幕間 戦場で見た夢
第一話 瞼の裏
「今日は、おめかしをして、部屋に来るのよ」
あの子が公爵家の屋敷に来る日の朝、母に釘を刺された。
私は、鍛錬のあと、母とあの子が刺繍をしている部屋で昼寝をしている。汗臭いままでは失礼だから、着替えてからだ。最近避けていたドレスを着てくるようにと言う母の言いつけに、私は不満を覚えた。
「いいですね。きちんと、おめかしをするのですよ」
「はい。母上」
公爵夫人である母の命令は絶対だ。ドレスを纏った私を、美しいと人々は称賛する。亡き父母から受け継いだ顔と、母と呼ぶ祖母からの教えの賜物だ。令嬢であれば喜んだのだろう。私は男だ。嬉しくも何とも無かった。
鍛錬のあと、母の命令通り、ドレスに袖を通し、きちんと身繕いをして、母とあの子がいる部屋のドアを叩いた。
「ただいま参りました」
「遅かったわね」
私が遅くなった原因は、ドレスを着てこいといった母だ。理不尽な挨拶に、文句を言おうとした口は、言葉を紡ぐことがなかった。
「お邪魔しています。あの」
恥ずかしげに頬を真っ赤に染め、ドレスに身を包んだあの子と目が合った。
「可愛らしいでしょう。今日は仕立て屋を呼んだかいがあったわ」
母は上機嫌だ。
「でも、あの、このような素敵なドレスを」
「娘のドレスなの。あなたに着てほしいわ。だって、ご覧なさいな、この子のこの背丈」
母は私を見て、これ見よがしに、溜息を吐いた。
「悪いことではありませんけれど、この背丈では、ねぇ」
また溜息だ。
「仕立て直したところで」
残念だ、がっかりだと言わんばかりに、今度は首を振りながら、何度目かの大きな溜息を、母はあの子に聞かせた。
母は私を見上げていた。つられたように、あの子も私を見上げる。既に父と兄の背丈を追い越した私は、母とあの子を見下ろした。育ての母である祖母の言う通り、亡くなった産みの母のドレスを着るには、私は背が高すぎる。あの子はちょうどよい背丈だった。
「このドレスを、もう一度、誰かに着てもらいたかったの。これを着て、ダンスを踊ってもらえたら嬉しいわ」
母の言葉に、あの子は困惑したらしい。縋るような視線を私に向けてきた。
「もう少し、首周りが華やかにならないかしら」
私は仕立て屋に声をかけた。目をいっぱいに見開いて、驚くあの子は可愛らしい。
「クローゼットで朽ち果てては、せっかくのドレスがもったいないわ。着るために作られたものですもの。あなたに着てもらえたら、ドレスを作った人も喜ぶわ」
あの子の性格くらい知っている。刺繍を嗜むあの子が、断れなくなる言い方くらいわかっている。
「では、レースを少し足すというのはいかがでしょう。いくつか見本がございます」
仕立て屋が、すかさず商売を始めた。
「素敵ねぇ。嬉しいわ。そのドレスはね、ダンスで回るときに、綺麗に裾が広がるのよ。是非、またそれを見せてね。懐かしいわ」
母が微笑む。
オロオロしていたあの子の目が、仕立て屋が差し出すレースを捉えた。大きく息を呑んだのがわかる。
「素敵」
小さく呟いた、可愛らしい声に、私は微笑んだ。刺繍を嗜むあの子は、目が肥えている。あの子の目は、一枚のレースに注がれていた。
「さすがはお嬢様、お目が高い」
仕立て屋が満足気な笑みを浮かべた。あの子が慌てたが、もう遅い。
「襟元にレースを足すなら、袖も少し華やかにしなくてはね」
「あの、奥様」
「是非、これを着て踊る姿を私に見せてね。楽しみだわ。娘が気に入っていたドレスなのよ」
母が満面の笑みを浮かべた。
「はい」
人の良いあの子が、断ることなど出来るはずもなかった。
「靴も必要ね」
「奥様、あの、そんな、私などに」
「あら、だって、ダンスでは、裾から少し、つま先が見えるのが可愛らしいのよ。せっかくのドレスですもの。素敵な靴と合わせてこそ、素晴らしさが引き立つのよ」
こうなった母を止めることが出来る人はいない。
「私の楽しみを奪わないで。可愛らしく着飾らせたいのに、この子ったら。あっというまに大きくなってしまって」
母がまた、私を見て、仰々しく溜息を吐く。遠慮するあの子に聞かせるためだ。どちらに軍配が上がるかは、明らかだった。
ドレスと靴と。母の見立てた装いは、あの子によく似合っていた。
「悪くないわよ」
私の言葉に、あの子は恥ずかしそうに、嬉しそうに微笑んでくれた。音楽に合わせて、あの子と踊った。懐かしい思い出だ。
目を閉じると、瞼の裏に微笑むあの子が見える。戦場は殺伐としている。夜は感傷的になる。耳を澄ませ、敵が立てる物音を探す。あの子の息遣い、衣擦れの音が聞きたかった。
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