秘密 ②

彩夏は、俯きながら学校までの長い坂道をひたすら登っていく。

「痛っつ……」

 昨夜より全身の打撲痛が増している。

「おはよう、彩夏。そんなに下向いて歩いて何か探し物でもしているの?」

 由実だ。彩夏は顔を上げることなく歩きながら「おはよう」とだけ返答する。

 奥二重で垂れ目の由実はで彩夏を覗き込む。

「あれ、どうしたの?マスクなんかしちゃって。風邪でもひいた?」

 その一言に彩夏の心拍数は一気に速くなる。由実に気づかれるのも時間の問題かと思われたが、見られるわけにはいかなかった。これが一番いい索だった。

「花粉症で……今日は特別辛いから……」

 彩夏は何とかその場をしのぐ。

「秋にも花粉症なんてあるの?」

「うん……ほらこの時期、川べりや草むらにやたらと黄色い雑草が生えてるでしょ」

「あ~、あれね~。そう……大変ね……」

 どうやら信じてくれたようだ。彩夏は胸を撫で下ろした。

「それでマスクなんて付けているわけ?」

「うん……」

 今朝の彩夏は、教室に入ると誰とも挨拶を交わすことなく俯いたまま、そそくさと自分の席に向かった。

「葉月さん、おはよう」

 小学校の頃からの同級生、村田香苗むらたかなえに声をかけられた。

 控えめで優しい印象の彼女はあまり積極的にクラスメイトとコミュニケーションを図るタイプではないが、なぜか毎日欠かさず彩夏に挨拶をしてきてくれるのだ。

 艶やかな漆黒の髪、前下がりボブが良く似合う。

 彩夏は顔を上げられなかったため誤解を招かないようにできるだけ明るい口調で挨拶を返した。

「おはよう。村田さん」

 そして彩夏はできるだけ顔を上げることなく席についた。

「彩夏、おはよう……マスクどうしたの?」

 いち早く気づいた深彗に早速質問を投げかけられた。

 彩夏の心臓の鼓動が速くなっていく。

「花粉症だって~。秋にもあるなんて知らなかった」

 由実がやってきて深彗に説明してくれていた。

 彩夏は深彗に見られたくなくて顔を上げることができない。

 深彗に本当の自分を知られる事が怖かった。

「あれ?」

 由実がまた何か気づいたようだ。

「その手どうしたの?膝にも……痣がある……」

 深彗と由実の視線が彩夏の手と膝に注がれる。

 体の大半を制服が覆い隠してくれているけれど手と膝は隠しようがなかった。

 彩夏は居住まいを正し、手を引っ込め膝を隠した。

 ――父に暴力を振るわれたなんて死んでも言えない。皆に知られたら変な目で見られてしまう。それにきっと嫌われてしまうだろう……

「これ?ちょっとね……私おっちょこちょいだから……アハハ……」

 彩夏はふざけた口調で答えた。

 由実と深彗は痛々しい表情で彩夏の痣を見つめていた。

 朝のホームルームが始まり皆席についた。

 いつもならば不愛想な態度で深彗を睨みつけてくる彩夏が、今日は俯いたまま顔を上げようとすらしない。

 昨日初めて触れた彩夏の白くて柔らかな手には、痛々しい青紫色の痣がある。膝にも同じような痣が見え隠れしていた。

 ――昨日別れてから彩夏の身に何が起こったのだろう

 深彗は胸騒ぎを覚えた。



 体育館では、男女合同でバスケットボールの授業が行われた。

 早速チームに分かれてゲームすることになった。

 彩夏と深彗は別チームとなり、彩夏は深彗のプレーを見学していた。

 深彗にパスがまわされた。深彗はドリブルしながらからスピードを落とさずディフェンスを交わし右左と大きくステップを踏み込むと軽やかに飛びあがりレイアップシュートを決めた。   

