銀杏地蔵の木の下で

「水星君、委員会のことでちょっと、いいかな……」

 深彗は、クラスメイトの村田さんに声をかけられた。

 図書委員となった深彗は、放課後図書室で活動する機会が増えていた。

「彩夏、急遽、図書当番頼まれた。終わるまで待ってて。先に行ってるね」

 深彗は、自分の荷物を彩夏に託し颯爽といなくなる。

 ――ん?待ってて?何か約束したっけ? 

 深彗はそういうけれど、彼を待つ理由などない。

 彩夏は、ちょっぴり強引な深彗に呆れつつ、彼の荷物を抱え後を追うように図書室に向かった。

 図書室では、既に深彗と村田さんが委員会の活動を行っていた。    

 どうやら新しい図書が入荷されたらしい。二人は、台車に山積になった大量の図書をさばくのにあたふたとしていた。本の量からして、なかなかの重労働に見えた。

 彩夏は、二人分の荷物を下ろすと、席に着き宿題をやることに。

 そこへ、本を何冊か抱えた村田さんがやってきて、踏み台にあがると棚に本を収め始めた。彼女は何故か、踏み台の上でつま先立ちになり上段の棚に手を伸ばした。

 見ているだけでヒヤヒヤする。あっと思った瞬間、嫌な予感は的中した。

 案の定、村田さんはグラリとバランスを崩し踏み台から転落したのだ。

 思わず目を閉じた彩夏は、ドスンと大きな音に席を立つ。

「村田さん!大丈夫!?」

 彩夏が声をかけると、村田さんは誰かに抱き留められる形でうつ伏せになっていた。

「痛たたたた……」 

 彼女の下敷きになっていたのは深彗だった。

 村田さんは、まだ深彗に抱きしめられたままだ。

「み、水星君、大丈夫!?」

「ああ、うん、多分……それよりも、君こそ怪我はない?」

 起き上がった深彗は、自分より村田さんの身を案じた。

 深彗と至近距離で目が合った彼女は、頬を朱に染めた。

「あっ!怪我してます!保健室へ行きましょう!」

「ああ、このくらい何でもないよ」

 村田さんは一度離れると再び戻り、深彗の傷にカットバンを貼った。

 その場に居合わせた彩夏は、二人をただ黙って見ているしかなかった。



 それから数日後の休み時間。

 教室に戻ってきた深彗は、突然足を止め再び廊下に向かって歩きはじめた。

 その様子を偶然見かけた彩夏は、特に気に留めることなく次の授業の支度をしていると、視界の隅にとある女子と立ち話をする深彗の姿が入ってきた。

 相手は、彩夏の小学生時代からの同級生村田さんだった。内向的であまり人との交流を望まない彼女が、わざわざ深彗を呼び止めてまで会話する姿に意外性を感じた。

 まあ、彩夏も似たようなもので無駄なコミュニケーションを極力避け、最低限の会話しかしない点においては似たようなものかと、腑に落ちる。

 深彗は、頷いたり首を傾げたり微笑んだりと、なんだか話が弾んでいるようだ。

 そう言えばここ最近、村田さんと深彗が楽しげに会話するところをよく見かける。

 委員会も同じだから、コミュニケーションも多くなるのだろう。 

 ややあって、深彗は席に戻ってきた。

 深彗から何か言ってくるのかと思いきや、何も話してこない。逆に気になった。

『今何話していたの?』なんて聞けるはずない。聞いたところで何って話でもある。

 彩夏はちらりと深彗の様子を伺った。深彗は次の授業の支度をしている。その表情からは彼の感情を読み解くことができない。

 ――私何を気にしているのだろう。深彗君が誰と話そうと私には関係ないじゃない

 気づけば無意識に「ふう」と深い大きなため息をついていた。

「彩夏、ため息なんかついてどうしたの?」

 深彗は彩夏の気持ちなど知らずして、痛いところをついてくる。無神経にもほどがある。

「別に……何でもない」

 不愛想な返事しかできない彩夏は、自己嫌悪に陥った。

 そんな態度をとったにも関わらず彩夏に微笑みかける深彗はまさに人格者だ。

 一緒にいると、彼の育ちの良さを感じる時がある。

 ――深彗君が私の家庭環境を知ることになったら……彼はきっと引くだろうな……

 彩夏は言いようのない不安な気持ちに囚われた。

 小学生時代の苦い思い出が脳裏をよぎる。彩夏の幼少期から今もなお続く黒歴史。それは彩夏の呪縛と化し取り払われることはなかった。

 彩夏はこれまで見えない壁を作り、見えない防護服を身に纏い傷つかないよう孤高に生きてきた。

 しかし、深彗に出会ってからというもの、彼に甘えてばかりいるように思えた。

 ――二人の距離が近すぎるのかも知れない。彼もすっかりクラスメイトに溶け込み、これから友達も増えていくことだろう。私なんかと居たら、彼が他の友達との交友関係を深めることができない。私は……私の存在は……深彗君の妨げでしかないのかも知れない……

