【7-2】

「おお、お前は香取かとり大五郎だいごろうじゃないか! 今まで、どこにいた?」

「……若殿。私は草の者です。影の世界に生きる我ら草の者は、普段は気配を消していると決まっておるのですよ……。とにかく、今すぐ御助けいたしますぞ」


 そう云って、すぐさま謙さまの前に立ちはだかる近藤さんに飛びかかろうとするも、近藤さんの全身から溢れるオーラと鋭い目付きが、それを阻む。


「この方は、どなたですか?」


 そんな緊迫感をよそに、呑気な眼をした榊原さんが私に小声で訊いてきた。

 私はとりあえず、「彼は雛地鶏家お抱えの忍者ですわ」とだけ答えておく。実際、私も他家の忍者のことなど詳しくは知らないのだ。


 ――しかし、この狭い中でよく人知れず隠れていたものね。さすがは、プロの忍者。


 そう思った私に向かって、榊原さんは「へえ、この21世紀にも忍者という職種は残っていたんですねぇ」と言いながら頻りに頷いた。大いに感心している様子である。当り前だ。忍者スパイがいなくては、この世は、何事も動かないであろう。

 一方、じりりとも動かない、近藤さんと香取さん。

 プロの忍者と一般市民という関係のはずながら、実力拮抗ということなのか。二人の距離は1ミリたりとも詰まる気配がなかった。

 近藤さん、いったい何者なのだろう……?


「そこの近藤とやら。その間合い……。オヌシ、出来るようだな。どこの里の忍者モノだ?」

「どこの忍者でもない。ただのサラリーマンだ」

「な、な、なんと。ただのサラリーマンだと! サラリーマンにして、その気迫と身のこなし……この国もまだまだ捨てたものではないということだな」

「ふん、当たり前だ。この国はサラリーマンの働きで支えられているといっても過言ではないのだからな。しかし……そちらこそ、さすがプロの忍者。動きに無駄がない」

「ふっふっふ。分かるかね」

「ふっふっふっふ……分かりますよ」

「ふっふっふっふっふ……」

「ふっふっふっふっふっふ……」


 永遠に続きそうな、二人の含み笑いと睨み合い。

 それを中断させるかのように、何事も起きていないかのような冷静な口調で、低く渋い声の操縦士が云い放った。


「水深1000メートル。目標地点、到達しました」


 艦内の人々の視線が、サーチライトに照らされた厚い耐圧ガラスの向こうの景観に集中する。間もなく、海底の陸地部分に潜水艇が音もなく着地した。

 何の動きもなく、温かみもない――死の世界が、そこには広がっていた。そんな大いなる眠りについた世界を揺り動かすかのように潜水艇が起こした砂塵が巻き上がり、視界をゆらゆらと揺らす。

 そんな景色に見惚れてしまった一同の隙を突いたのは、近藤さんだった。

 忍者の香取の視線が謙さまから一瞬だけ外れたのをいいことに、手錠をはめた謙さまを、船室の奥へと素早い動きで連行したのである。


「コラッ、榊原! やることがセコイぞ。これでも俺は、直参旗本家の次期当主で――」


 懸命に叫ぶも、艦艇の奥へと移動していくにつれ、その声は段々と弱々しいものとなっていった。終には、それは空しい響きとなり、海の藻屑と化したかのように何も聞こえなくなった。

 船室から姿を消してしまった、謙さま。

 それを確認した香取は、忌々しげに「ちっ」と舌打ちして、すぐさまその後を追っていった。


「さあ、これでよしと。邪魔者も消えたことですし、気を取り直して早速始めましょうか……。深海1000メートルでの、僕の『告白』です。それでは操縦士さん、お願いします!」

了解ラジャー!」


 バラエティ番組の司会者のような榊原さんが発した軽快なフレーズに応え、艦長兼操縦士が、「ぽちっとな」という威勢の良い声と同時に、コックピットにある赤いプラスチックのボタンをぽちりと押した。

 真奈美お嬢様の表情がふと気になった私は、彼女の顔をチラ見する。

 だが、さすがは一流のお嬢さまである。

 こんなてんやわんやな状況下においても、何事にも動じない鋼鉄はがねのように無表情な横顔を、私に見せていた。

 けれど。

 どんな理由かはわからない。わからないが、鉄仮面のように固い表情の彼女の口元がほんの少しだけ緩んでいるようにも見えた。

 きっと、気のせいではあろうけど――。


 それから、約30秒。

 操縦士がぽちっとボタンを押したにもかかわらず、何事もないまま時が過ぎた。

 あんなに派手にスイッチを1センチほど押し下げたのだ。絶対に何かがこの深海で起こっているはず――なのに、私にはそれがわからなかった。地獄の入口のように落ち着き払った深海の世界に、恐ろしいほど静寂な時間が流れてゆく。