 身長一八〇センチメートル以上ある深彗のシュートは華があり、高く軽やかにジャンプする様は背中に羽が生えているようにも感じられた。

 ゴールが決まる度に、クラス中からの歓声が一斉に上がった。彩夏もそんな活躍する深彗の姿に見入っていた。深彗のチームの圧勝だった。

 深彗はコート脇で見守る彩夏の横に座ると「久しぶりのバスケは楽しかった」と爽やかな笑顔で話した。深彗がバスケを得意としていたと初めて知った彩夏だった。

 次に彩夏のチームの番だった。

 深彗は「頑張れ、彩夏」と声をかけると、ふわりと微笑んだ。


 パスがまわされた彩夏はディフェンスを避けるためスリーポイントシュートを決めた。彩夏の意外な活躍に再びクラス中が沸きたった。

 深彗も思わずその場で立ち上がり、クラスメイト達と共に彩夏の活躍に歓声を上げた。誰も知らないだけで、実のところ彼女は運動神経抜群であった。


 暫くプレーが続くと彩夏の身体は異変をきたした。

 走り込んでいるうちに彩夏は浮遊感に見舞われ、視界が真っ白に覆われたとたん意識消失し突如倒れ込んだ。深彗は彩夏のもとに慌てて駆け寄った。

「彩夏、彩夏?分かるか?彩夏!」

 深彗は彩夏の肩を叩きながら声をかけるが彼女は目を覚まさない。

 彩夏のマスクを外そうとした時、深彗のその手が止まった。

 左頬に大きな青紫色の痣が見えたため、マスクを外さず呼吸の有無だけ確認した。

 次に手首の脈を確認した深彗は、彩夏を横抱きしその場を去っていった。

 深彗のその一連動作があまりにもスムーズ過ぎて皆あっけにとられた。

 体育教師の久保田先生も深彗の後を追いかけるようにいなくなってしまった。

 その後深彗が彩夏にとった行動が学校中の噂になるのは早かった。

 


 深彗は彩夏を抱えながら保健室に駆け込んだ。

「先生!彩夏を見てください!呼吸と脈はあります!」

「そこのベッドに寝かして!」

 深彗は指示されたベッドに彩夏を横たわらせ、心配な面持ちで彩夏を見つめる。

「葉月さん!葉月さんわかる?葉月さん!」

 養護教諭が声をかけ続けると、彩夏は薄っすらと目を開けた。

 養護教諭に応えるように頷き再び目を閉じた。彩夏はそのまま保健室で要観察となり休むことになった。

 


 深彗は、彩夏のことで頭の中がいっぱいとなり、気が気でない彼は授業どころではなかった。休み時間のチャイムが鳴ると同時に、深彗は教室を飛び出し保健室に駆けて行った。そんな深彗を由実は驚きの表情で見つめた。 

 保健室には養護教諭の姿がなかった。

 気持ちが逸る深彗は、彩夏が休んでいるベッドのカーテンを彼女に声をかけずに開けた。

「――っ!」

 深彗は思わず息をのむ。

 そこには、体操着をめくりあげたブラとショーツ姿の艶めかしい姿の彩夏が、深彗の視界に至近距離で飛び込んできた。

 細くすらりと長い手足に華奢なその身体からは想像できない程、豊満なバスト、くびれたウエストの曲線美に深彗は目を奪われた。

 深彗は慌ててカーテンを閉めると、酷く狼狽した。幸い、着替えに気を取られていた彩夏に気づかれることはなかった。

 深彗は、何より目を疑いたくなるような信じがたい光景を目の当りにし、カーテンを開けてしまったことを酷く後悔した。

 美しい彼女の白い柔肌には、殴られたような無数の青紫色の痣が全身の至る所に見られたからだ。

 ――彩夏の身に一体何が起こった?

 深彗の思考は動揺と混乱でまとまらない。深彗は目を瞑り大きな深呼吸を数回行うと「彩夏?体調はどう?」と何もなかったかのように、いつもの優しい口調でカーテン越しに声をかけた。

