6 植物園でアイラブユー(1憶7千5百万年前)
【6-1】
オフィス街にほど近い夜の繁華街。
その中心に聳え立つビルの最上階にある、行きつけの展望レストランに俺は来ていた。眼下、果てしなく広がる景色の中で色とりどりの光を発する都会の星々を眺めがら、一人、ディナーの真っ最中である。
「
すっかり顔なじみとなったウエイターにより運ばれてきたのは、前菜のフォアグラ・ソテーのキャビア添え、そして、モンバジャックのヴィンテージワインだった。
どちらも、俺のお気に入り。
だが、どんなに美味しい食事やワインも、今の俺の気持ちを高揚させてはくれなかった。
なぜなら、そう――今俺は、我が人生最大の悩みを抱えているからである。
――それにしても、この世の中には不思議なこともあるものだ。
どうしてこの俺――由緒ある直参旗本家の
――なぜ彼女は、俺に振り向かない?
気づけば、フルフルと震える腕のせいで、ワイングラスからワインがテーブルに少し零れていた。慌ててテーブルナプキンで拭いてはみたものの、純白のテーブルクロスには紅い染みが残ってしまった。
まるで、俺の怨念の
――落ち着け、俺。
深呼吸してから、耳を澄ましてみる。
店に流れるこの演奏曲は……あまりクラッシックに詳しくはないのだが、ショパンであろう。生ピアノの奏でる音律が、耳の奥をふんわりとくすぐって心地よい。この店に出入りするピアニストであるからには、恐らくはそれなりのプロなのだと思う。
だが、結局――。
俺の脳内には、そんな優雅な響きにはちっとも相応しくない、この2年間に起きた忌まわしい出来事が走馬灯のようにぐるぐると巡っていた。
完全に俺の負けなのである。
――彼女との出会い、つまり俺が真奈美さんを見初めたのは、忘れもしない、今から2年ほど前の政財界の団体が主催する社交パーティでのことだった。
そんなパーティ自体は、我々の世界では特に珍しくはない。日常茶飯事だ。
だがそれは、後から考えれば俺の人生における分岐点ともいえる各別なパーティであった。というのも……あのときの、真紅のドレスに身を包んだ彼女の姿が、一瞬たりとも俺の脳裏から離れることがないからである。
天女のような身のこなし。とてもこの世のものとは思えない。
彼女の美しい
そんな思考停止状態の俺に、彼女がその視線をちらりと向けた。
思わず、腰が抜けそうになる。
と同時に、会場全体からの同時多発的嫉妬光線に耐えつつ、何とか直立の姿勢を保っていると、今度は俺に向かって彼女が小さくお辞儀した。時空を超えた、無限の
――う、美しい。
彼女にとっては、初見の人間に対するただの挨拶に過ぎなかったのかもしれない。
だが、俺にとってはそんな生易しいものではなかった。
まさに胸を打ち抜かれる感覚――ひと目惚れとはこのことだ。このとき、俺の残り人生の運命が決まったのである。
その日、パーティで何をどう過ごしたのか……記憶が定かではない。あまりの衝撃に、記憶が飛んでいるのであろう。
だが、次の日のことは、はっきりと憶えている。
居ても立ってもいられなくなった俺が、雛地鶏家当主の父上を介して、正式に交際の申し出を黄川田家に行ったのだ。
「父上、どうしても結婚を申し込みたい女性がいます。昨日のパーティで見つけました」
「なんだと? あのパーティの参加者なら身元は確かではあるが……。よし、分かった。その
「ええ。その通りです、父上。あの
「そうか。では、我が息子のインスピレーションを信じるとしよう。……まあ、我が雛地鶏家の申し入れなら、断る者もおるまい」
「ありがとうございます、父上!」
しかし――。
父上の
由緒ある直参旗本の雛地鶏家を、しかもその跡取りを袖にするとは……父上も、しばらく怒りを露わにして不機嫌な日が続いた。
だが――その程度のことに怖気づく俺ではない。
徳川
などと、料理を待ちながら心新たに決意を固めていた俺に近づくひとりの男。
この店の馴染みの客である俺でも見覚えのない、新参者らしき白髪交じりのダンディなウエイターだった。しかし、その身のこなしはまさに高級感に溢れている。恐らくは高級店を渡り歩いた
「雛地鶏様……これが、店の入り口の壁に突き刺さっておりました」
「うむ、そうか。……どうもありがとう」
年配のウエイターが、折りたたまれた紙が結び付けられた一本の「矢」を、私の手元近くのテーブル上に恭しく置く。
店の雰囲気あるオレンジ色の照明を反射し、きらりと光った金属の矢じり。
純白のテーブルクロスに映えるそれは、紛れもなく、我が雛地鶏家が江戸時代より代々召し抱えている
――そうそう。余談ではあるが、その密偵の名は
「ふうぅ……」
まずは、深呼吸だ。
それから徐に矢を手に取った俺は、結び付けられた紙をゆっくりと
ワインを一口だけ喉に流し込み、心を落ち着ける。
グラスから離した右手を思いきり振ると、折りたたまれた紙――古来から使われている由緒正しき和紙――を、バン、と音を立てて広げた。そう、よく時代劇で見かける、あのやり方だ。
その音が、レストラン全体にこだまし、鳴り響いた。
一瞬、ショパンのピアノがかき消されたほどだった。が、
俺には見慣れた文字だが、恐らくは一般人から見ればミミズが這いまわったようにしか見えないであろう毛筆文字に、目を走らせた。
「やや、なんと!」
どうやら明日、
香取からの矢文に
――ふん、こしゃくな!
すぐさまその手紙をぐしゃぐしゃに握り潰し、ウエイターに荒々しく声を掛ける。
「すまんな。折角だが、本日のディナーはこれで打ちきりだ。明日の準備をしなければならなくなったのでね」
「はっ、かしこまりました」
まだ前菜しか出ていないディナーではある。
だが、雛地鶏家の次期当主ともあろうものが、そんなことでケチケチすることはできない。ベテランの白髪交じりウエイターに俺のカードを渡すと、コース料理の全額をきっちり支払った。
そして俺は、ひとり、店を後にしたのである。
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