出会った頃の君は
夏休み明けの久しぶりの登校は気が重い。自宅から徒歩圏内の学校への道のりはいつもに比べ遥か遠く感じた。
心と身体は連動しているからだろうか。
小高い丘の上にそびえ立つ学校への上り坂は、足に重石でもつけているかのように遅い足取りとなった。
彩夏は交互に見える革のローファーの先だけを見つめながら、ひたすら長い坂道を登っていく。
途中こんもりとした森に差し掛かった時、違和感を覚えた。
――そういえば、セミの鳴き声がしない。
夏休み前にあれだけ元気に鳴いていたセミたちの大合唱は次第に小さくなっていた。
ふと足元に目を遣れば、アスファルトの上にひっくり返って足をバタバタと動かすセミを見つけた。
「こんなところにいたら踏まれちゃうよ」
そう呟く彩夏は、近くに落ちていた小枝をセミに近づけ枝につかまったのを確認すると、傍にある木の幹につかまらせてあげた。
セミが無事木に移ることができ安堵したその刹那、再びポトリと地面に落ちた。
「――え?」
その刹那の出来事に彩夏の思考は追いつかなかった。
セミは確かに目の前の木につかまった。なのに、その手を離してしまったのだ。
木につかまる気力さえ失い、もう二度と飛ぶことすら叶わないセミ。
力尽きたセミは地面にひっくり返り、やがてその命が終わりを告げるその時をただひたすら静かに待つことしかできない。
気づけば、辺りには天を仰ぐかのようにセミたちの骸が転がっていた。
――セミは最後にもう一度だけ空を飛びたかったのではないだろうか。彼らは悔いなく生きることができたのだろうか。死ぬ間際、一体どんな景色を見るのだろうか。
彩夏は漠然と考える。
セミのひと夏の儚い命に、彩夏は胸が詰まって涙がこみ上げた。
「最悪だ~!」
教室に向かう廊下を歩いていると、彩夏のクラスの教室から何やら騒々しい男子生徒の声が響いてきた。
彩夏は教室の入口で一旦立ち止まると中の様子を窺った。
「おはよう」
「おはよう。葉月さん、久しぶり」
彩夏はいつも通りクラスメイトに無難な挨拶だけをする。それ以外は極力無駄口をきかないように心掛けている。学校ではできるだけ目立たないように、静かに過ごすことが彩夏の目標でもあった。
人に心を悟られないように、自ら見えない壁を作り嘘という防護服を身に纏い、己の心が傷つかないようひたすら守る。彩夏はそんな高校生活を送っていた。
彩夏はクラスの皆が注目している黒板に視線を移すと、騒がしい理由が一目で理解できた。そうだ、今日は席替えの日でもあった。
いつの間にか用意された箱が教壇の上に設置されていた。箱の中から一枚紙を選びそこに書かれた番号が二学期の席となる。
一学期の彩夏の席は、教室の真ん中の席だった。また目立つ席だったらどうしようという焦燥感に駆られ、箱の中に手を伸ばしたものの選ぶのに逡巡する。
腹を
彩夏は、胸に手をあて大きな溜息をひとつ零すと、黒板に自分名前を書き新しい席に着いた。
今日からまたつまらない学校生活が始まる。
彩夏は、今日一番の幸運を
窓辺からは、秋の気配を感じさせる澄み切った蒼穹が果てしなく広がっていた。
小高い丘の上に位置する校舎からの眺めは絶景だ。街並みのそのずっと先には、碧い海がきらきらと輝いているのが見える。
だが、死にゆくセミの最期を見た今日、彩夏の心は晴れることはなかった。
移り行く季節の気配を感じながら思いを巡らす彩夏は、ただ静かに景色を眺めた。
「ねえ。先生遅くない?」
「ホームルームの時間とっくに過ぎている」
クラスメイト達が騒ぎ始めた。
「あっ、やっと来たー」
担任の後藤先生が教室に入ってくると同時に、教室内がざわつき始めた。
彩夏は、そんなクラスの雰囲気に気づくことなく物思いに耽けながら外の景色をひたすら眺めていた。
「え~、早速だが、転入生を紹介する」
それまでのざわつきが嘘のように静まり返り、教室内は緊張感がみなぎった。
彩夏はといえば、まわりの声が全く届かないほど思考の世界に入り込んでいる。
「葉月……おい葉月、聞いているか?」
「わっ、ははは……」
突如、自分の名を呼ぶ担任の声とクラスメイトの笑い声が耳に飛び込んできた。
ハッと我に返った彩夏は、窓の外の景色から前方に視線を移すとクラス中の皆から注目されていた。
――まずい……
彩夏は俯き、長いサラサラの髪で皆からの痛い視線を遮り心の動揺を和らげた。
あれだけ目立たないようにと気をつけていたのに、何故かいつも目立ってしまう。
彩夏は一度思考の世界に深く入り込んでしまうと、周りの声が聞こえなくなってしまうことがある。
――気をつけなければ……
心の中でそう呟いたその時だった。
「やあ……偶然だね……」
突然聞き覚えのある声がしてきた。
彩夏は声のする右上に顔を向けると、あの時の少年が何故かそこにいた。
「キャーっ!痴漢!」
あまりの驚きに、彩夏は思わず席を立ちあがりながら声を上げた。
「君は何か誤解をしているようだ」
少年はそんな彩夏を見て腰を曲げ口元に
「そういえば、君にくらったキック、なかなかのものだったよ」
生徒たちのどよめきと笑いが再び教室中に響いた。
「何だ、お前たち知り合いか。じゃあ葉月、水星の担当な。頼んだぞ」
――え?何?何?どういうこと?担当って……あの少年がどうしてここに居るの?