「あっ!深彗君⁉ちょ、ちょっと……待ってくれる⁉」

 先程の光景がいつまでも残像のように目に焼きついて離れない。

「うん……」

 驚愕、衝撃、悲痛、嘆き、疑問、幾つもの複雑な感情の波が深彗に押し寄せる。

「もう、いいよ」

 いつもの彩夏の声がした。深彗は胸が締め付けられる思いでいっぱいだった。

 中からカーテンが勢いよく開けられた。

「どうしたの?そんないかにも泣きそうな顔をして。もしかして心配してくれたとか?」

 彩夏は深彗の気持ちを知らずして、おどけてみせた。

「……うん、そうだよ……」

 深彗は目を伏せながら返答した。

 そのあまりにも率直な返答に彩夏は戸惑いの表情を浮かべた。

「やだ……冗談だってば……」

 そこへ養護教諭が戻ってきて彩夏に声をかけた。

「あら、もう起き上がっても大丈夫?無理しないで今日はゆっくり休んでいきなさい」

「おー、彩夏!元気になった?」

 由実もやってきて保健室だというのに大きな声を上げ、一気に賑やかになった。

「さっき、彩夏が突然倒れた時は騒動だったよ……久保田先生なんかあたふたしちゃって」

「彩夏~何があったか覚えている?」

 由実は彩夏と深彗を見て含みのある表情でニヤリと笑った。

「?」

 彩夏はそんな由実を見つめると、小首を傾げた。

「水星君が彩夏をお姫様抱っこして~保健室まで運んだのよ、ねぇ水星君」

 彩夏は由実の悪質な冗談と捉え、猜疑心に満ちた目で深彗に視線を向けた。

 すると深彗の頬がみるみるうちに紅潮していくのが分かった。

 次の瞬間彩夏は自身の頬も火照っていくのを感じた。

 皆からは、彩夏のさらりと動く髪からのぞかせる耳と首元が真っ赤に染まっていくのが見えた。

 今の彩夏のマスクの下を想像した由実はニタニタとにやけていた。

「そうね~、水星君、まるで王子様みたいだったわよ~」

 養護教諭まで悪乗りしてきた。

 彩夏は、その時の状況を想像しただけでも冷汗が出て深彗の顔を直視することができなかった。

 深彗は複雑な感情を抱きつつ、恥じらう彩夏をじっと見つめていた。

「さあ、そろそろ次の授業が始まる頃ね。皆教室に戻りなさい」

「葉月さん、あなたにはちょっと話があるから残ってくれる?」

 彩夏は黙って頷き俯いた。

 深彗には何についての話か想像がついていた。そんな彩夏を、ドアを締め切るまで切迫した目で見つめると保健室を後にした。

 


