僕の知らない君 ①

 今日も長い一日が終わろうとしていた。

 終礼が終わり、やっと深彗からも解放されるというのに彩夏は「はぁ~」と深いため息をついた。

 そう。今日はアルバイトの日だった。彩夏は一気に半端ない疲労感に襲われた。

 だが、働かないわけにはいかなかった。彩夏は机に両手をつくと勢いつけて立ち上がり、深彗を一瞥すると何も言わずそのまま教室を後にした。



 小高い丘の上。

 眼下には海岸まで開けた街、穏やかな海、目が覚めるような蒼い空は、遥か遠くに望む美しい半島の稜線をくっきりと浮かび上がらせている。

 水平線は空の蒼と海の碧に線を引き、日の光を集めたような海は宝石をちりばめたかのようにきらきらと煌めいていた。

 そこからの眺望がすっかりお気に入りとなった深彗しんせいは、絶景を堪能しながらその少し先から聞こえるリズミカルな靴の音に耳を澄ませた。

 ――カツン、コツン、カツン――

 黒革のローファーでアスファルトをリズミカルに踏み鳴らす心地いい靴の音は、彩夏が正門から南に真っすぐ伸びる坂道を下る音。

 手には大きい黒のスクエアバッグ、濃紺に校章が刺繍された靴下、深縹こひはなだと濃紺、薄い灰色のガンクラブチェックの膝丈プリーツスカート、そこから長くすらりとした脚線が目を引く。

 風に揺れる真白なリボンタイの半袖セーラーは縁に紺色のラインが装飾されており、清楚で品があるデザインはそれを身に纏う彩夏によく似合っている。

 彩夏の歩く後ろ姿を盗み見る深彗は、日本の学生服もいいものだと感慨にふける。

 暦の上では季節は秋というが、日差しはまだ強くなんといっても蒸暑い。

 空気が丘の頂上に向かって起こる上昇気流。その時、坂の下から心地いい南風が吹き抜け深彗の火照った頬をそっと撫でた。

 坂道を吹き抜ける南風は、彩夏のライトブラウンの長く艶やかな髪をしなやかに靡かせた。さらさらの長い髪がふわりと風に舞い上がり毛先までしなやかに靡く様に、深彗は心躍らせた。

 その刹那、深彗の心臓がどきりと音をたて跳ね上がる。

 悪戯な南風は彩夏のスカートまでもふわりと舞い上がらせ、すらりと長い白く美しい脚が深彗の目の前で露わとなったから。

 そんな刹那の出来事に頬を紅潮させた深彗は、思わず周囲を見渡すと幸いその場に居合わせたのは深彗だけのようで胸を撫でおろした。

 

 深彗は再び前を歩く彩夏に視線を注いだ。

 シルクのように滑らかな白い肌は、強い日差しを浴び輝きを放つ。整った美しい鼻、形のよい淡い桜色の唇、くっきりとした二重瞼に琥珀色の澄んだ瞳の彩夏は可憐で清楚、そしてどこか儚げで周りの目を引く美しさを宿している。

 そんな彩夏を目の当りにした道行く者たちは、皆彼女に目を奪われ振り返る。

 彩夏は周りが見えていないのか、全く気付いていないようだ。

 

