマト、クルトンが盛られている。豆腐とわかめと油揚げの味噌汁。ポテトサラダ。筑前煮。揚げ出し豆腐。自家製のきゅうりと茄子のお漬物。どれも美味しそう。いつも食べきれない量のおかずが並べられている。

「いただきます」

 彩夏は両手を合わせて祖母と食事に感謝を奉げた。祖母は食べず、彩夏が食べている様子を見守っている。いつもの光景だ。

「ん~!やっぱり、おばあちゃんの唐揚げは絶品だね!」

 彩夏は目を瞑りながら呟いた。

「たくさん食べなさい」

「量が多くてこんなには食べられないよ」

 祖母はいつ誰が突然訪れても困らないように多めに作る。事業関係者が突然やってきて、夕食を食べて帰ることは日常茶飯事だった。

「学校は楽しいかい」

 祖母の何気ない質問に彩夏は思わずむせ込みそうになった。

「……ん、まぁ……そこ、そこ……?」

 祖母の質問にぎこちなく返答する彩夏。本音を語って祖母を心配させたくはなかったからだ。大好きな祖母にだって心の内を語れない彩夏だった。

「新しい友達はできたかい」

 一瞬、深彗の顔が目に浮かんだ。

 ――ない、ない。ありえない

 彩夏は深彗の存在を心の中で否定する。彩夏は自ら人との間に目には見えない壁を作り自分を守ってきた。友達なんてできるはずないのだ。

「ん……話をするクラスメイトは……いるよ」

 祖母が心配しないように無難に交わした。

「それはよかった」

 祖母はいつだって優しい。彩夏は祖母を母のように慕っている。

 彩夏は祖母の美味しい手料理を頬張ると、時折目を瞑ってみたり頷いたりしながら黙々と食べた。そんな彩夏を祖母は見守っている。

「ふ~、食べた。おばあちゃんごちそうさまでした。美味しかったよ」

「もっと食べればいいのに」

「量が多くて、さすがにもう食べられないよ」

 祖母の入れてくれた緑茶を飲みながら、彩夏は柱時計を見上げた。今日は両親も兄たちも帰りが遅い。

「先にお風呂入ったらどう?」

 面倒な両親が帰宅する前に風呂を済ませておくことにした。

「うん、そうする」


 浴室の鏡は立ち込める湯気で曇っている。鏡の中の世界は真っ白でこちらとは違う世界を映し出している。自分はここに存在して居るのにそちらの世界には存在しないように見える。

 ――存在しない自分……今私がいなくなっても悲しむ人はいないだろうな……

 彩夏には部屋も学習机もない。二人の兄たちはそれぞれ個室が与えられているが、彩夏は幼い頃から祖母の狭い部屋で布団を並べて一緒に寝ている。

 昔から宿題や勉強はダイニングテーブルかリビングテーブルを使用していた。

彩夏は自分の部屋と机に憧れを抱いていた。

 小学生の頃友達の家にお邪魔すると、皆自分の部屋があり、小学校に上がると同時に机も用意されていた。ベッドも置かれていてなんだか羨ましかった気がする。

 人というものは面白いもので、自分の部屋があるというのに友達は部屋を荷物置場として使用しほとんどをリビングで過ごしていた。一人じゃ怖いと言って祖母や両親、姉妹と一緒に寝たりしていると聞いたことがある。

 年頃の彩夏は着替える場所がない。いつも着替えは風呂場の脱衣場を使用していた。

 そして何より両親が喧嘩した時や父がお酒を飲んで暴れた時、逃げ場が欲しかった。その場にいるしかない彩夏はいつも巻き込まれてしまうからだ。

 幼い頃から彩夏が辛い思いした時、祖母がいつも励ましてくれた。

 ――祖母がいなかったらこの家で自分はいったいどうなっていたのだろう

 想像しただけでも背筋がゾッとした。

 祖母は自分の息子健一、すなわち彩夏の父にも遠慮している。祖母は息子がお酒を飲んで暴れても物申さない。父がお酒を飲んで暴れるたびに祖母はただ黙って割れた食器を片付けたり、床を拭いたりしている。それが母には気に入らないのかもしれない。

