【7-3】

 ベテラン操縦士の言葉に、艦内で緊張が走る。

 思わず胸に手を当て、私は心の中で叫んだ。


 ――お願い、助けて!


 すると、祈りが神に届いたのか、はたまた、ただの偶然なのか。

 いきなり、蜘蛛の子を散らすように魚たちが目の前からすーっと消えていったのである。


 ――なんかよくわかんないけど、ラッキー! 今のうちに、上昇よ。


 と考えたのも、束の間。

 次に我々の前にやって来たのは、天変地異だった。

 まるでキューでつつかれた瞬間のビリヤード玉のよう。ギシギシと軋む音ともに、潜水艇が激しく左右に揺れる。やがて耐圧ガラスの向こうに姿を現したのは、ぎょろりと光る大きな目玉と青白く光る巨大な三角頭。

 吸盤付きの長い足が、ガラス窓にまとわり着く。


 ――ダイオウイカ?


 そう思うよりも早く、敵はたくさんの足を潜水艇に絡みつかせ、我々を羽交締めにした。

 ミシミシと潜水艇の壁が軋む。時折、照明がチラついた。


「ぎゃああ、何が起こってるんだぁ!」


 潜水艇の奥から聞こえて来たのは、謙さまの悲鳴だった。

 慌てふためく雛地鶏家の跡取りとは違い、真奈美お嬢さまはどっしりと潜水艇の中心で構えている。腕を組み、席にもたれながら、眉毛ひとつ微動だにしない。私の頭の中に、川中島で上杉謙信との決戦に臨む武田信玄の姿が映し出された。


「やばいぞ、ふねが上昇しない! このままだと、我々全員、海の藻屑になるッ」


 コックピットの計器を睨みながら、操縦士兼艦長の男が、なんとも恐ろしい言葉を吐いた。電気のようにびりびりとした緊張感が、暗黒の海底で漂うちっぽけな潜水艇の中で走り抜けた、そのときだった。

 ついに、山が動いたのである。


「よし、わかったわ。ここから先は私が――」


 我らが武田信玄こと、真奈美さんが采配をふるうべく席から立ち上がり、口を開いた。

 しかし、その言葉を遮るように、いつの間にかコックピットに戻っていた近藤さんに向かって、厳しい目つきの榊原さんが指示を出す。


「このふねに潜水服はないのか? 僕が外に出ておとりになるから、その隙に潜水艇を浮上させて皆は逃げてくれ! ……近藤、後は任せたぞ」


 目を見張り、睨みつけるような鋭い視線を榊原さんに送り続ける、真奈美さん。

 しかし、その指示には、近藤さんが抵抗する。


「榊原先輩。いくらなんでも、それはムリです」

「いいや、僕は外に出る。男には、やらねばならない時があるのだ」

「いやいやいや、絶対無理ですって。ちょっと、真奈美さんも、何か言ってくださいよ! 先輩、本当に外に出ちゃいますよ!?」


 どう考えても無茶だと、私も思う。

 ……というか、そんな潜水服なんか用意してないし。

 にしても、潜水艇の外に出ると子どものように言い張る榊原さんを、必死になだめる近藤さんの背中が一際眩しく感じてしまうのは――どうしてなんだろう。

 そのとき、気配もなくその場にしゃしゃり出てきたのは、雛地鶏家のお抱え忍者、香取大五郎だった。


「ふん。榊原とやら。ここは、忍者である拙者せっしゃに任せてもらおうか」


 艦内に、不思議な安堵感が広がっていった。

 心強い味方を得た気持ち、といってもいい。

 この21世紀の現代において、どこでどう活躍しているのかは詳しく知らない。が、彼は百戦錬磨のベテラン忍者なのである。

 こうしている間にも、イカは最後の仕上げとばかりに増々その秘めた力を発揮して、潜水艇を壊しにかかる。その力は゛軟体動物゛という分類名にはあるまじきほどに凄まじく、艦内はガクガクと派手に揺れ続けていた。

