第二話 もう一度
「今日、おめかしをして、部屋に来るのよ」
母の言葉に、私は首を傾げた。今日、あの子は公爵家の屋敷に来る予定ではないはずだ。
「いいですね。きちんと、おめかしをするのですよ」
「はい。母上」
母の命令だ。母の意図はよくわからなかったが、私は逆らわないことにした。
ドレスに袖を通し、きちんと身繕いをして、母の居る部屋の扉を叩いた。
「ただいま参りました」
「あぁ、ちょうどいいところに来たわね」
部屋には調香師がいた。母の気に入りだ。
「この香り、どうかしら」
勧められた香りは、爽やかな、母の年代には、少々若すぎる香りだった。
「あの子に、贈ろうと思ったの。ほら見て、素敵な刺繍でしょう。私にくれたのよ。私に」
母が、私にと、何度も強調して見せてくれたハンカチは、四方を花の刺繍で囲まれた可愛らしいものだった。母の好みだ。
「私に贈り物をくれた御礼に、私があの子に香水を贈ろうと思ったの」
母の声は、弾んでいた。
「若いあなたの意見も参考にしたいわ。私があの子に贈るのですもの。こちらはどう」
母は、私が、と繰り返す。あの子は、いつの間に、母に贈るハンカチを刺繍していたのだろう。
勧められるままに、また香りを嗅いだ。
「もう少し、柔らかい、優しい感じの香りはないかしら」
「こちらでいかがでしょうか」
調香師が、手際よく用意した濾紙に鼻を近づける。
「もう少し、爽やかな、知的な香りだと嬉しいわ」
あの子は、伯爵家の中でも、歴史ある家の令嬢だ。領地で水害が続かなければ、困窮することなど無かったはずだ。不幸な境遇のはずなのに、嘆くことは一切ない。自分のお小遣いを自分で稼ぐと、大人になった気がすると明るく笑う子だ。
私の境遇を察しているのに、何も言わずにただ、寄り添い、受け入れてくれる優しい子だ。のんびりとしているのに、父や父の友人達との政治談義はしっかり聞いていて、ときに鋭い意見を言う、聞いていて飽きない子だ。
何度も試しているうちに、これと思える香りになった。
「時間が経つと香りも変化します。一日、お試しになってから、ご注文をいただけましたらと存じます。心よりお待ちしております」
調香師は、私に見本を手渡し帰っていった。
調香師の言葉通り、香りは変化し、優しい爽やかな香りだけが残り、消えた。
数日後、鍛錬のあと、着替えて、身繕いした私は、母とあの子がいる部屋の扉を叩いた。扉が開き、あの香水の香りがした。
「あら、いいところに来たわね」
母が微笑む。
私はあの子の手を取り、ダンスの要領でくるりと回した。香りがふわりと広がる。
「あの、香水を頂いて」
「あなたに似合う香りよ」
私の言葉に、あの子が、恥ずかしそうに、嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます」
「悪くないわ」
素直に褒めるというのは、どうも気恥ずかしい。
二人でダンスを踊った。あの子のドレスの裾はふわりと広がり、軽やかに揺れた。爽やかで優しい香りを、私は楽しんだ。
母に、何故お前が選んだ香りだと言わなかったのかと、叱られた。その隣で、父が顰め面をし、兄と兄嫁が苦笑していた。
両親と兄夫婦に、文句を言おうとして、目が覚めた。夢だった。夢は残酷だ。
懐かしい思い出に、私は目を閉じた。涙が出そうだ。会いたい。戦場に漂うのは、血臭と死臭だ。渡せなかった婚約指輪を握りしめる。あの子のくれたハンカチに顔を埋めても、懐かしい香りはしない。
あの香水だけでも、持ってきたらよかった。夢の続きが見たくて、私は目を閉じた。
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