【6-2】

 容赦なく照りつける、秋の太陽。

 次から次へと噴き出す汗が、体を伝う。

 そんな、季節外れの雄々しい太陽が南中した、一時間後くらいのことだった。あの忌々しい榊原祐樹が、真奈美お嬢様を案内エスコートするように、植物園の入り口へとやって来たのである。

 しかし。

 今日は、珍しくいつも榊原の手助けをしている近藤とかいうやから――まあ、結構いい奴なんだが――の姿が見あたらない。それに、最近俺の周りに現れるようになった日向ひゅうがさんちの眞子まこさんの気配も感じないぞ……。

 まあ、いい。ならば、邪魔者もいない今日は、俺にとっての勝負どきだと腹がくくれるというものだ。


 ――待ち兼ねたぞ、榊原祐樹。今日こそ、この俺が貴様を叩きのめしてくれるッ!


 無意識に始まった、武者震い。

 汗まみれとなった全身から、今度は汗が引いていく。

 朝から植物園入り口横で待ち続けたせいもあって疲労の蓄積も否定できない俺だが、忍者からの情報どおりに現れた榊原を見て、完全復活である。身も心も臨戦態勢に入ったのだ。

 そのとき、とある言葉が俺の脳裏に浮かんだ。


 『小石を隠すなら海岸の砂の中に、木の葉を隠すなら森の中に』


 それは、かの有名な『ブラウン神父』の名言だった。

 そしてここは植物園なのである。

 ならば当然のこと、『植物園で隠すなら、植物の中に』ということになろう。それこそ理に適っており、子どもにでもすぐにわかる道理だ。


 そして今、俺が身に纏っているのは、林檎リンゴの木の張りぼて――着ぐるみだった。使用人の爺やにも手伝ってもらい、徹夜して作ったものである。

「謙ちゃん、本当に手先が器用ね」――子どもの頃からそう云われ続けた俺も、この張りぼてにはさすがに手を焼いた。なにせ、由緒ある雛地鶏家の次期当主が身に着けるものなのだ。誰の目から見ても限りなく本物に近く、かつ、貧相な代物であってはならないのである。

 我が雛地鶏家にふさわしい緻密な張りぼて作成には、当然、大変な時間と労力がかかるのだ――。


 などと、欠伸あくびを噛み殺しながら思い出の世界に浸っていた俺を、植物園のチケット売り場前で「大人2枚!」と叫んだ榊原の声が、現実に引き戻した。

 いつでも戦いに臨めるよう、寝不足の体全体にぎゅっと力を込める。

 すると、榊原の横で、涼し気な薄手のブラウスと青系のガウチョパンツ――確かそういう名前の衣服だったように思うが、スカートのようなスラックスのような不思議な服――に身を包んだお嬢様が腕を組みつつ、榊原に向かって小言を撒き散らし始めた。


「ちょっと! さっきのランチは何だったの? 私、危うく店の中で悲鳴を上げそうになったわよ……。あれでは、ウチのワンちゃんのご飯以下だわ。私の口に入れるのだから、もう少しまともなものを――」

「申し訳ありません、真奈美さん。いつも美味しいものを食べる真奈美さんなら、逆にああいうジャンクフードに近い食べ物を気に入ってもらえるのかもと、妙な考えを起こした私のミスでした……。次は必ず、良いモノを用意しますからお許しください。まあ、それはそれとして、とにかく中に入りましょうか」


 なぜか、むっとした気分になった。

 それは恐らく、お嬢さまの小言をさらりとかわす榊原のやつの態度が板についている気がしたからであろう。

 それからしばらくランチの文句を並べ続けるお嬢様の背中をふんわりと押して、二人分の入場チケットを手に持った榊原が、真奈美さんを園内へと優しく案内エスコートしていく。


 ――ふん。榊原の奴め、なかなかやるじゃないか。


 敵ながらあっぱれな、真奈美さん操作術である。

 悔しいが、榊原のそれは明らかに以前と比べて進化してきているといえた。俺は、自分が今、樹木の姿となっていることも忘れて、彼に対する賛美の意味を込めて今は木の枝にしか見えない両手でパチパチと拍手した。

 だが、俺も奴に負けっぱなしという訳にはいかない。

 つまりは、樹木だからといって、いつまでもここに突っ立ってはいられないということだ。真奈美さんの声が植物園の内側へと吸い込まれていったことを確認した俺は、アクティブな植物として動き出した。

 もちろんそれは、園内への入場を開始するためである。


「うわっ、びっくりした! あなた、お客さんなの!? どう見たって木にしか見えないわよ。確かにさっきから、見たことがない木があっちに生えてるな、とは思ったけど……急に動き出すからびっくりしたわ」

「おお、お褒めの言葉……なのかな? とにかく、ありがとうございます。でもね、この程度の着ぐるみなど、大したことはありませんよ。だって、どう見たってごく普通の林檎の木じゃないですか。我が雛地鶏家の力をもってすればもっとすごいものが……。あ、そうだ。この『木の実』は本物でしてね……。おひとつ、いかがです?」