 突如、彩夏が足を止めた。深彗も立ち止まり少し離れたところから様子を窺った。

 彩夏は幼い女の子と女性を見ているようだ。

 ややあって、彩夏は突然うずくまり苦しそうな表情を浮かべた。

 深彗は、ただならぬ様子に声をかけようかと逡巡したが、その時なぜか踏み入れてはいけない気がしてあえて見守ることにした。

 彩夏は、肩を振わせ泣いているようにも見えたから。



 彩夏は、坂道を下ったところにあるお肉屋さんの前を通りかかると店の奥さんに声をかけられた。

「あ~ら、彩夏ちゃんじゃない。しばらく見ないうちに随分とべっぴんさんになったわね」

 彩夏は、その言葉をいわゆる世間一般でいう社交辞令として捉えた。

「こんにちは。本当にお久しぶりですね」

 どのくらい経つのだろうか。よくおばあちゃんのお使いでコロッケを買いにきた。この店の奥さんに会うのは小学生以来だった。

「これから帰宅?」

「これからアルバイトです」

「まあ偉いわね。気をつけていってらっしゃい」

 彩夏は店の奥さんにお辞儀をして再び歩き出した。


 しばらく歩くと、前方からバイクに乗ったスーツ姿の男性が彩夏の前で止まった。

 その男性はヘルメットを外すと笑顔で彩夏に話しかけてきた。

 あまり見覚えのない中年の男性だった。

「あ、葉月さん家の娘さんだね。君のご両親にはいつもお世話になっているよ」

 何故か家族をよく知っているようだった。見たところ金融関係の人らしい。融資の関係だろうか。中年の男は続けて話してきた。

「いや~、噂には聞いていたけど綺麗な娘さんだ~。君は内の職員の間でも有名だからね」

 彩夏は、思いもよらぬ言葉にそんなはずはないと困惑し戸惑いの表情を浮かべた。

 小学生までの彩夏はいわゆる女の子というイメージからかけ離れていた。どちらかと言えば少年のように中世的な容姿で、誰からも褒められたことはなかったからだ。

そのためか女の子らしい子にどこか憧れる時期もあったほどだ。

 幼い頃から母にブスな子だと言われながら育ったせいか、自分でもそう自覚している。そんな自分を褒める者など信用できない。

 怪訝な表情を浮かべた彩夏だったが、後で母に何を言われるか恐れとりあえず挨拶だけはきちんとしておこうと思った。

「いつも両親がお世話になっております」

 彩夏は恭しく頭を下げお辞儀をすると、男性も頭を下げ再びバイクで走り去った。

 彩夏の家は自営業を営んでいる。こうして地域住民に知り合いが多いのも悩みの種だった。人見知りする彼女にとって、こういったコミュニケーションは実のところ苦手だった。

 


 彩夏は、駅に着くとバックの中をガサゴソとあさり始めた。

「えっと~どこにある……」

 普段徒歩で通学の彩夏が交通 ICカードを使うのはアルバイトに行く時くらいだ。

「やあ……偶然だね……」

「!」 

 声だけで顔を見ずとも誰だかわかった彩夏は、顔を上げることなく手を動かした。

「いつからいたの」

 目的のものが見つからない。彩夏はバッグの中を探し続ける。

「君が正門を出た時から……」

 彩夏の心臓がドキリと音をたてた。探し物をする手が止まった。

「そう……」

 彩夏は素っ気ない態度でそれ以上の会話を避けた。

 彩夏が改札を通過すると彼も後ろをついてきた。

 小さな駅のホームは学生たちで溢れている。きっと彼も電車通学なのだろう。

 すると彩夏の隣に並んで立つ彼は「彩夏、これからアルバイトに行くの?」と話しかけてきた。

「?」 

 いつしか呼び捨てにされていると気づいた彩夏は、質問への返答どころではない。不愛想な表情で水星の顔を不満げに見上げた。

 目が合うと水星は満面の笑みで彩夏を見つめてきた。

 彼は終始笑顔を絶やさない。よくもまあ、ここまでよく笑えるものだとある意味、尊敬に値する。海外生活を送っていたせいだろうか。彩夏そう思った。

「あの……水星さん。私はあなたに呼び捨てされるほど仲良しではありませんが……」

「名前で呼んでくれる?深彗でいいよ」

 彩夏の話を全く理解していないようだ。

「あの、ですから……深彗君、私がこれからアルバイトってどうして知っているの」

 律儀に名前で言い直す彩夏に深彗は屈託のない笑顔で答えた。

「くんもいらないよ」

 彩夏はなんだか拍子抜けしてしまい、それ以上質問するのをあきらめた。

 するとマイペースな深彗は質問してきた。

「彩夏はどうしてアルバイトをしているの?」

 突然の質問に彩夏はどう答えたらいいか逡巡した。

「……しゃ、社会勉強……そう、社会勉強の一環として」

 たどたどしい話し方で返答した。

「そうなんだ。君は偉いんだな」

 彩夏の両親はお小遣いをくれないどころか、学校で使用するちょっとした備品や教材費も出してはくれない。決して家が貧しいわけではない。兄たちは時々事業を手伝うからといってお小遣いを貰っているが、彩夏は貰ったことがなかった。