 その後、彩夏が教室に戻ってきたのは昼休みになってのことだった。

「彩夏~お帰り、もう大丈夫?」

 由実の元気な声が、教室中に響き渡った。

「葉月さん大丈夫?」

 村田さんが心配な面持ちで彩夏に声をかけてきた。

「うん、もうすっかり。迷惑かけてごめんなさい……」

 教室に残っているクラスメイト全員に注目される。騒ぎを起こし皆に迷惑をかけてしまったのだから仕方がない。

「彩夏、水星君が待っているよ」

 深彗は彩夏を見るなり席から立ち上がり、何か問いたげな眼差しでこちらをじっと見つめていた。

 深彗は、昼食も食べに行かずに彩夏の帰りを待っていてくれたのだ。

 彩夏は深彗の席まで歩み寄り、もじもじと恥ずかしそうに体を揺らしながら話した。

「深彗君、さっきは助けてくれてありがとう……」

「ヒュ~。水星、姫の登場だな~」 

 教室にいた男子から冷やかしの声が上がった。

 深彗はあまり気にしていないようだったが、彩夏は皆に揶揄われる深彗を見ているのが嫌だった。

「ねえ、深彗君。お昼を食べに行こう」

 彩夏は一刻も早く教室から深彗を連れ出したかった。今朝祖母が持たせてくれた弁当を手に取り、二人は教室を後にした。

 二人は連れ立っていつものように学生食堂までの廊下を歩いていると、生徒たちに注目されていることに気づいた。

 人の噂話が広まるのは早いものだと改めて実感した瞬間だった。だたでさえ日に日に深彗ファンが増えていくというのに、今日の出来事で更に注目を浴びてしまったらしい。

 深彗は周りがどんなに騒ごうが気にもならない様子だが、彩夏は自分のせいで深彗が好奇な目で見られてしまうことに罪悪感を覚えた。

「深彗君……今日は別の場所で食事しない?」

「実は、僕も今そう言おうとしていた」

「え?」

 彩夏は深彗の顔を見上げた。彼はやわらかな眼差しで彩夏を見つめ返した。

「じゃあ僕は、購買でパンでも買おうかな……」

「……あの、深彗君……もしよかったら、私のお弁当を食べてくれる?」

「彩夏は?」

「今日はあまり食欲がないの、せっかく祖母が持たせてくれたお弁当だから残すのもなんだし……」

「うん、分かった。じゃあそうさせてもらうよ」

 彩夏は口元に微笑を浮かべ頷いた。

 校内にはいくつかのオープンスペースが設けられているが、テーブルと椅子が設置してある席は既に学生たちでいっぱいだった。

 学校に隣接する森に面するベンチが空いていたので、二人はそこで腰をおろした。

 彩夏は早速お弁当を深彗に手渡した。

「はい、どうぞ」

 深彗はそのお弁当を見て目を丸くした。

「彩夏……君はいつもこんな量のお弁当を食べていたの」

 彩夏はハッとした。今日はいつもと違う男前弁当だった。

「ち、違うから!今日は祖母が私の大好きな唐揚げを沢山入れたと言っていたから……」

 言葉が徐々に弱々しく口籠っていく。

 マスクをしていても彩夏の顔が真っ赤なことがよくわかる。

 深彗はそんな彩夏を見て思わず口元に拳をあて笑いを堪えた。

「あ、今笑ったでしょ」

「さあ、どうかな」

 とぼける深彗は、包みを開きお弁当のふたを開けた。

 思わず二人で目を丸くする。

 いつもと変わらない色とりどりのお弁当だが、唐揚げの量が半端なかった。

 祖母のことだ、きっと友達の分も入れてよこしたのだろう。祖母はそういう人だ。

 突如彩夏の目頭が熱くなる。嬉しいのか悲しいのかよくわからない感情に見舞われた。瞳が風に揺れた湖面のように揺らつき、彩夏は必死に堪えた。

「では、いただきます」

 深彗は唐揚げを頬張った。

「これ、凄く美味しい!彩夏のおばあちゃんは料理上手だね」

 彩夏は自分が褒められているようで嬉しかった。

「さすがにこれ全部は食べられない。彩夏も食べてよ」

 深彗は唐揚げを箸で摘まみ彩夏の口元に運んだ。

 マスクを外さなければいけない。彩夏は逡巡した。

「……私はお腹空いていないから……」

 彩夏は顔を反らしながらそう答えた。

「大好きな唐揚げだろ。一緒に食べよう」

 深彗にこの顔を見られたくなかった。

「……」

「……彩夏、ここには僕以外誰も居ないから……マスクを外しても大丈夫だよ」

 彩夏の心臓の鼓動がドキンと音をたてた。

 深彗はすべてを知っているかのように至極優しい口調で話しかけてきた。 

 この時、深彗は気づいていると悟った彩夏は、ゆっくりマスクを外した。

 深彗は痛々しい眼差しで彩夏の左頬を見つめた。

「実はね、あの後、家の階段から転げ落ちてしまったの……」

 ――嘘……私の嘘つき……

 彩夏の精一杯の嘘。複雑な感情を隠しきれず、泣き笑いする彩夏。

 慈しむような眼差しで深彗は彩夏を見つめた。

 彩夏の左頬に右手を伸ばすと、第二指の背部で彩夏の左頬を微かに触れる程度にゆっくりと優しく撫で下ろした。

「……美人が台無しだな……」

 彼のガラス玉のように澄んだ瞳には今にも泣き出しそうな顔をした彩夏が写っている。

 彩夏は深彗にすべてを見透かされているような気がした。

 息苦しいほど胸がいっぱいになり、陽光に照らされた彩夏の瞳は煌めきながら揺らつきをみせる。

 そしてその艶やかな頬の上を玉のような大粒の涙がポロンと零れ落ちていった。

 深彗はその涙をそっと拭ってあげた。彼はそれ以上痣のことを聞くことはなかった。

 再びお弁当を手にした深彗は「はい彩夏、口を開けて。はい、あ~ん」と言って彩夏の口に唐揚げを運んだ。

 深彗に促され、思わず口を開けてしまった彩夏だが、深彗に食べさせてもらうのは至極恥ずかしかった。

 彩夏は深彗の優しさに触れ再び涙がこみ上げてきた。

 その顔を見られないように俯き、長い髪で顔を隠した。

 深彗はそんな彩夏を静かに見守った。

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