セミの鳴き声
小高い丘の上、こんもりとした小さな森に隣接するのは
うっとうしい梅雨が明けたとたん、うるさいくらいにセミが一斉に鳴き始めた。
大合唱となったその鳴き声は校舎の壁に反響し、もはや騒音と化している。
「うるさい、うるさい、うるさーい!」
教室にいた三人グループの女子生徒たちの一人が、教室の窓から外に向かって大声をあげた。
教室の窓側の椅子に向かい合って座る二人の女子生徒たちは、下敷で扇ぎながら仲間の大声に反応して盛り上がっている。
彼女たちの声もセミに負けず劣らず、なかなかにしてうるさかった。
教室の真ん中の席で、机に頬杖をつきながら暑さにだらける彩夏はセミのうるささに全くその通りだと心の中で共感していた。
セミは寿命が短いというのにわざわざエネルギーを使い何故こんなにも鳴くのだろうか。寂しいから仲間を探しているのか。それとも、何か伝えたいことでもあるのだろうか。短い寿命だからこそ謳歌して鳴くのだろうか。
彩夏はそんなとりとめのない疑問に思考を巡らせると、「ふぅ」と深いため息をついた。
「彩夏~今日朝から何回目のため息よ~」
クラスメイトの
無意識ではあったが、朝からとは彩夏自身気づいていなかった。
由実はそういう所がある。彼女は人をよく観察している。否、よく気づくといった方が語弊はないかもしれない。
彼女は今年の春高校二年生に進級してから知り合ったクラスメイトだ。
彼女はどちらかというと学年でも悪目立ちするメンバーに所属しているが、実際いじめなど陰湿なことは決してしない子だった。
仲間意識が非常に強く友達思いの由実は、メンバーの異変に誰よりもいち早く気づくといつも迅速に対応している。
なかなかできることではないと、彩夏はいつも見ていて感心させられる。あえて彼女に言葉で伝えたことはないが、気配りの行き届くある意味とても凄い子だと感じていた。
彩夏はどちらかといえば孤高の一匹狼タイプ。
あえて人との間に壁を作り、人を寄せ付けない空気を醸し出しているというのに、彼女は恐れることなく何故かいつも彩夏のことを気にかけてくれる唯一のクラスメイトだった。
彩夏にはどこかのグループに所属しているという意識は全くない。
だが由実は彩夏に積極的に話しかけてきて、気づけば昼食も彼女の仲間に入って食べることになっていた。
おかげで、独りぼっちで食事するということは避けられた。
そう、実のところ由実は優しいのだ。
彩夏は教室の掛け時計に視線を送ると「ふぅ」と無意識にまたも深いため息をついた。
うるさいのはセミだけではない。
今日は夏休み前の三者面談だった。もうじき母が学校にやってくる。
「ほらまた!ため息ばっかりついていると幸せが逃げちゃうよ~」
由実は彩夏の前に立ち眉根を寄せながらそう言った。
奥二重で大きな垂れ目の彼女は可愛らしい顔をゆがませると、ただのクラスメイトにすぎない彩夏の世話を焼いてくれている。
――私の幸せなんてとっくに羽が生えてどっかに行ってしまった。ここずっと一瞬たりとも幸せを感じたことなんてないのだから……
そう思うとなんだか自分が馬鹿らしく感じてきた彩夏は俯きながら思わず自嘲した。
「え?何、何?今の笑いは何の笑い?」
由実は敏感に反応し、セミロングの漆黒の髪をふわりと揺らしながら彩夏を覗き見た。
ハッとする彩夏。誤解を招いたかもしれないと思った彩夏は続けた。
「由実のかわいい顔が台無しだなって……」
彩夏は慌てて作り笑顔でそう答えると、由実は唇を尖らせむくれ顔になった。
「何よ~それ、思ってもいないでしょ。目が笑ってないし」
由実は呆れた顔をして彩夏から離れた。
「さてと、そろそろ帰ろうかな。彩夏はまだ帰らないの?」
「うん、この後三者面談だから……」
「なるほど。だからため息ばかりついていたってわけね。で、朝から?」
由実は目を大きく開き信じられないといった表情を浮かべた。
彼女には永遠に分からないであろう私の悩みだった。
彩夏はまたもや作り笑顔を浮かべ、手をひらひらと振り由実を教室から見送ってから再び時計に顔を向けた。時を刻む秒針になんだか追い詰められていくような気がした。
教室に担任の後藤先生がやってきた。
「皆、そろそろ面談が始まるから一旦教室から出るように」
教室にいた女子生徒たちは面倒くさそうに重い腰を挙げた。
担任は教室に設置してあるエアコンのスイッチを入れ、教室の窓を閉め始めた。
「先生、ずるーい!いつも使わしてくれないのに」
帰ろうとした女子生徒たちが一斉に不満を漏らし始めた。
「面談の日は特別だからな。ようのない奴は帰った、帰った」
彼女たちの言う通り本当にそうだと思った。普段は使わせてもくれないエアコンを親が来るという理由で使うなんて、結局学校も世間体を気にしているのだ。その点においては、外面のいい私の家族と何も変わらなかった。
担任は動物を追い払うかのようにしっしと手を動かし生徒を教室から閉め出した。
彩夏も一度退室しようと席を立ち荷物をまとめ始めた。