『おばあちゃんに貰えば』が母の口癖だった。祖母と彩夏に対する母の嫌がらせとしか思えなかった。

 ある日彩夏は知った。

 母は家事全般をこなす祖母に生活費を入れていない。今、祖母の年金で生活費をやりくりしていることを。

 辛抱強い祖母は決して愚痴など零さない人だが、見ていればよくわかる。彩夏は、そんな祖母からお小遣いなんて貰えるわけがなかった。

 そんな秘密にしていたい家庭の事情など他人に明かす訳にはいかなかった。

 葉月家の実権を握っているのは母。そんなことがバレたら母から酷い仕打ちを受けるに違いないからだ。

 太陽が雲間に入ったように彩夏の横顔が曇っていった。

 


 暫くすると電車がホームに入ってきた。

 二人はその電車に乗り込むと彩夏は座席に座った。深彗は彩夏の前の吊革につかまり上から彼女を見つめた。

 彩夏は四つ目の駅で立ち上がると電車から降りた。深彗も無言のまま彼女に続く。

 その後も深彗は彩夏の後ろをなぜかずっとついてくる。

「深彗君の家はこのあたりなの?」

 居たたまれなくなった彩夏は深彗に質問すると、彼はにっこりと微笑んでいるだけで何も答えない。

「ここ、私のバイト先だから、じゃあ……」

 彩夏はそう言って深彗と別れた。



 アルバイト終了時間となり彩夏は帰り支度をしていた。これから自宅に帰れるというのに、心は陰り憂鬱な気分になっていった。

「では、お先に失礼します」

 エアコンが効いた店内から出ると、湿気を帯びたモアっと纏わりつくような重苦しい外気に包まれた。夜だというのに日中とさほど変わらない熱風のような暑さと、湿度が不快でならない。

 駅に向かう途中、歩きながらコンパクトにまとめた髪を一度解く。さらりと弾むように髪が広がる。先程まできつくまとめられていた髪だということを感じさせない程、真っすぐで艶のある美しい髪だ。

 彩夏は手櫛で髪を一つまとめに縛り直す。その髪は歩く度に弾み、馬の尻尾のように跳ね上がっている。

「おつかれさま」

 突然声をかけられ、彩夏は目を丸くした。そこには深彗がいたからだ。

「どうしたの?こんな時間に、こんなところで……そういえば、家こっちだったよね」

「君を待っていた」

 深彗はあたたかな眼差しで彩夏を見つめながらそう答えた。

「え――?」 

 彼の唐突な発言に彩夏は言葉を失った。

「家まで送るよ。さあ行こう」

 そう言うと深彗は彩夏の隣を並んで歩き始めた。

 それがあたかも当たり前のように、極自然に振舞う深彗に彩夏の思考は混乱する。

 今まで家族にだってされたことはなかった。

「どうして?どうしてそんなことまでしてくれるの?」

「どうしてだろう……僕はただ、君の傍にいたいだけ……それじゃダメかな?」

「……」 

 深彗の連発される突拍子もない発言に、彩夏はどう返答していいのか分からなくなり押し黙ってしまった。

 暫く二人の間に沈黙が続いたが、深彗によって破られた。

「彩夏、君は人気者だね」

 先程から深彗の耳を疑いたくなるような発言に振り回され、彩夏の思考は混乱の二文字しかなかった。

「何を根拠に……」

「君は皆に注目されている」

「それは、あな……」

 と言いかけて彩夏は話すのを止めた。あなたのせいで私までも注目されてしまって迷惑だと。そして、あなたは私のことを何も知らないからそんなことが言えるのだ、と言いたかった。