 彩夏の祖母節子の夫、貞一は幼き息子三人と妻を残して早くに病気で他界した。

 祖母は再婚せず女手一つで三人の息子たちを育て上げた。きっと言いようのない苦労があったに違いない。

 しかし祖母は愚痴一つ零さずこれまでやってきた。彩夏の父、三兄弟の長男であった健一は父親の死後、母を支え母子家庭で貧しい生活にも耐えてきた。

 父健一は母親が仕事で不在中、父親がいないことをいいことに近所に住むチンピラに脅され、金をせびられることもあったという。この話は、彩夏がお酒に酔った父から耳にたこができるくらい聞かされた話だった。

 父は母勝代と結婚するまでは真面目で大人しく、とても親孝行な青年で優しかったと祖母や叔父たちから聞いたことがある。彩夏には信じ難いことだが……。

 確かにお酒を飲んでいない父は大人しく、声を荒げ暴力を振るうことはなかった。

 そういえば、父は彩夏が小学生の中学年の頃まで、兄たちと一緒にキャッチボールをして遊んでくれたことを思い出した。幼き頃は肩車をしてくれたり、高い高いをしてもらったりした記憶もある。

 父は生き物が大好きで行き場のない動物たちを保護しては引き取り、可愛がっていた。本当は優しい父。

 そのせいか、家族唯一の共通点は動物好きなこと。『うちは猫を切らしたことがない』父が口癖のようにいう理由はそういうことであった。

 そのため彩夏が物心ついたころから猫と暮らし、そのせいか彩夏も大の猫好きだ。  

 今庭にはクロと呼ばれる全身真っ黒な被毛に覆われた番犬も飼っている。

 彩夏が小学生にあがった頃のこと、多種に及ぶ保護した動物であふれていた時期があった。犬・サル・キジを飼っているときは桃太郎の家といわれるほど有名になったこともあった。

 父は若い頃、三男の弟と起業し小さな工場の社長となるが、頭の切れる弟三男に会社を乗っ取られそうになったと聞いたことがある。

 それは彩夏の母勝代の話だから偏りがあると思われるが、父は母と結婚してから人が変わってしまったというのは本当のことらしい。どうしてそんなにも変わってしまったのか真相は分からないが、父はいつしか酒に酔うと暴言・暴力が絶えない人間になってしまった。

 祖母は、父がこのようになってしまったことにどこか負い目を感じているように思えた。だから父が暴れても何も言えないのだと思う。

 本当の父は心根の優しいところがある。その優しさは弱さいという欠点でもあり、弱い父はお酒で気持ちを紛らわしているのかもしれない。

 だが、暴力は許されるものではない。暴力では何の解決にもならないというのに。

 皆がいうことが本当ならば、昔のような穏やかで優しい父にかえって欲しいと彩夏は心からそう願った。

 そんなこんなで、現在の葉月家は家族としての纏まりがなく、いつも荒んでいることには違いはなかった。


 髪を乾かし浴室を後にして程たった頃、何やら外が騒々しい。またもや、両親が喧嘩しながら帰宅したようだ。怒鳴り合いをしながら家の中に入ってくるのが分かった。

 両親のドタバタとした足音がリビングまで響いてきた瞬間、緊張感が張り詰めた。

 父は既に飲酒している。父の顔色は絵本で見た赤鬼のように真っ赤で呂律が回らず、目が座っていた。

「酒だ、酒持ってこい!」

 その声に、彩夏は身を縮込ませた。こうなるともう、手のつけようもない。

「散々飲んできてまだ飲もうっていうの!」

 母が父に凄い剣幕で口答えする。

 ――ガシャーン!

