【8-3】
あーまらむーにょぉかんぱらぴぃのよれよれはー
――よれよれは?
私の首が、再び大きく右に傾いた。
と、そのすぐ後だった。
トンネルの向こう側入り口辺りに、まるでガス燈に火を灯したかのように、小さく青白い炎がいくつも煌めいたのだ。
それらは、ゆらゆらと揺れながら、ゆっくりとこちらに向かって近づいて来る。
さすがにこの状況は、私の背筋をぞくりと寒くした。
あーまらむーにょぉかんぱらぴぃのよれよれはー
二度目の呪文を唱えたのと同時。
自信ありげな笑顔とともに、今度はその
あーまらむーにょぉかんぱらぴぃのよれよれはー
三度目に唱えた呪文とともに漂ってきた香りで、私のグルメな鼻は、この匂いの正体をつきとめた。秋田比内地鶏の新鮮ササミと青森大間マグロの赤身を50パーセントづつ配合したものに、北海道は紋別産のタラバガニのほぐし身とエキスをふんだんに混ぜ込んだ一品に違いない。一般庶民であれば、猫でなくてもまっしぐらかもしれない代物である。
そんな、北国の『うまい』の粋を集めた猫缶を、おたねさんがその頭上に突き上げた。金色のパッケージがトンネル内から漏れるライトに照らされ、キラリと光った。
「あいやーっ、はあっ!」
スピードを増し、こちらに群れとなって近づいて来る青い
あれはまさか――鬼火なのか? す、すごいぞおたねさん、なんか霊っぽいやつ、本当におびき寄せることができるとは!
――にしても、なぜ猫缶なんだ?
青い光の群れが、こちら側のトンネル入り口集結した。とんでもない数だ。
鬼火ではなく、人魂なのかもしれない。
が、よくよく考えてみれば、猫缶でおびき寄せられたのならば、あれらは猫の魂、
「きええええぇ!」
集結した青い光に、おたねさんの奇声が浴びせられた。
深夜の厚い
『アイラブユー』
「うっほぉ、グッジョブ。やったよ、おたねさん! ブラボー!!」
「うむ。この程度のことなら、あたりまえじゃ」
「……」
手足をばたつかせて喜ぶ榊原祐樹の横で、冷えた蝋燭のようにかちりと固まった黄川田真奈美が憮然とした表情を見せる。おたねさんは、自身の成功に気をよくしたのか、手にした猫缶を天まで届けとばかり突き上げて、「よっしゃー」と雄叫びを上げた。
と、そのときだった。
真っ赤なスーツに身を包んだ雛地鶏家の坊ちゃんが、闇の中から亡霊の如くぬうっと現れたのである。
「こんなのは嘘だ、まやかしだ、でっちあげだ! ただの子供だましのトリックに決まってる!」
彼も、やるときはやるのだ。
勇気を振り絞って苦手な暗闇を抜け、祐樹君の「告白」を妨害しにやって来たのである。少し腰砕け的な体制で青い炎でできた魂に向かって突進してきた彼が、その魂をこの場から追い払おうと、ヤタラメッタラに両手を振り回す。
だが、その魂たちは彼の暴れる腕をひょいひょいと器用に避けた。
僅かにその隊列が乱れただけで、文字を大崩れさせることはなかったのである。
「あれ、おかしいな。テグスとかワイヤーとかあるはずなのに……ないぞ」
ぎゃあああッ
闇夜をつんざく悲鳴をあげ、今まで見たことも無いほどの速さで自分の車へと駆け戻った雛地鶏君は、今度は耳が痛くなるほど大きなエンジン音を残し、Uターン。更にその先にある真の闇の中へと、消え去った。
いったい彼は、何のためにやって来たのだろう……。折角の勇気を振り絞って車から出てきたというのに。
前言撤回――である。
やるときもやらない、「雛地鶏 謙」であった。
何事もなかったかのように、おたねさんが「もういいかな?」と祐樹君に確認。祐樹君がうなずくと、猫缶を路上に降ろした。
すると、まるで待てを解除された
やはりこれらは
「どうですか、真奈美さん。この告白なら気に入っていただけましたよね? 何せ、本物の霊が集まってるんですから――」
「な、なによ! ゆ、幽霊なんて、ちっとも怖くなんかないんだからね! だけど、そんな変なものを持ち出すアンタのセンスが信じられないわ。だから……私に告るなんて、5億年早いってことよねっ!」
「ご、5億年……? 本物の霊でできた文字なのに……? まさか、この程度のリアクションしか貰えないとは……残念です」
衝撃的な、告白成就までの残り年数を聞いてしまった祐樹君。
その動きは、まるで燃え尽きて真っ白く石化してしまったボクサーのそれだった。カチンと固まったまま、しばらく身動きをしなくなったのであった。確か、私の記憶では、これが告白成就までの時間として最長となった瞬間である。
うなだれた格好の祐樹君が次に動いたときの動きは、電池の切れたロボットのようであった。ぎこちない動きで両膝を折ると、それを冷え切った道路の路面にごとりと落としたのである。一方、おたねさんは、元気に猫缶の中身を貪る
――そうか、祐樹君は知らなかったのだ。真奈美さんが幽霊やお化けを苦手にしているということを。