 痺れを切らした真奈美さんが「はあ……」と溜息をついた瞬間だった。今までのまったりとした時の流れを取り戻すが如く、艦内にマッハのスピードで緊張が走ったのである。

 それは、重い口を開き、深海の海水よりも冷たく重い言葉を真奈美さんが言い放ったからだった。


「で、これはいったい何なのよ。何も起こらないんだけど!」

「いやいや、真奈美さん。真の告白タイムは、これからですから」


 自信ありげに答えた榊原祐樹さんに、何とも複雑な表情を見せた真奈美さん。

 と、そのときだった。

 潜水艇の透明な耐圧ガラスの向こう側が、何やら騒がしくなっていることに人々は気付いたのである。

 透明な小魚と、白いエビの大群が織りなす世界。

 それに、名前すら良くわからない゛にょろにょろ゛と変な形をした深海生物までが、わんさかとこちらに向かって押し寄せている。ついさっき、深海を死の世界と感じたのは全くの間違いであったと、私は今更ながら気づいたのだった。


 かなりの虫嫌いな私である。

 そんなものを見てしまったら、背中がゾクゾクするのは必定だった。無意識に体が後退りを始めた。けれどすぐに、狭い艦内では、後ろに下がりたくてもこれ以上後退するスペースがないのだ、ということに気づいたのだった。

 観念した私は、後退りする代わりに、上擦った声で叫んだ。


「うわ、気持ち悪うッ! もしかして、これが榊原さんの……」

「そうですよ、日向さん。これが、私の『告白』なのです」

「……うげっ」


 趣味が悪すぎる。

 ついつい、はしたない言葉を発してしまった私だったが、そんな私と同様、この景色の意味も解らず吐き気を必死に堪えているであろう真奈美さんが、前面のガラス窓を眺め、黙りこくっている。

 よく見れば、潜水艇のお腹の部分辺りから、ジェット噴射のように強烈な勢いで何かを吹き出していたのだ。どうやらそれが、魚釣りのときに集魚しゅうぎょするために使う「撒餌まきえ」みたいな役割を果たしているらしい。

 しかし、その効果は絶大だった。

 魑魅魍魎の如く、どこからか湧きだした無数の深海魚たちがこの艦艇に向かって群がり集まって来る。マイナス60℃くらいの寒気を背中に感じつつも、得体の知れない魚たちのおぞましき配置が、どうやら何かの文字になっているらしいと気付いたのは、それからすぐ後だった。

 私は、恐る恐る、榊原さんに訊ねてみた。


「あのう……すみません。この魚たちの並び、もしかして何かの文字になっているとか?」

「当り前じゃないですか……っていうか、わかりませんか? 片仮名で『アイシテル』って書いてあるんですけどね」

「ええっ! そ、そうなんですか?」


 全然わからなかった。どこからどう見ても、そうは読めなかった。

 ジェット噴射させているとはいえ、撒餌は重力に負ける。海流もある。当然、その撒餌の形は、ただれた皮膚のような、もしくは融け落ちるアイスのような、だらだらと流れ崩れた文字と化すのである。

 百歩譲って、この得体の知れない魚たちの集合体が何かの文字だとしても、それはB級ホラー映画の始まりに出るタイトルのような、血の滴った「恐怖文字」であろう。


 私は焦った。

 この告白を企画した榊原さんに潜水艇を貸した私にまで、真奈美お嬢さまのお怒りのとばっちりが飛んで来やしないか、と。ちらり、顔はそちらに向けず、視線だけ真奈美さんのいる方向に向け、様子を伺った。

 すると案の定――活火山における巨大噴火前の小規模噴火の如き雰囲気を携えたお嬢さまが、そこにいた。マイナス60℃から絶対零度のマイナス273℃に急降下した私の背中がすさまじい勢いで凍りついた。

 そのとき、今まで黙っていた真奈美さんが、満を持したように口を開いた。


「そうは、とても読めないわね」

「そ、そうですか? 僕には、『アイシテル』ってしっかり読めますけどね」

「真奈美さま。そう書いてあると思えば、そう読めなくもないですわ。おほほほ」


 しかし、私の力無いフォローなど何の意味も持たなかった。

 というか、それがかえって彼女の怒りの炎に油を注いでしまったかのようだった。真奈美さんの頬がみるみる熱を帯びていき、マグマの如き深い赤色に変化しているのが誰の目にも明らかである。

 けれど――。

 そんな恐ろしい変化を遂げたのは、真奈美さんの頬だけではなかった。潜水艇の厚いガラス越しに見える外の景色も、いつの間にやら大きく様変わりしていたのだ。

 何も見えなくなっていた。

 地上と比較しても圧倒的優位に立つ生物量的圧力で、深海の様々な生物たちが私たちを取り巻いている。潜水艇のサーチライトなど、全然役に立たないくらいに。


「予想をはるかに超えた数の生物たちに囲まれました。これ以上ここにいるのは危険です」

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