「!」

 空気を震わすその破壊音に、彩夏はびくりと肩をすくめた。

 始まった。父が母に物を投げつけたのだ。

 いつものことだが一向に慣れない。家の中の空気が一気に凍り付く瞬間だった。

 祖母は黙って父にお酒を出した。それをあきれ顔で見る母。

 父はお酒に酔うと暴言が酷くなる。

「お前は何様だ!俺は社長だぞ。お前ごときに何が分かる!」

 今日仕事場での出来事に不満があるのか母に当たり散らかす。

「誰がここまで会社を大きくしてきたと思っているの!」

 父は名ばかりの社長で実際会社を牛耳っているのは母だった。

「何だと?もういっぺん言ってみろ!」

 父はお酒に酔えば酔う程人が変わったようになっていく。父と母の相性は最悪だ。火に油を注ぐ母。外面がよく頭が切れ世渡り上手な母に、他の会社の社長や業者の営業マンは皆媚びるのだ。それが気に入らない父。父は言われたことはきちんとこなすのだが、母のように器用な人間ではない。父はいつも母に任せきりだった。だから今その結果がつけとなって返ってきたに違いない。母はそんな父をどこか見下しているようにも思えた。

「あなたの力では到底やってこられなかったでしょうね!」

 気の強い母はいつも父に楯突く。そして地雷を踏んだ。

「コノヤロー!」

 父は立ち上がり拳を降りあげながら母に詰め寄った。その拳は鈍い音をたてて容赦なく母に襲い掛かる。

 彩夏は足がすくんだ。まるでプロレスラーのようながたいの父に力いっぱい殴られるのは恐怖しかない。

 父は止める様子はない。さすがに祖母も止めるよう声を上げるが父のその手が止まることはなかった。

 一方的に殴られ続ける母。その時「助けて!彩夏!」と母が彩夏の名前を呼んだ。

 呪縛が発動する瞬間だった。

 正義感が強く困っている人がいるとほっておけない性格の彩夏。

 こんな母でも彩夏を必要としてくれている。母は彩夏に助けを求めているのだ。

 足の震えが止んだ。次の瞬間母を庇うように彩夏は父の前に立ちはだかった。

「お父さんもう止めて!お母さんが死んじゃう!」

 父の怒りは静まることはなかった。父の怒りの矛先は彩夏へと変わる。

 彩夏は、父の拳で左頬を強打されると床に転倒した。それでも父は止めることなく彩夏を殴り続け、足で蹴り飛ばされた。

「ぐっ……」

 激痛が走る。彩夏は父からの暴力を手足で防御しうずくまるように耐えることしかできなかった。

 ――死ぬかもしれない……

 死という文字が彩夏の脳裏をよぎった。

 ――いっそのことこのまま死んでしまった方が楽になれるのかもしれない。自分が死んだって悲しんでくれるような人は誰もいない。私なんか、曇った鏡のように目の前に居たって存在しないようなものだから……終わることのないこの苦しみから楽になりたい……

 彩夏は抵抗するのを止めた。全身の力を抜くと人は人形のように柔らかく面白いくらい飛ばされる。

「やめなさい!健一!彩夏が死んでしまう!やめてー!」

 祖母が泣きながら止めに入った。

 ――ああ、これで楽になれる……もうすぐ終わる……もうすぐ……

 彩夏は死を覚悟した。突如父の動きが止まった。父は我に返り驚きの表情を浮かべると、おぼつかない足取りでリビングから出ていった。

 彩夏は顔をあげると心配した祖母が駆け寄ってきた。彩夏の肩に添えられた祖母の手は震えていた。

「彩夏、ごめんね……。おばあちゃんが悪いのよ。許して彩夏……」

 辺りを見渡すと、既に母の姿はなかった。祖母曰く、彩夏が殴られている間に車で逃げるように家を出ていったと言っていた。

 ――母から見た私の存在って……何?