自分の思考の世界に浸り全く話を聞いていなかった彩夏は、状況を把握できず頭の中はパニック状態に陥った。
「始めまして。
少年は瞳に弧を描き口角を上げ愛嬌のある笑顔で彩夏に微笑んだ。その少年が彩夏の隣の席に座ったのを見て、やっと状況を把握した。
――まさかの転入生?そして寄りにもよって、隣の席とは……
彩夏は「はぁ」と深いため息を零した。
授業中視線を感じた彩夏は何気なく振り向くと、少年がこちらを見ていた。
彩夏は気付かぬふりをして前へ向き直った。
休み時間にもなると案の定、水星深彗の周りには取り巻きができた。
転入生など珍しいこの学校では、彼は注目の的だった。
クラスのほとんどの人たちが彼の周りに集まるものだから、隣の席の彩夏まで取り巻きの中に押し込められる形となった。
できるだけ人との関わりを避け学校生活を送りたいというのに、これまでの苦労が水の泡だ。その場の空気に居たたまれなくなった彩夏は席を外した。
トイレに向かう途中の廊下で他クラスの女子たちとすれ違った際、転入生の話題でえらく盛り上がっているようだった。
「ねぇ、見た?転入生のイケメン!」
「私もあのクラスに移りたい!」
「ね、ちょっと見に行かない?」
女子たちは皆浮き立っているようだった。
その様子を見て、自分が転入生の立場でなくて本当によかったと心から思った。
教室に戻ると彩夏は自分の席に戻ることも困難な程、転入生の周りには取り巻きができていた。
彩夏は少し離れた教室の窓辺に一旦身を置くと、外の景色を眺めた。
転入生の少年は矢継ぎ早に皆から質問をされていたが、丁寧に答えているようだった。
同じ教室にいると、転入生への質問が嫌でも耳に届く。
少年はどうやら彼の母親が日本人、父親がアメリカ人で彼はハーフらしい。理由はよくわからないが、どうやら海外で暮らしていて、この度彼だけが日本に帰国しこの町にやってきたらしい。
「ふーん、だからか・・・・・・」
彩夏は遠くの海を眺めながら小さく呟いた。
その時、チャイムが鳴った。
転入生を取り巻いていた生徒たちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
これでやっと自分の席に戻ることができると思い席に向かうと、水星は彩夏をやわらかな眼差しでじっと見つめていた。
目が合った彩夏は、無表情のまま視線を窓の外に投げると自分の席に着いた。
教科書が全部そろっていない水星は彩夏と教科書を共有することになり、その都度席をくっつけることになった。それを見て一部の女子たちが羨ましそうな視線を彩夏に送ってくる。
――できるものならば代わっていただきたい
二人の間に教科書が置かれた。二人で一つの教科書を見なければならないため、水星との距離が更に近くなった。
何の嫌がらせだろうか。授業中だというのに、水星は教科書には目もくれず机に右頬杖をついた姿勢で彩夏をじっと見つめていた。
そんな水星の姿が、彩夏の視界に嫌でも入ってくる。
揶揄われている気がして嫌だった彩夏は、あえて気づかない振りをして教科書に目を落した。
二人の席が教室の一番後ろの窓側に位置しているせいか、水星の奇行は誰にも気づかれることはなかった。彼はひたすら彩夏を見つめていた。
彩夏が教科書のページをめくろうとした時、水星の手に触れてしまった。
彩夏は思わず手を引っ込めながら見上げると至近距離で彼と目が合った。
初めて水星に出会ったのは夜だったからよくわからなかったが、彼からは日本人にはない異国の雰囲気というか、この世のものとも違うどこか二次元的な空気が漂い不思議な感覚を覚えた。
ぱっちりとした二重で切れ長の目、陽光を浴びた瞳は澄んだガラス玉のように煌めき、ブルーにもグリーンにもイエローにも見てとれる不思議な色合いの瞳だった。
透き通るような白い肌、鼻筋の通ったきれいな形の高い鼻、きりりとした唇、銀色に煌めくサラサラな髪、どれをとってもハーフと聞いて納得するものだった。
だがどこか人離れした端正な顔立ちの彼は、美しいという表現がピッタリな少年だった。
再び休み時間が到来した。
水星との息苦しい授業から解放され安堵した彩夏は、水星の取り巻きに巻き込まれる前に逃げようと席を立ちあがった。
「彩夏~久しぶり~。相変わらず色白ね。夏休みはどこにも出かけなかったの?」