「お、葉月~お前はこの後面談だったな。で、お母さんは、そろそろ見えるかな」
担任は何か期待を含んだ表情と口調で話しかけてきた。それもそのはず、彩夏はその理由を知っていた。
「葉月、ちょっと手を貸してくれ」
面談のために机と椅子のセッティングを手伝わされる羽目となった。
エアコンの風が一番当たる中央付近に四つの机を向かい合わせると、再び教室の掛け時計を見上げた。
迫りくる不快な時がやってくる。間もなく母が到着する頃だ。
彩夏は一度教室を退室し生徒用玄関に母を迎えに行くことにした。
少しでも待たせでもしたら母の機嫌が悪くなる。想像しただけで、歩く速度が速くなっていった。
彩夏は生徒用玄関で母を待つことにした。
程なくして母が額に汗をかきながら現れた。
身長百五十九センチ、ややぽっちゃり体系。くせ毛で黒髪ショートヘアには銀色に光る白髪がところどころに入り混じる。日焼けした肌に鋭い眼光、細くシャープな薄い眉と一文字に結ばれた唇は、一目で気性の激しさを感じさせ威圧的な雰囲気を纏っている。
彩夏と母親は赤の他人程、容姿も性格も似ても似つかぬ親子だった。
仕事中一時的に抜けだしてきたのだろう。黒いTシャツにカーキのペインターパンツ、まさかの仕事着で現れた。
皆何気にどんな親か見定めているというのに、母は気にならないのだろうか。他の親は皆、小綺麗な装いで来校していた。
兄たちの面談の時は、いつも着替えて出かけて行った母を知っている。
彩夏の心の声が「ふう」と溜め息となって吐き出される。
彩夏はこれまでの高校生活を極力目立たないように過ごしてきたつもりだった。
これではかえって注目を浴びてしまうこと間違いなしだ。
思いが表情に出てしまっていたのか、母は彩夏を横目で睨みつけると、何事もなかったかのように持参したスリッパに履き替え歩き出した。
「ねえ、教室は何処なの」
不機嫌な表情で話す母の語気はきつかった。
この人が自分の母親だとまわりに知られたくないと思った彩夏は、母と他人の振りをして後ろを振り返ることなく早歩きで先を歩いた。
彩夏のクラスは廊下の一番奥だ。
そこに行き着くには、他のクラスの教室前を通らなければならない。
すれ違う生徒たちに変な目で見られるのではないかと恐れた彩夏は、妙な緊張感を覚えた。
彩夏は俯くと「こっちを見ないで、気づかないで」と心でそう願いながら廊下を歩いていった。
やっとのことで教室に着くと、担任は母を笑顔で迎え入れた。
母は外面がいいため、教師の前では終始笑顔を絶やさず私への眼差しも見たことのないものだった。
そんな母に対し、彩夏は背筋に氷を押し当てられたように、ゾクリとするのを感じた。
教師と対面する形で母と横並びに座った。
普段この距離で母と並ぶことがないため落ち着かず、母に気持ちを悟られないように何度か居住まいを正し誤魔化した。
机の上には、ノートパソコンと成績表、複数のプリントが置かれていた。
まずは一学期の成績結果を伝えられた。
学年で上位の成績をとったにも関わらず、母は喜ぶどころかむしろどこか冷めた目で担任の話を聞き流しているように見えた。
「進路希望をお聞かせください」
担任は私と母それぞれの顔を見て質問してきた。
「君の進路希望は?」
突然担任に振られた彩夏は膝に置かれた手にぐっと拳を握ると、小さな声で答えた。
「し、進学……」
「就職です。娘は就職希望です」
母は彩夏の言葉を遮るように言葉をかぶせ、ピシャリと言い切った。
彩夏は母に
いつだってそう。彩夏の想いや意見は母に聞き届けられることはなかった。
「彩夏さんの今の成績でしたら国公立大学への進学が可能ですよ。うちは進学校ですので彩夏さんには是非進学をお勧めします」
彩夏は、担任からの助太刀に顔をパッとあげ期待を含んだ表情で担任と母を見つめた。
「先生、女が学をつけてどうするのですか。どうせすぐに結婚して家庭に入るのだから、大学なんてお金の無駄です。それより早く働いて嫁に行ってくれた方が助かります」
担任は母の意見にそれ以上返す言葉が無いようだった。
なぜならば、自営業を営む私の家は学校のバックネットの修理やグラウンドの備品類を無償で提供しているため学校側も母には弱かった。
そう、この母に楯突いたら私はこの家では生きてはいけない。これまでもずっとそうだった。普段の父は母の言いなりだった。兄たちは、男だからという理由で成績が特別いいわけでもないのに四年生の大学に通わせてもらっている。
この家は、いつの時代と思わせるような男尊女卑の時代錯誤な考え方の家だった。
彩夏は膝の上に置かれた両手でスカートを強く握りしめた。
教室は重たい空気に包まれた。
静寂に支配されたこの教室に、窓を閉めても聞こえてくるセミの鳴き声だけが響き渡っていた。
その時、まるでセミが彩夏の代わりに泣いているかのように感じた。
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