 再び二人は沈黙したまま歩いていた。


「あら?彩夏ちゃんじゃない?」

 突然声を掛けられ顔をあげると、大きなトートバッグを肩にかけた女性がいた。その女性は彩夏の母勝代の妹、彩夏からしたら叔母の智子ともこだった。

 彩夏のアルバイト先のすぐそばに家族と暮らす叔母は買い物帰りのようだ。

「叔母さん、こんばんは」

「まぁ、しばらく会わないうちに随分と綺麗になったわね。見違えるほどよ。姉さんに似なくてよかったわね。ていうか、あなた家族の誰にも似てないわね」

 叔母は前のめりに彩夏の顔をじっと凝視するため、思わず顔を後ろに引く。

「こんな時間にこんなところで何しているの?」

「アルバイトの帰りです」

「彩夏ちゃんどうしてアルバイトなんてしているの?進学校なのに大変じゃない。お小遣い足りないの?」

「……そういうわけはありませんが……」

「もしかして、姉さんからお小遣い貰えてないんじゃないの?」

「!」

 図星なため慌てふためいた。傍に深彗がいる今、言って欲しくない言葉だった。

「姉さんは厳しい人だから、彩夏ちゃんも大変ね。辛い目に合ってない?」

「……」

「あの人は昔から変わらない。頭が良くて何でもそつなくこなす姉さんは口も立つから幼い頃から両親と言い争ってばかりでね、関係がぎくしゃくしていたのよ。そんなだから大学へ進学したかったみたいだけど断念したのよね」

「母が大学に?」

「そうよ。代わりに勉強苦手な私が大学に行かせてもらえることになった時は、姉さん相当落ち込んでいるようだったけど。今は嫁ぎ先の事業で成功しているようだからこだわりもなくなったでしょうけど」

 物心ついたころから母と心通わせ会話した記憶がない彩夏。叔母を通して初めて母の闇を知ることになった。意外な真実を知った彩夏は複雑な胸中であった。

「彩夏ちゃん、立ち話でこんな時間になっちゃったから自宅まで車で送っていこうか?」

 彩夏は携帯端末で時間を確認すると、少し離れた場所にいる深彗に視線を送った。

 智子はその様子から深彗の存在に気づき、深彗の顔を見てにっこりと微笑んだ。

「綺麗な男の子ね。ひょっとして彼氏?」

 彩夏は目を丸くして、ブンブンと顔を左右に大きく振った。

「ち、違います!ただのクラスメイトです!」

「そう?彩夏ちゃんを見つめる眼差しが優しいわね……ふふふ……」

 彩夏は電車の時間が気になり叔母の話など耳に入らない。

「叔母さん、電車乗り遅れてしまうからもう行きますね。さようなら」

 彩夏と深彗は速足で駅に向かって歩き出した。

 智子は笑顔で二人を見送った。



 電車に乗り込んだ二人は横並びに肩を並べて吊革につかまった。

 彩夏は、先程の叔母の言葉を思い出していた。

『大学へ進学したかったみたいだけど断念したのよね』

 あれほど彩夏の大学進学を拒む母は、実は大学に進学することを夢見ていた。自分が大学に行けなかったから、その腹いせだろうか。兄たちは黙っていても進学は保証されていた。では、私は?夢見ることすら許されない。

 こんな自分にだって夢はある。というか、今となってはあったという表現の方が相応しいのかもしれない。

 彩夏が夢を思い描けば描くほど残酷な現実の世界に打ちのめされ遠退いていく夢。いつしか夢とは、どんなに強く願っても、どんなに努力しようとも永遠に叶うことのない理想と定義されていった。

 ――私は一体何のために生まれて生きたのだろうか。

 今の彩夏は夢も希望も抱けず、あるのは失望と虚無感だけだった。

 彩夏は「ふぅ」と短く息をついた。

 ふと車窓に目を向けると、無言のままガタンゴトンと揺れる電車に身を委ねる二人の姿がくっきりと映し出されていた。

 深彗は彩夏の頭一個分以上背が高い。出会ったばかりの二人がこうして電車で肩を並べて乗っていることに不思議な感覚を覚えた。

 ――何だろうこの感じ……なんて表現したらいいのだろう

 車窓越しに深彗と目が合った。深彗は柔らかな眼差しで彩夏を見つめていた。彩夏はガラスに映る深彗をただ漠然と見つめた。

 結局、押しに弱い彩夏は深彗に自宅まで送られることになった。

「家ここなの。深彗君、送ってくれてありがとう」

 彩夏は深彗に深々と頭を下げた。

「おやすみ、彩夏」

 深彗は彩夏が家の中に入るのを確認するとどこかに帰っていった。

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