ついつい、悲しい気持ちになる。
頑張れ、祐樹君! と密かに応援もしたくなった。
――いや、待て。私は、そういう立場ではないはずだ。
そう思った矢先だった。
路上でフリーズした祐樹君と猫魂に夢中になっているおたねさんを後に残し、真奈美さんが私のタクシーにつかつかと近づいて来たのである。
全開にした窓越しに、彼女が私に向かって云う。
「じゃあ、運転手さん。帰るので、車を出してもらえる?」
「あ、はい。でも、お連れ様がまだ……」
「いいから、出してちょうだい」
「……承知しました」
後部座席の自動ドアをスーパーモデルのような優雅な動きで通過した彼女は、席に腰を据えると、その長く美しい両脚をバックミラーの中で交差させた。
美しい娘の命令なのだ。
車を出発させるのも、致し方ないことであろう……。許せ、榊原祐樹君よ。
誰にも聞こえないように小さなため息をつき、エンジンを始動。ヘッドライトを点灯させると、プロのドライバーのテクニックを見せるべく、きゅるきゅると音を立ててUターンした。
タクシーの動きに気付いた祐樹君が、すっくと立ち上がる。
「あ、ちょっと待ってくださいよ、真奈美さん! 僕をこんな所に残していかないでー」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
慌てふためく男と、観念して念仏を唱える女。
そんな二人を残したまま、私はアクセルを思い切り踏んだ。
その直後。深いため息を吐き出した真奈美さんが、後部座席に深々と身を託しながら、ぽつり、呟いた。
「お父様……。もうそろそろ、そのお得意の変装を止めてほしいですわ。私、祐樹さんの告白の現場にお父様が居合わせていたこと、ずっと最初のほうから気付いていたんですからね」
「……ほう」
私の変装術も、まだまだということか。
というよりは寧ろ、さすがはわが娘――というべきなのかもしれない。我が愛しの妻の遺伝子を引き継いだその美貌に加え、鋭すぎる頭脳を持つ可愛い娘なのである。
ハンドルを持つ右手はそのままに、左手で顔の上に被った肌色の薄皮マスクを、べりりと剥ぎ取った。いつもながら、このねちねちとしたマスクの粘性的感触は気持ちが悪い。
「真奈美さん……さすがだね。まさか、とっくに私の変装を見破っていたとは」
「お父様。私を誰だと思っているのです? 私は、゛お父様゛の娘ですよ」
「ああ、そのとおりだ。我が娘ながら、その鋭い感覚にはいつも感心するよ」
「いくら変装しても、そのダンディな白髪の特徴までは変えられませんでしたわね。そんなことでは、私を誤魔化すことはできません」
「ほう……なるほどな。確かにそこまでは、気を配らなかったよ」
――焼肉屋の従業員、動物園の飼育員、公園の清掃員、セスナ機のパイロット、街角DJポリス、植物園の整備員、潜水艇操縦士、そして今回のタクシー運転手……。当家お抱えの忍者からの情報をもとに駆け付けた私の変装姿が、ありきたりな表現で例えれば、走馬灯のように私の頭の中を駆け巡った。
「どうだろう、真奈美さん。本当のところ、祐樹君の熱意は君に伝わってはいるんだろう?ならばそろそろ、この辺で――」
「お父様。それは私と彼の問題です。お父様といえども、そこには立ち入っていただきたくはありません」
「……そうか、済まなかった。では、ご自宅までお送りするといたしましょう、美しいお嬢様」
「ええ、それで結構ですわ。ダンディな運転手さん」
――ここにきて、告白できるまで5億年か。キツイな。
車窓越しの街明かりを目線下に望みながら、私の口から盛大なため息が漏れていった。
というのも、最初はウチの娘に悪い虫がついたら困るからと、財閥総帥の仕事をぶん投げてまで様子を探るために出かけてきたのは確かだったが、それも最初のうちだけで、最近では、彼――榊原祐樹君の熱意のほどを見るたびに、彼のことが気になって仕方なくなっていたのである。
こういうのを、判官びいきとでもいうのだろうか。
でも一方では、娘を持つ父親のお決まりとして、「お前にお父様などと呼ばれる筋合いはな―い」とか彼に云ってやりたい気持ちもある。
男親の、かわいい娘への気持ちは複雑なのだ。
――ならば、祐樹君。私から君に、最後のチャンスを与えてやろうではないか。
車内の暖かい空気についつい心が緩んだのか、幸せな気分でうとうととしだした娘をバックミラー越しに眺めながら、榊原祐樹君のために思いついた、とある秘策。
それを胸に秘めつつ、娘とともに我が邸宅に向けてLED照明の光まばゆい夜の街を駆け抜けた、私なのであった。
キミに届けたい、
―続く―
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