 と、意を決した榊原さんが、叫んだ。


「わかりました。あとはよろしくお願いします、香取さん!」

「うむ。心得た」


 照明のチラつく操縦室の中、ごそごそと忍者服のふところの辺りを探った香取。

 彼がそこから取り出したのは、小指ほどの大きさの透明カプセル容器に入った茶色い液体だった。


「これを、先ほどの撒き餌の要領で外にばら撒け。……こんなこともあろうかと思ってな、用意しておいたのだ。忍者の里、秘伝の品をな」


 チラつく明かりに反射し、鼻の下にヒゲを生やした香取の自慢げな顔が鈍く光った。

 艦内に、どよめきが起こる。

 しかしそれは、一瞬にして先ほど艦内に広がったばかりの安堵感を掻き消した。

 どう見ても、その液体はただのウスターソースのようにしか見えない。けれどそれは、忍者の里に伝わるという秘伝の液体なのだ。まさかとは思うが、そんな素人が考えるようなチャチな代物ではなかろう――。

 私は、恐る恐る、目の前の忍者に質問をしてみた。


「これは、どういったたぐいの……?」

「ははん……そこに興味がござるか。秘伝の品なので、詳しくは云えない。云えないが、我が伊賀の里で伝承されている『イカ焼きソース』のたぐいとだけは、云っておこう。大王だろうが何だろうが、イカならこの匂いは苦手なはずだからな――」

「……」


 ――その、まさかだった!

 しばらくの間、艦内を沈黙が支配した。

 押し黙る一同が作り出す重たい空気を打破し、皆を鼓舞したのはやはり、我らが武田信玄おやかたさま、真奈美お嬢様だった。


「とにかく、ここはなんでもいいからやってみなさいよ!」

了解ラジャー! カプセル、セットします」


 潜水艇の総司令官と化した真奈美さんの強く美しい響きの号令に、操縦士は撒き餌代わりの忍者秘伝ソースを、コックピット内の゛発射装置゛にセットした。


準備レディ発射ゴー!」


 喉をごくりと鳴らした後にそう叫んだのと同時に、操縦士は再び目前の赤いスイッチを押した。セットしたカプセルが深海の水圧を押し退けるようにして打ち出され、潜水艇にまとわりつくダイオウイカのどてっぱらにぶち当たる。

 けれど、その程度の衝撃など物ともしない風の、ダイオウイカ。

 逆にイカを怒らしてしまったのであろう。その動きが、活発化した。


 ――やばっ! 火に油を注いでしまった?


 大揺れに揺れる艦内で、人知れず私の背中を一筋の冷たい汗が流れていった、その瞬間だった。海水に溶けたカプセル容器から、内容物の茶色の液体がもわもわと雲のように海水中に浮遊していくのが見えた。カプセルが、弾けたのだ。

 それと、ほぼ同時だった。

 目前のダイオウイカが、急にジタバタと苦しみ始めたのである。


「うわっ。あのソース、イカに効いてますよ!」

「う、嘘だろ?」


 そう云って頻りと不思議がる近藤さんと榊原さんをよそに、ついにダイオウイカは尻尾――いや、10本の足――を巻いて逃げていった。

 ガラス窓に残された、巨大な吸盤の跡。

 皆が胸を撫で下ろす中、それを眺めながら勝利を確信した表情で腕を組んだまま仁王立ちする黄川田真奈美さんは、本当に素敵な女性だと思う。榊原さんではないけれど、私が男性だったら、間違いなく惚れていただろう。

 そんな風に思いを巡らしていた私の耳に、低音成分の多い渋めの声が飛び込んで来た。


「ふっふっふ……。まいったか、イカ野郎め! 忍者直伝のソースをなめるなよ」


 得意満面の笑みを伴って、香取が胸を張る。

 そうは云うけれど、あの凶暴なダイオウイカを追っ払ったほどの秘伝ソースなのだ。舐めるなと云われても、ぜひ一度、それを舐めてみたいものだと私は密かに思った。

 と、そんな安穏とした空気を打ち破り、新たなる道を我らに示したのは、やはり真奈美お嬢様だった。切れ長の美しい目尻をキリリとさせながら、張りのある桃色ピンクの唇を動かした。


