僕の知らない君 ②
澄んだ高い空に真白なうろこ雲が連なる。空はすっかり秋の色。
終礼が終わると彩夏はそそくさと教室を後にした。
それに気づいた深彗は席を立ち、彩夏の後をついて行った。
その様子を見ていたクラスメイトの由実はいたずらな笑みを浮かべる。
「ねえ、彩夏~気づいている~?」
「何のこと?」
「いつも水星君は彩夏の後ろをくっついて歩いているよね」
由実は、二人を見ながらころころと子供のように笑い始めた。
彩夏が振り返るといつの間にか深彗が後ろにいた。彩夏と目が合った深彗は口角を上げ微笑んだ。
『どうしてだろう……僕はただ、君の傍にいたいだけ……それじゃダメかな?』
先日アルバイト帰りの出来事を思い出してしまった彩夏は狼狽える。
「いや~た、たまたま?勝手に係にされたし、帰る方向も一緒みたいだから……そう見えても仕方がない、よね……」
彩夏は、深彗の視線から逃れるように目を泳がせ酷く動揺しているように見えた。
その様子を見逃さなかった由実はニヤリと笑う。
「彩夏の後ろをついて歩く水星君はまるで番犬だね。二人はお似合いのカップルだよ」
その言葉に反応し嬉しそうな表情を浮かべる深彗は、はちきれんばかりに尻尾を振る犬のよう。
彩夏は恥ずかしさから逃れるために、一刻も早くその場から立ち去りたかった。
「私、これから用事があるから、じゃあ」
彩夏は、気持ちを悟られないようクールに対応し足早に去った。
珍しく、彩夏はバス停に佇んでいた。
彩夏を見つけた深彗は彼女の隣に立つと話しかけてきた。
「彩夏、バスでどこに出かけるの?」
「どこだっていいじゃない。深彗君には関係ないでしょ」
「それに、皆に変に誤解されるからついてこないでくれる」
――ちょっとキツイ言い方だったかな
「つれないな。僕は君の番犬だよ。君を守るためにいつも一緒さ」
へこたれない深彗。心配して損した彩夏は、呆れて返す言葉も見つからなかった。
彩夏はそんな深彗を懲らしめてやろうとちょっとした悪戯心を抱いた。
「じゃあ、ワンコ君。主の命令に従えるかな?はい、お手は?お手……」
深彗を犬とみなした彩夏は右手を彼の前に差し出して揶揄した。
彩夏の意外な言動に驚いた深彗は何度か目を瞬いたが、反射的に左手を彩夏の右手に乗せた。
彩夏はやってやったとばかりにしたり顔で深彗を見つめると「はい、良くできました。お利口さんね!」といって彼を揶揄った。
――これだけ侮辱されたら、さすがに離れるでしょ
次の瞬間、深彗は彩夏の手を掴みぎゅっと握りしめた。
「え⁈」
深彗の意表を突いた行動に彩夏は酷く動揺し、視線は握られた手と深彗の顔を行ったり来たりで忙しい。
深彗は真顔のままその手を離すことなく横並びに立ち、バスが来るのを待った。
その思いがけない出来事に、どう反応していいか分からず声を失い固まる彩夏。
彩夏の胸は、ドキドキ張り詰めてくるのを感じた。
「……深彗君が番犬だなんていうから……ちょっと揶揄っただけ。手を離して……」
深彗は黙ったまま何も話さない。
彩夏は繋がれたその手を解こうとすると、先程よりも強く握り返された。
そうこうしているとバスが到着し、深彗は手を繋いだまま先を歩きだした。彩夏は手を引かれながらバスに乗車すると、誘導された後部座席に二人座ることになった。
バスが動き出す。一度繋がれた手は解かれない。彩夏は困惑の表情で話しかけた。
「深彗君……怒っている?揶揄ったりしてごめんなさい」
「僕は、君の命令に従っただけだよ」
「本当にごめんなさい、だからお願い、手を話して……」
「……僕がこうしていたいんだ」
深彗は、切れ長の澄んだ目で真っすぐ彩夏を見つめながらそう答えた。
深彗の言葉とその眼差しに気後れしてしまった彩夏。
頬は見る見るうちに熟れた林檎の如く真っ赤に染まり、耳元までパッと燃え立ち熱を帯びていった。心臓は、早鐘となって胸を突き続けた。
彩夏は揶揄われていると知りながら、動揺する気持ちを深彗に悟られないように車窓の外に視線を移した。
彩夏は、流れゆく景色を眺めながら平常心を取り戻すことでいっぱいだった。
バスは停留所を過ぎる度に乗車する人が増えていき、空いている席はなくなった。
そこへ足に障害がある三十代男性が乗車してきた。彼はバスのステップを上がるのも一苦労な様子で、乗車するまでに時間を要していた。
男性は迷うことなく乗車してすぐの位置に立ち、手すりに掴まった。
入口の座席に座る若い女性が席を譲るが彼はなぜか断っていた。
バスが発車するとその男性の身体が大きく揺れているように見えた。足に踏ん張りがきかないからだろう。今にも転倒しそうで見ていて冷や冷やした。