「申し訳ありませんが、特に要りません」

「そうですか。1個3千円の高級品なんだけどなあ」

「それより……少しでも変な動きをしたら、警察呼びますから!」

「え、変な動き? この俺がですか……? 何、云ってるんです。純真無垢な林檎の木である俺が、そんなことする訳ないじゃないですか!」

「……はあ。それなら、いいんですけどね」


 顔の横辺りにぶら下っていた果実をもぎ取って渡そうとした俺に、明らかに嫌悪の表情を見せつつ渋々チケットを販売する、若い女性従業員。


 ――まったく、失礼なやつだ。この俺を誰だと思っている!


 まあ、ここで今、雛地鶏家の歴史を紐解いて話を聞かせても仕方がないであろう。とにかく、園内に入れただけで良しとしよう――。

 さて。

 こうなれば、前進あるのみだ。枝の葉が擦れて音を出さないよう、細心の注意を払いながら植物園の奥へと進む。

 と、そのとき。

 俺の鼻センサーが、とある゛匂い゛をキャッチした。感じたのは紛れもなく、真奈美さんのすべてが混ざった、あのエレガンスな香りだった。

 植物園の花々の匂いに紛れてしまいそうな香りを、鼻をクンクンとさせ、必死にその出元を辿たどっていく。


 ――こっちだ!


 俺の鼻の命ずるがままに樹木の体を動かし、移動した。

 すると、植物園のほぼ真ん中あたりだろうか――通路脇の花壇の前ではしゃぐ榊原と、それを涼しげな目で見遣る真奈美さんの姿を見つけることができた。

 標的ターゲットを捉えたともなれば、もう焦ることはない。

 慎重に慎重を重ね、近づいてゆく。


「真奈美さん、見てください。この花、綺麗ですよ!」

「うん、まあ……。でも、その程度の花なら私の家の庭園にわんさか生えてるわよ……。まさか、この程度のモノで私のハートを射止めようなんて、そんなことではないのでしょうね?」

「ま、まさか、そんなことはないですよ……。なぜって、あなたより美しい花など、この世には――」

「そういうの、いいから」


 ――うぐぐぐ。


 榊原の奴め、ヤケに楽しそうじゃないか。

 しかもあいつ、やたらとキザな台詞まで吐こうとしているッ!

 無性に腹が立った俺は頭上の林檎の実を素早くもぎ取り、樹木の枝と化して不自由な右手の力を最大限使って、榊原の後頭部めがけて投げつけてやった。

 してやったり! 見事な放物線を描いたそれは、奴の頭にしっかりと命中した。


「イテッ!」

「どうしたのよ?」

「あ、いえ……。突然、林檎が僕の頭に飛んで来てですね……」

「あのね、林檎はニュートンの時代から上から下へ落ちると決まっているものなの。横に飛びなどしないわ」

「そうかもしれませんけど……。あれ? 真奈美さん、あんなところに木が生えてましたっけ? なんか怪しく――」

「もう、木のことなんてどうでもいいわ。とっとと、目的の場所に連れてきなさいよ!」

「うひゃあ! わ、わかりました。あともうちょっとですから、許してくださいよぉ……。ほら、あそこに見える温室が今日の目的の場所です」

「はあ……遠いわね。なんでこんなに歩かせるのよ。歩く距離はなるべく短くしなさいって、何回も云ってるでしょ?」

「重ね重ね、申し訳ありません……。でも、やっぱりあの林檎の木は怪しいな……」


 どうにも納得がいかないらしい、榊原。

 地面から自分の頭を襲った林檎を拾い上げると、何度も首を傾げながら、頻りとこちらの様子を窺っている。けれど、そんな榊原などにはお構いなしのお嬢さまは、ガラスの温室へと勝手に歩みを進めて行った。

 それを見た榊原が、慌てて彼女の後を追いかける。


 ――ふう、危なかったぁ。


 もう少しでバレるところだった。が、何とかピンチを脱したらしい。

 雛地鶏家の次期当主ともあろうものが、つい感情的になってしまったことに反省する。精巧な着ぐるみなので、普通にやっていればバレないのは当然のことなのだが……。


 最初のヤマ場をこうして乗り越えた俺は、緊張で凝り固まった体中の筋肉から力を抜くと、心の中で額に浮いた冷や汗を拭った。それから、こんな精巧な着ぐるみを作ることができる器用な手足を授けてくれたご先祖様――貧乏浪人の如き゛傘張り゛仕事などした事もなかったであろう由緒ある直参旗本のご先祖様――に、感謝の祈りを捧げた。

 だが、ずっと感謝ばかりしているわけにもいかない。

 こうしている間にも、榊原が何をしでかすかわからないのだから――。

 もう一度全身に力を込め直した俺は、音を立てないよう、完全に気配を消して二人を追いかけたのだった。

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