君との出会い
奇跡はある日突然訪れる
ずっとそう思っていた
けれど あなたは気づかせてくれた
奇跡は起こすもの
あなたは勇気を与えてくれた
奇跡へのその一歩を
あなたは導いてくれた
知ることもなかった輝かしい未来へ――
「葉月さんお疲れ、もう時間だよ」
店内の時計は二十一時を指していた。
「ではあがらせていただきます。お先に失礼いたします」
自宅の最寄り駅から私鉄電車で四つ目の駅に彩夏のアルバイト先があった。
更衣室で制服から私服に着替えると職場を後にした。
アルバイト先周辺は彩夏の自宅周辺に比べたらはるかに明るく賑やかだった。
彩夏は寄り道せず真っすぐに駅に向かった。
駅がすぐそこというところでホームに電車が入ってくるのが見えた。それを見て慌てて走り出す。
田舎の私鉄は夜になると運行本数が激減する。これを逃すと次の電車まで最低三十分以上は待たせられる。
彩夏は息を切らせながら走り、電車に滑り込むように乗車すると安堵した。
しかし、バイトが終わり自宅に向かっているというのに解放感は感じられず、むしろ拘束感を覚えた。
電車は、彩夏の憂鬱な気分を乗せたまま自宅の最寄り駅に到着した。
駅周辺だというのに辺りは暗い。
田舎道に沿って佇む住宅は家と家の間隔が広くどこか閑散としている。
見上げると夏の虫たちがひらひらと街灯に群がっている。
そこへ鳥とも違う得体のしれない黒い生き物がパタパタと無数に飛び交っているのが見えた。祖母曰くコウモリだという。
この町はその大昔、山の噴火に伴い溶岩が海まで流れ出し地下に空洞が生まれた。現在も地下のどこかに無数の空洞が存在しコウモリが住み着いていると聞いたことがある。日没になると、どこからともなく現れる不気味なそれは、音もなく闇夜に舞い続ける。
彩夏はそんな不気味なコウモリでさえ羨ましく感じた。コウモリたちは誰にも縛られることなく、好きなところに思うがまま自由に空を飛ぶことができるからだ。
しかしコウモリたちも日中は暗い洞窟でひっそりと過ごしている。闇の中で一体何を考えているのだろうか。
そんな思いを巡らせていると、不意に何かが鼓膜を揺らし思わず身をすくめた。
小さな黒い物体が目の前をかすめていった。
虚空から現実に意識が戻された彩夏は、前に向き直ると自宅に向かって歩き始めた。駅から最短で五分程歩いたところに自宅がある。
だが途中、田畑が広がり住宅も人気もない真っ暗な道を通らなければならない。
彩夏の脳裏には、ある記憶がこびりついて離れない。
小学二年生の彩夏は、日も沈み辺りが暗くなり始めた夕暮れ時、習い事から帰宅しようと一人この道を歩いていた時のことだった。自転車に乗った当時中学生くらいの少年が彩夏に近づき路上で痴漢に遭ったのだ。
『お家はどこ』と聞かれ何か恐怖を感じた彩夏は反射的に自宅と反対方向を指さし、その場から走って逃げた。
その頃の出来事を思い出しただけでもいまだ恐怖を感じる。この道は止めておこう。彩夏は、少し時間はかかるが遠回りして帰宅することにした。
比較的住宅の多い道を歩いていると、駅を出てからずっと後ろをついてくる気配を感じ振り返った。体格のいい男性というのは分かるが容姿までは確認できない。
彩夏は偶然同じ方向に帰宅する人だろうと自分に言い聞かせ、歩くスピードをあげ男から距離を開けるようにした。
しかし、男との距離は広がることなくむしろ近づいているように感じた。
――気のせい?
彩夏は背後を意識しつつ、あることを確かめるための行動に出た。
直ぐの角を右に曲がり再び次の角を左に曲がり更に左に曲がり元の道に戻るというものだった。
男は彩夏の後ろをずっとついてくる。最後の角を曲がり元の道に戻った時、彩夏は確信した。
――間違いない、痴漢だ!
彩夏は持ち前の瞬発力で駆けだすと男も必死になって後をついてくる。危機感を覚えた彩夏は必死に走り続けた。暫くして振り返ると、男の姿はもうどこにも見当たらなかった。
立ち止まり呼吸を整え安堵した瞬間、荒々しい息をあげながら目の前に両腕を広げ立ちはだかる男の姿があった。
――まずい!
先回りされていた。街灯もない暗闇の中、男の顔が見えない。ただ恐怖だけがそこにあった。彩夏は恐怖のあまり足がすくんでしまったが、男につかまるわけにはいかない。彩夏は背水の陣でその場から駆けだした。
どの道をどのように走ったかさえ覚えていないほど、無我夢中で走り続けた。
自宅だったらとっくに着いていたことだろう。ただ自宅と反対方向に向かっていることだけは確かだった。
気づけば銀杏地蔵の場所まで来ていた。辺りは住宅が少なく人気もない。
焦った彩夏はすがる思いで銀杏地蔵に「助けて、お地蔵さん!」と強く願った。
男は諦めたのだろうか。背後から男の気配は消えていた。
それでも警戒し辺りを見渡すと、突如前方からザッザッと玉砂利を踏む音がした。
静寂に包まれた闇の中、その音は確実に近づいてくる。
もうこれまでかと思った彩夏は「キャー痴漢!」と大声をあげた。
「ちょっと、待った!」
暗闇の中から男の姿が現れた。
彩夏は反射的にその男の脚に蹴りを一発お見舞いすると、男は転倒した。
「痛ったたた……」
思った以上に弱々しい痴漢のようで、地面に這いつくばったまま起き上がってこられない。そのうちに逃げようと男に踵を返した時だった。
「君のキック、凄いね……」
若い男性の声だった。
その声に彩夏は思わず振り返った。
――あれ?若い人?後ろについてきた男はもっと年の人だったような……まさか、人違い?
男は顔をあげ彩夏を見上げた。
だが、男の顔は月明りの逆光でよく見えない。
彩夏は、ゆっくりと立ちあがる長身の男を見上げた。
月明かりに照らされ映し出された男は、彩夏とさほど年が変わらないであろう少年だった。
少年の瞳は月の光に照らされ星のように煌めいている。ぱっちりとした二重の切れ長の目、日本人とは思えないきれいな鼻筋の通った高い鼻、暗闇でもわかるほど白い肌、銀色に煌めく髪、この世のものとは思えないほど美しい少年だった。
少年は彩夏をじっと見つめ、目が合うと瞳に弧を描き優しい眼差しで微笑んだ。
意表を突かれた彩夏は、言葉を失った。
このあたりでは見かけない少年だ。夏休みで親戚の家にでも帰省した者だろうか。
それにしても、この少年はこんな時間に人気のない真っ暗なこの場所で一体何をしていたのだろうか。
少年の不審な行動に警戒心を解けない彩夏は、じりじりと後退りしながら少年との距離を開け、踵を返しその場から逃げ去った。
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