彩夏は、男性がなぜ譲られた席に座らなかったのか、そんなことを考えていた。
「あの……深彗君、ちょっとだけ席を外してもいい?」
彩夏の訴えに深彗は彼女の手を開放した。彩夏はその場を離れると、走行中のバスの中を前方に向かって歩き始めた。
両替でもするのだろうと思って見ていると、彩夏はその男性のすぐ傍に立った。
「?」
深彗は、彩夏のとった行動の意味することを次の瞬間目の当たりにする。
案の定、バスは突然の急ブレーキがかかり車内は大きく揺れ動いた。
脚力の弱い男性は、その場に踏みとどまることができず手すりから手が離れてしまい、慣性の法則により前に勢いよく放り出された。
それを見ていた深彗は、思わず立ち上がり目を丸くする。
その刹那、彩夏は咄嗟に男性の腕をつかみ転倒を防いだ。
これは危険を予測し行動に移したからこそ、最悪な事態を回避することができたのであろう。
男性は乗車して間もなく下車した。その際、男性は彩夏を見て何度も頭を下げた。彩夏は恥ずかしそうに首を横に振っていた。
それは、よく見ていなければ誰にも気づかれることのない一瞬の出来事だった。そんなことを何気なく行動に移す彩夏の、勇敢で心根の優しい一面に触れた瞬間でもあった。深彗はそんな彩夏にますます惹かれていった。
随分と乗車した気がする。ここが目的地なのだろうか。
彩夏はバスを下車した。そこは、この街唯一のショッピングモールだった。
「彩夏、ここが目的の場所なの?」
「そう」
彩夏は相変わらず素っ気ない態度で深彗に返答した。そんな対応をされたにも関わらず深彗は彩夏を見て破顔した。
彩夏は、深彗を気に留めることなく本屋に吸い込まれるように入っていった。
ある専門書のコーナーで足を止めた彩夏は、いろいろな本を手にとり開いては閉じを繰り返し購入する本を吟味しているようだ。
深彗はそんな真剣な彩夏の横顔を微笑ましくずっと見つめていた。
暫くして、一冊の厚みのある本を手にした彩夏は大きく頷くと他の本を棚に戻し始めた。選んだ本を大事そうに胸に抱えた彩夏の表情は心なしか嬉しそうに見えた。
深彗は先に書店の外で待っていると会計を済ませた彩夏が足早に戻ってきた。
「深彗君は本見なくていいの?」
「うん、今日のところはいいよ」
「ねえ、せっかく来たから洋服屋さんも見て行っていい?」
彩夏の声のトーンがいつになく明るく感じた。
「僕は構わないよ」
彩夏は子供のように嬉しそうに微笑むと弾むように歩き出した。学校では見たことのない一面を垣間見た気がした。それから二人は、いろいろな店舗を見て回った。
とある雑貨屋でこっそり馬のお面を頭から被った深彗は、彩夏に声を掛けられると振り返った。彩夏は目を丸くして驚き、声を出して笑った。
深彗は、彩夏が楽しそうに笑う姿を初めて見てちょっぴり嬉しかった。
彩夏は「私も!」と言って馬のお面を被り始めた。彩夏が振り返ると深彗の姿がどこにも見えない。
「深彗君?」彩夏は一人だけと分かると恥ずかしさに頬が燃えるように熱くなるのを感じた。深彗の悪戯だと気づいた彩夏は、慌ててお面を外しその場から去ろうした。すると「彩夏!」と背後から声を掛けられ、憤りを感じた彩夏は一言文句を言ってやろうと振り返った。
だが、彩夏は「ごめん、君の反応が見たくてつい……」と真剣な口調で謝る深彗を見て怒りを忘れ思わず吹き出してしまった。
彩夏は、ひょっとこのお面を被ったまま謝罪する深彗のシュールさにやられてしまったのだ。彩夏は、お腹を抱えてケラケラと笑った。
――君はこんなにも楽しそうに笑うんだ……!
そんな彩夏を見ていると自分までもが楽しく感じられた。
「彩夏……僕たち、デートしているみたいだね!」
深彗の唐突な言葉に彩夏は胸の高鳴りを覚えた。深彗にとってこれといった意味のないことかも知れないけれど、何気ない彼の言動は彩夏の心臓に悪い。海外生活に慣れた深彗は、このような対応は日常茶飯事なのだろう。ただでさえ誤解を招くというのに、彼はさらりと日本の女子たちが喜びそうなセリフを言ってのけ、思いがけない行動を起こすのだ。
――学校の深彗ファンが、彼のこれまでの奇抜な言動を目の当りにしたらきっと卒倒するに違いない
彩夏は想像しただけでも可笑しくなってきて、思わず口角をあげ「ふふふっ」と小さく笑った。
その瞬間を見逃さなった深彗は「あ!今、何か思って笑ったな!」と声を上げた。
「笑ってない!」と彩夏は否定するけれど、彼女は確かに笑ったのだ。
深彗はなぜかその時、彩夏が笑う顔が見たかったことに気づいた。
幸せそうに微笑む彼女をもっと見てみたいと思う自分がそこにいた。
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