 母はいつもそうだ。困った時はいつだって彩夏に助けを求める。

 だが、彩夏が助けを必要としている時、手を差し伸べられたことはこれまで一度だってなかった。

 彩夏は、母のいいように利用されていた。彩夏だって馬鹿じゃないからそんなことは百も承知だった。母からいつもぞんざいに扱われる彩夏だったが、いつだって母に従った。

 それは彩夏が幼い頃から満たされることのない欲求があったからだ。いつか母に認めてもらいたい、愛されたいという強い願望が彩夏をそうさせていた。

 いつしか彩夏は、母に服従し屈辱に耐えればいつか気に留めてもらえる、そう信じていた。

 だが、その願いは毎回母によって意図も簡単に壊された。

 彩夏には母に抱きしめられた記憶がない。母と手を繋いだ記憶も、お風呂に入ったことも一緒に寝た記憶すらなかった。

 ――馬鹿な私……

 後味悪い虚しさだけがおりのように心に振り積もっていく。

 無意識の領域で悲鳴を上げ続けてきた彩夏の心は、限界を迎えていることを本人もまだ気づくことはなかった。

「おばあちゃん、ちょっと外の風にあたってくるね」

「あんた……こんな時間に危ないよ……」

「うん、大丈夫……家の周辺にするから……」

「気をつけて……直ぐに帰ってきなさいね……」

 母と違って気にかけてくれる祖母を横目に、彩夏はふらりと家を出た。

 秋の清澄せいちょうな空気が清々しかった。

 見上げると、澄み切った夜空にはまるで宝石を散りばめたかのような煌めく星空が展開していた。その美しい星空をひたすら眺めていると、夜空に吸い込まれ宙に浮いたような感覚に陥った。

 ――おとぎ話の登場人物たちみたいに、きらきら輝く魔法の粉を浴びてこの美しい夜空を飛べたらどんなに気持ちがいいことだろう。そんな奇跡がもし起こったとしても、今の私はその一歩を踏み出して飛ぶ勇気があるだろうか……

 自分の意見を言うことも行動に移すこともできず、ただ母の言いなりに生きてきた彩夏にはそんな勇気はなかった。

 幼子が夢見るようなことに思いを巡らせてしまう程、美しい夜空だった。

「痛っつ……」

 突然全身に痛みが走った。これが現実だ。夢も希望も絶たれ失望の毎日を送る彩夏は、ただ流されるように生きていくしかない。

 気づけば銀杏地蔵の傍まで来ていた。彩夏は祠の前で手を合わした。そう、銀杏地蔵に痴漢から助けてもらったお礼をするのを忘れていた。

「お地蔵さん、あの時は助けていただきありがとうございました」

 彩夏は手を合わせ深々とお辞儀する。ふと、深彗の屈託ない笑顔が脳裏をよぎった。

「……そう言えば……深彗君と初めて出会ったのもここでした」

 彩夏はいつしか微笑を浮かべていた。彩夏の仄暗い心の闇に一筋の光明が差し込んだようだった。

 銀杏地蔵を後にした彩夏の瞳は、澄んだ星空のように煌めいていた。




 カーテンの隙間から差し込む朝日は彩夏の瞼の裏に届いた。

「ん……夢……?」

 それは、とても悲しい夢だった。とてつもなく寂しくて、切ない夢だった。

 目覚めると、彩夏の目から涙の滴が溢れ、頬と枕を濡らしていた。

 目覚めても尚、涙は止まらなかった。


 彩夏は朝の支度に悪戦苦闘していた。

「う~ん、これでいいか……」

 もうさすがに家を出なければ遅刻してしまう。彩夏は慌てて台所に向かうと祖母の手作り弁当を受けとった。

「?」

 お弁当箱がいつもより大きい。男前弁当といっても過言ではない。

「おばあちゃん、いつものお弁当箱は?」

 祖母は振り返り、つぶらな瞳で微笑んだ。

「あんたが唐揚げ大好きだから、いつもより多めに入れておいたよ」

 そう言って笑う祖母。

「……そう、ありがとう。でも、こんなに食べられるかな……それじゃあ、行ってきます」

 そう言いながら彩夏は駆け足で登校していった。

 

   


『深彗君……』

『きゃははは……』

 昨夜の彩夏の寝言は、聞きなれない男の子の名前が上がり、それはそれは楽しそうな夢を見ているようだった。寝言といえども、そのように楽しそうな彩夏を見るのは久しぶりだった。

「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花……行っていらっしゃい、彩夏……」

 祖母は温かな眼差しで彩夏の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

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