「まあ、とにかく助かったんだし、よしとしましょうか……。それなら、ここに長居する必要はないわ。潜水艇、浮上せよ!」

了解ラジャー!」


 総司令官の掛け声一閃、操縦士は大きく頷いてコクピットにあるレバーを勢いよく押し上げた。

 エンジン、全開。

 盛大なあぶくを吐き出しながら、海の上に向け、潜水艇が浮上していく。浮上中、榊原さんの立つ方向に振り向いた真奈美お嬢さまが、今日の総括を述べ始めた。


「しっかし、榊原祐樹! あんたのアホな告白で、皆、死にそうになったじゃないの! だから、私に告るのなんて3億年早いわっ――って云いたいところだけど」


 3億という数字を聞いて意気消沈した、榊原さん。

 しかし、そんな彼をじっと見据えたまま、ひと呼吸おいて、やや優しい口調でお嬢さまは云った。


「でも、さっきのダイオウイカのピンチの時に見せたあんたの眼差まなざしに免じて、1億3千万年早いってことにしておくわ」

「僕の……眼差し……? やった、よくわからないけど、1億7千万年も減ったぞ!」


 1億3千万年と云われ、胸を撫で下ろす榊原さん。

 でも私は、納得がいかなかった。だって、1億3千万年だよ。私たちの人生、せいぜい百年なのに1億3前万年だよ!? それじゃあ、永久に告白なんかできやしないじゃないの……。今回の企画に協力した私からすれば、その時間は気の遠くなるほど長く、怖気づくほど着地点が遠いように思えるが……。

 本当にそれでいいのか、榊原祐樹!


 なんて風に少し憤慨していると、艦内の人々からちょっと忘れられた感のあった謙さまが、犬の遠吠えのようにわんわんと、ふねの奥の方から声を張り上げるのが聞こえた。


「何故だ! こんなに失敗しといて、何故、前回より告白できるまでの年数が減る。納得できん!!」


 謙さまにも、真奈美お嬢さまの声が聴こえていたらしい。だがしかし、彼の言葉に反応する者は誰もいなかった。

 沈黙が続く中、痺れを切らしたらしい謙さまが再び叫んだ。


「だれも反応してくれないんだな……。わかった、もういいよ。それより、香取。早く俺を開放してくれ!」

「おっと、そうであった。奥で捕らわれの身となった若殿のことを忘れてたよ。だが、解放するその前に……」


 忍者である香取さんの体全体から噴き出したのは、目には見えないオーラのようなものだった。牙をむき出し、近藤さんを取り巻く。それと同調するように、香取さんが鋭い目付きで近藤さんを睨んだ。しかし、近藤さんも負けじと香取さんを睨み返す。

 まさに、一色触発な雰囲気だ。


「近藤とやら。オヌシとは、いつかまた勝負をすることになりそうだな」

「ああ、そうですね。香取さん、私も楽しみにしていますよ」

「ふっふっふ……」

「ふっふっふっふ……」


 睨み合いの続いた両者の目の眼光が、一瞬、緩んだ。

 それは、戦場で剣を交えた者同志にしかわからない、友情的感情が芽生えた瞬間――。そんな気がした。


 それから、しばらくの後。

 気が付けば、既に潜水艇は海水面上に浮上し、まるで宇宙に彷徨う宇宙船の如くふわふわと漂っていた。


 ――生きてるって素晴らしい。


 久しぶりに見る、太陽の光。

 それを眩し気に、そして懐かし気に、しばらく眺め続ける私たちなのだった。




 キミに届けたい、永久とわの愛を。深海にしたためた、ヒラヒラと泳ぐラブレター。


 ―続く―

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