銀杏地蔵の木の下で

龍音

幼き君の声

 小高い丘の上。

 眼下には海岸まで開けた街、穏やかな海、目が覚めるような蒼い空はその先に望む美しい半島の稜線をくっきりと浮かび上がらせている。

 遥か遠くに望む水平線は空の蒼と海の碧に線を引き、日の光を集めたような海は宝石をちりばめたかのようにきらきらと煌めいている。

 

 カツ、コツとリズミカルな靴の音が響き渡る。

 その心地いい靴の音は、少し先を歩く黒い革のローファーを履いた者が南に真っすぐ伸びる坂道を下る音。

 手には大きい黒のスクエアバッグ、濃紺に校章が刺繍された靴下、深縹こきはなだと濃紺、薄い灰色のガンクラブチェックの膝丈プリーツスカート、そこから長くすらりとした脚線が目を引く。風に揺れる真白なリボンタイの半袖セーラーは縁に紺色のラインが装飾されており、清楚で品があるデザインはそれを身に纏う者によく似合っていた。

 坂道を吹き抜ける南風は、ライトブラウンの長く艶やかな髪をしなやかに靡かせた。  

 シルクのように滑らかで白い肌は夏の日差しに劣らず輝を放ち、整った美しい鼻、形のよい淡い桜色の唇、くっきりとした二重瞼に琥珀色の澄んだ瞳の少女は可憐で清楚、そしてどこか儚げで周りの目を引く美しさを宿している。

 そんな少女を目の当りにした道行く者たちは皆彼女に目を奪われた。

 だが、少女にはその自覚は全くなかった。

 その少女の名は葉月彩夏はづきさやか。彼女は地元進学校に通う高校二年生。

 人とは群れず孤高に生きる彩夏は人を寄せ付けない雰囲気を醸し出し、友人と呼べる者は誰一人いなかった。



 下校途中の道端で五、六歳の幼い女の子がうずくまり泣いていた。

 転んで怪我でも負ったのだろうか。

「お母さんごめんなさい」

 なぜか泣きながら謝る女の子は、すぐさま駆け寄る女性のことを「お母さん」と呼んでいた。

 女の子の手には、見事な大輪のひまわりの花が一輪握られていた。

「お母さんのために育てたのに……」

 よく見るとその花は根元で茎が折れていて、見るからに花瓶には刺せそうもなかった。

 女の子の母親は、その哀れな姿となったひまわりの花を両手でそっと包み込んだ。

「まあなんて綺麗なの。ありがとう、とても嬉しいわ」

 喜ぶ母親に女の子の泣き顔はみるみる笑顔に変わり喜色満面の笑みを見せた。

 彩夏にはその親子がとても眩しく感じて、思わず目を細めた。

  

 


 自宅の庭でそわそわと落ち着きのない様子の幼き彩夏。

 大切に抱えるその小さな両手には一輪のカーネーションの花。

 黄昏時、一台の車が自宅の庭に停車した。

『お母さん、お帰りなさい!』

 彩夏は運転席に駆け寄ると、満面の笑みで母を迎えた。

『お母さん、これあげる』

 彩夏は頬を夕日のように赤く染めながら、母に一輪のカーネーションを贈った。

 この日のためにと貯めた小銭を握りしめてお花屋さんでラッピングをしてもらった。

 彩夏は喜ぶ母の表情かおを想像しながら見上げた。

『花は好きじゃない』

 思いもよらないその言葉は、彩夏をがっかりさせるには十分だった。

 母に冷たい眼差しを向けられた彩夏は寂しげに表情を曇らせ、肩を落とした。

 それでも彩夏は気持ちを伝えたくて、花を母に手渡すとその場を離れた。

 その日の夜のことだった。

 二人の兄達から鉢植えのカーネーションを贈られた母はとても嬉しそうに微笑みながら受け取っていた。

 母は先程彩夏に見せた表情とは全く違って見えた。

 鉢植えのカーネーションは玄関に飾られた。

 彩夏は自分が贈ったカーネーションの花を探したが家中どこにも見当たらなかった。


『お母さん、お帰りなさい』 

 夕方帰宅した母の車の車内に昨日贈ったカーネーションの花を見つけた瞬間、彩夏は顔を綻ばせた。

 だが、次の瞬間彩夏は目を疑った。

『……』

 まさかと、頭の中で悲鳴を上げた。

 ガラス越しに見つけたその花は、昨日渡したままの状態で車内に放置されていた。

 花は既に萎れていて、息絶える寸前の生き物のように見るも無残な姿だった。

 自分の気持ちは母には届かなかったのだと、幼いながらも感じた瞬間だった。

 彩夏は自身の胸元のシャツを握りしめた。

 心がつねられたように、小さな胸がチクリと痛みを覚えた。


   


 気づけば、彩夏は制服の胸元のシャツを握りしめていた。

 忘れたくてどこかに押しやっていたあの頃の思いや光景がフラッシュバックし、彩夏の繊細な心を再び抉った。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 突如、動悸と息苦しさに襲われた彩夏は指先が痺れていく感覚を覚えた。

 ――まただ……

 その場にうずくまると慌てて口元を両手で覆い、苦しさに耐えた。

 暫くすると発作は治まっていったが、心は重苦しいままだった。

 彩夏は潤んだ瞳を寂しげに伏せ、口元に自嘲的な笑みを浮かべるとかぶりを振った。

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