 彩夏は深彗との距離が近くなればなっていく程不安も大きく膨れあがっていった。

 ――もしも、何かで本当の自分が暴かれた時、深彗君はどんな目で私を見るのだろうか……あの時のように……。何より、離れていく彼に自分が耐えることができるのだろうか……

 彩夏は傷つくことを恐れた。それならば、取り返しがつかなくなる前に深彗から距離を置くべきではないか。弱い自分の心を守るために。

 彩夏は、そんなことを考えた。


 終礼が終わり彩夏は帰り支度をしていた。

「彩夏、ごめん……。今日ちょっと用事があって……君と一緒に帰れない。本当にごめん」

 約束したわけではないのに深彗はいまだ行動を共にしようとする。謝る必要などないのに彼は誠実だった。

「私……そろそろ……深彗君の担当を卒業したい……」

 彩夏はあえて冷たい表情と口調でそう語ると、深彗から距離をとった。

「……それって、どういう意味?」

 深彗がいつになく真剣な眼差しで真っすぐ彩夏を見つめた。怒っているかのようなその雰囲気に気圧けおされた彩夏は深彗から視線を逸らすことで精いっぱいだった。

 そこへ村田さんが遠くからこちらを見ていることに気づいた彩夏は、視線を   村田さんに移すと、深彗もつられて彼女の方へ振り返った。

 彩夏はその隙にバックを手に取ると「……じゃあ」そう言って教室を後にした。

 校門を出たところで彩夏は忘れ物に気づいた。明日までの課題を教室に忘れてしまったのだ。仕方なく教室に戻ることにした。

 教室に向かう途中、校舎二階の廊下で帰宅する生徒たちの群れと遭遇し、流れに逆らうように進む彩夏は廊下の端によけた。

 ふと窓から外に目を向けると、人気のない校舎裏側に、深彗と村田さんが二人きりでいるのが見えた。

「あれ?」

 二人は向かい合い、何やら立ち話をしているようだ。俯いたまま話す村田さんを、深彗は黙って真剣に聞いているようにも見えた。

「何だろう……?」

 妙な胸騒ぎがした。休み時間に村田さんが深彗を引き留め話していたこと、深彗の用事というはこのことだったんだと、彩夏は今になり理解した。

 ――な~んだ。村田さんと話があるからって言えばいいのに。わざわざ用事だなんて……深彗君も水くさい。にしたって、あんな人気のないところで何話してるんだろう……

 彩夏の心に確信めいた濃い不安が影を落とす。

 ――やはり、私は深彗君から離れるべきなのかも知れない。手遅れになる前に……

 彩夏はいつまでも二人の様子を見ていることに気が引け、教室へ忘れ物を取りに戻った。

 教室を出て再び廊下を歩く彩夏は、二人の様子が気になりちらりと様子を窺った。

「え――?」

 その刹那、彩夏の心臓はぐっと掴まれたような苦しさを覚えた。

 村田さんが俯いたまま泣いている。深彗は、彼女の頭をポンポンと優しく撫でていた。

 ――……そういうことだったんだ……そうだよね……

 彩夏は、目を伏せその場から立ち去った。

 彩夏の頭の中は、いつまでも先程の二人の姿が消え去らずにいる。家に帰る気になれず、銀杏地蔵に寄り道することにした。


 彩夏は、銀杏の大木を見上げながら周囲をゆっくり歩き出した。

 ――深彗君はいつだって誰にでも優しい。それは彼の優れた長所だ。そんな彼に自分も随分と救われたのだから……

 深彗からしたら、自分はただのクラスメイトにしか過ぎないわけで。先生が勝手に担当だと決めたからいつも傍にいただけで。そこには特別な感情はなく。

 ただ、深彗の気まぐれに振り回された自分が、勝手に期待して舞い上がっていただけで。遅かれ早かれ、彼が本当の私を知った時、離れて行くに違いないのだから。

 だから、何も悲しくなんかない。傷ついてなんかいない。思い上がりも甚だしい。

彩夏は自分自身に言い聞かせた。

 大木を一周し立ち止まると瞳を閉じ、胸元のシャツをぎゅっと握りしめる。 

 ――けれど……どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう……

 彩夏は再び、銀杏の大木を見上げた。