クラスメイトの本田由実が現れた。その場で立ち話となってしまった。
「そんなことないよ。アルバイトに出かけたよ」
「そんなの出かけたことにはならないよ」
彩夏には友達と呼べる人がいないため、誰かを誘うことも誘われることもなくアルバイト以外出かけることはなかった。ただでさえつまらない日常生活であるのにも関わらず、今年の夏休みは去年と比べ特別暇だった。
「彩夏~水星君と知り合いだったなんて……なんで教えてくれなかったの」
「え?知り合いって……そういうわけじゃない。夏休みの夜に偶然出会っただけで……」
由実は前のめりになって彩夏の顔を覗いた。
「夜って……彩夏、あんた……結構遊んでいるじゃない」
「違うって……あの日バイト帰りに痴漢に追いかけまわされて、怖かったんだから……」
彩夏は水星を一瞥すると続けた。
「やっとの思いで逃げたところに、目の前に突然現れたから……思わず蹴った」
由実は目を丸くする。
「ヤダ~水星君、それはとんだ災難だったね」
水星は笑顔を浮かべながら二人の話を楽しそうに聞いていた。
「あれ?その脚どうしたの?青あざがあるけど……」
彩夏の心臓がドキンと音をたてた。
由実はよく気がつく。彩夏にとって一番触れてほしくない事だった。
「こ、これ?そそっかしいから転んじゃった……」
彩夏は悟られないように作り笑顔でそう答えた。
「ふぅ~ん……彩夏はおっちょこちょいなところがあるから気をつけなさいね」
由実のそういった、いち早く気づき世話を焼いてくれる姿はまるで姉のようにも感じられた。彩夏は男兄妹の一人娘だったから、姉や妹という存在に憧れがあった。
自分にも由実の様な姉妹がいたらもっと違う自分だったのかもしれない。
水星は、二人の会話をずっと聞いていた。
彩夏の脚の青あざをじっと見ている水星に気づいた彩夏は、これ以上見られたくないと思いその場を離れた。
水星は、授業で教室を移動する際も、係の仕事で職員室に御用聞きに出かける際も彩夏についてまわった。
彩夏はずっとついてこられ自分も一緒に注目されていることが耐えられなかった。
「あの……水星さん、どうしてずっと私の後をついてくるの?」
――はっきり言って迷惑だ
「彩夏は僕の担当でしょ。だから僕は君とずっと一緒だよ」
ああ、そうだった……担任の余計な一言でこうなってしまったのだった。
彩夏はうなだれた。
昼休みになり、彩夏は鞄から祖母の手作り弁当をとり出した。昼食は何故かいつも由実の仲間と摂ることになっていたため席を立つと、隣で深彗がこちらを見ていた。
――まさか昼食まで一緒なんてことないよね
何か胸騒ぎを覚えた瞬間、案の定予感は的中してしまった。
「学食へ案内してくれないか」
「へ?」
彩夏は深彗から逃れることができなかった。その様子を見ていた由実は、普段あまり見ることのない彩夏の間の抜けた表情があまりにも可笑しく、ころころと子供のような笑い声でいつまでもおかしそうに笑っている。
「彩夏~、水星君の担当でしょ~、しっかり学校案内してあげなくちゃ」
お腹を抱えながらまだ笑いが止まらない由実は「行っていらっしゃい」とひらひらと手を振ると二人を見送った。
結局二人は学生食堂で昼食を摂る羽目となった。
学生食堂で二人向かい合い黙って食事をしているだけなのに周りからの視線がとにかく痛い。ハーフで美形な深彗はとにかく目立つのである。
周りの女子たちは色めき立ち周囲がざわついている。「アイドルか」と言いたくなる程、黄色い歓声があがる。
一緒にいる彩夏まで嫌なほど視線が注がれ注目されている。これでは学校中のさらし者だ。彩夏には公開処刑のようにも感じられた。
しかし、当の本人はそんな周りの状況に気づくことなく、にこにこと微笑み彩夏を見つめている。
周囲にも深彗にも、『こっちを見てくれるな』と顔に書きたいくらいだった。
彩夏にとって、学校生活唯一の楽しみだった祖母の手作り弁当をゆっくり味わって食べることができなかったのがとても残念だった。
その後も深彗は彩夏の「金魚の糞か」といいたくなるほど後ろをついてまわった。
その度に注目される二人。
夏休み明けの新学期から彩夏の学校生活はガラリと変わった。明日から毎日この生活かと思っただけで意気消沈した彩夏だった。
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