 琥珀のような色合いの瞳は日の光に照らされ、つやつやと光っている。黄金色に輝く銀杏の大木は深彗を見ているようで眩しく感じた。

 彩夏は銀杏地蔵の祠で手を合わせた。

「お地蔵さん、いつも見守ってくださりありがとうございます。私は、何か思い違いをしていたようです。私はこれまで深彗君の優しさに甘えていたに過ぎません。私達の距離は近すぎたのです。私の存在は……彼の妨げでしかないことに気づきました。またこれまでのように、独りぼっちの私に戻ります。だからこれ以上傷ついたりしないように……私の心をお救いください」

 彩夏は心の底から願った。ゆっくり目を開けると、再び銀杏の大木を見上げた。

「彩夏……」

 突如背後から自分の名を呼ばれ、ビクリと反応する彩夏。

「深彗君……⁉どうしてここに……!?」

「君を見たと……だからすぐに後を追いかけた」

「ひょっとして……今の……聞いていたの……」

「……うん」

 彩夏はサッと血の気が引くのを感じた。咄嗟にその場から逃げ出そうと駆けだすが、深彗に追いつかれ腕を掴まれ引き止められた。

「彩夏、どうして逃げるの……」

 深彗に背を向けたままの彩夏。

「……」

 俯き何も答えることができない。

「君は優しい……」

「急に、何……」

 掴まれた腕は離されない。

「村田さんは、小学生から中学生までずっといじめに遭っていたんだね。彼女は誰からも相手にされず、ずっと独りぼっちだった。ただ一人だけ、いつも普通に話しかけてくれたそうだ。彼女はその人にずっと憧れて、その人が行く同じ高校を受験した。彩夏……君のことだよ……」

 彩夏は大きく目を瞠る。

「さっき、村田さんに彩夏を助けて欲しい、君の支えになって欲しいと泣いて頼まれた」

「どうして……」

 彩夏はピクリと反応すると、手が小さく震えはじめた。

「村田さんは嬉しかったんだと思うよ。周りの目など気にせず、いつ何時だって分け隔てなく話しかけてくれた君のことが。君に出会えたことが。そしてお日さまのように明るい君が。笑顔の素敵な君のことが大好きだった。けれど、君はいつしか笑わなくなったって。毎日君のことを見てきた村田さんは、変わっていく君を見ているのが辛かったんだ。どうしてかその理由は分からないけれど、以前の君に戻って欲しい……そう言っていたよ」

 彩夏の華奢な肩が震えている。きっと泣いているのだろう。

「彩夏……僕も君の笑顔が見てみたい……」

 彩夏の瞳から涙が溢れ出る。

「彩夏……苦しい時、我慢をしなくていいんだよ……困った時、助けを求めていいんだよ……君は一人じゃない……」

 深彗の声が震えている。

 深彗は、背を向ける彩夏の手を引き寄せ、華奢な肩を両腕で抱きしめた。

 

 金色に輝く落ち葉の絨毯の上に寄り添うように佇む二人の少年と少女。

 黄金色の銀杏の葉がまるで雪のように絶え間なくひらひらと舞い落ちる。

 静寂な中、川のせせらぎだけが聞こえてくる。

「だから、お願いだ、彩夏……僕から離れようとしないで……僕が君を守るから……」

「深彗君……」

 彩夏は深彗の胸の中で彼を見上げた。

 深彗は彩夏の額に己の額をそっと重ねると瞳を閉じた。

 彩夏は胸が詰まって、それ以上話すことができなかった。

 彩夏の閉ざされた心の扉は、深彗の優しさに包まれ少しずつ開かれていった。





 苦しい時  我慢をしなくていいんだよ


 困った時  助けを求めていいんだよ


 君は一人じゃない


 ほら まわりをよく見てごらん 


 君を見守っている人がいるってことを


 思い出してごらん


 君を想っている人がいるってことを


 君はまだそれに気づいていないだけ


 恐れることはない


 どんなに苦しくても 


 どんなに心打ちひしがれようとも


 勇気を振り絞って その一歩を踏み出してごらん


 その未来さきにはきっと


 今はまだ知らない君が


 笑顔の似合う素敵な君が 


 そこで待っている


 君は 生まれ変わることだってできるんだ

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