【3-2】

 榊原の前歯が勝利したのか、はたまた近藤の持つ菜箸が勝ったのか――。

 もはや何の勝負かわからなくなったこの場の雰囲気を自分の側に取り戻すべく、榊原祐樹が『口より物を云う』はずの目を、きりりと真奈美に向けた。

 そしてそのまま、女性を魅了するはずの不敵な笑みを浮かべようとした、その瞬間。


アツ、熱、熱ッ――カラ、辛、辛ッ!」


 榊原が、狂気の沙汰とも云える悲痛な叫び声をあげた。

 そして、事前の想定にはなかった、口にしたおでんを辺りにぶちまけてしまうという、失態を演じたのである。

 スーハ―、スーハ―。

 頻りと息を吸ったり吐いたりしながら、まるで明太子めんたいこみたいに赤く腫れてしまった自分の唇を冷やしている、榊原祐樹。


「こ、こら、近藤! 何だよ、この味付けは。打ち合わせと違うだろうがッ! 熱いだけじゃなくてこんなに辛かったら、飲み込むのは無理だって!」

「さあ……どうなってるんでしょうね。でも、ひとつだけ云えるのは、熱くて唐辛子の効いた辛い物を平然と飲み込む男こそが、真の漢気ある男――九州男児であるということです、榊原先輩」

「ぐ、ぐぬぬぬ……。ていうか俺、九州男児じゃないし」


 近藤が、明後日あさっての方向に向きつつ口笛を吹くという古典的な方法で、誤魔化している。そんな二人の様子を見た、真奈美お嬢様。パタパタと三度、その大きな瞳で瞬きをすると、口を開いた。


「…………。えーと、これで終わりかしら? もしかして、もう帰っていいの?」


 ハイヒールを動かした彼女の行く手を塞いだ榊原祐樹が、頻りと首を振る。


「ちょ、ちょっと待ってください! ま、まだですよ、こんなのは序の口です……。さあ、近藤君、次の準備を。早く!」

「了解ですッ!」


 そう元気に答えた近藤が、そそくさとどこかに消えた。

 暫くして、今度は小さな子どもがお庭やマンションのベランダなどで楽しくちゃぷちゃぷするアレ――ピンク色のおもちゃプール――を持って戻って来た。空気未充填でぺっちゃんこなビニール製のプールをよいしょと声を出して真奈美の前に置くと、フットペダルの空気入れで、猛然とそこに空気を注入し始める。

 それを終えると、盛んに湯気の吹く巨大な真鍮製のヤカンをいくつも持ってきて、その注ぎ口からお湯らしき液体をプールへと注いだ。ある程度液体がたまったところで、温度計を使い、温度が゛適正゛であることを確認する。

 これで作業終了――とばかりに、近藤はにっかりと満足げに笑いながら、「準備OKです!」と声高らかに宣言した。


 ――この間、なんとたったの三分である。

 彼が、かなり優秀な、仕事のデキる社員であることはほぼ間違いないだろう。

 一連の動作にも息のあがらない後輩を、親のような愛情のこもった眼で目で見つめた榊原が、宣言する。


「では、始めます!」

「もしかして……これも笑いの伝統芸能じゃないの?」


 真奈美の質問には答えず、榊原祐樹が勢いよく服を脱ぎだした。

 あっという間に海水パンツ一枚の姿になった、彼。

 ぎらぎらと照りつける陽射しを体いっぱいに浴びながら、「押すなよ、押すなよ」と声を出し、空気でパンパンになったビニールプールの縁に両手両足を載せ、まるでバッタのような恰好で這いつくばる。


「……」


 そんな彼を、近藤が黙りこくったまま見続ける。

 この状況は、「押せよ!」という、あの伝説ともいえるセリフが榊原祐樹の口から出てくるのを待っているのよね? ――なんて、真奈美が思った瞬間だった。

 近藤が長い足を延ばし、榊原の背中をガン、と蹴とばしたのである。


「うわ、まだ早いって。近藤!」


 そんな切ない叫び声とともに、パンイチ男が小さなプールに頭から突っ込んでいく。


「ぐわっは! あっちぃいい!」


 真っ赤に茹で上がったお腹と背中を曝した、榊原祐樹。

 出来の悪い一人芝居のような動きで、清らかな水を天空に向かって吹き出す噴水を中心に据えた池――真夏の天国――に向かって行く。

 それは、彼が子ども用プールに飛び込んでたった一秒後の出来事であった。


「バカ野郎ッ! タイミングが打ち合わせと違うだろうが! それにお湯の温度を50度にしといてくれってあれほど言ったのに、どう考えても本当の熱湯じゃん!」


 噴水の中の男がそう叫ぶと、今まで近藤と呼ばれていた男が着けていたサングラスを外し、黒衣の衣装を脱いだ。そこに忽然と現れたのは、品の良い濃紺のスーツに身を包んだ、お坊ちゃん風の若い男だった。

 この陽射しの強い暑い日に、黒い服を何枚も重ね着をし続けていた彼のその忍耐力には、恐るべきものがあった。

 そして、彼がスラックスのポケットから取り出したのは一輪の薔薇の花だった。

 ジャケットの胸ポケットにそれを流れるような動きで差し込んだ彼は、その真っ赤な花びらを周囲に見せびらかすように胸を張った。

 と、噴水の水を頭から真面まともに浴び続ける榊原祐樹が、その黒衣の男を指差す。


「あっ、お前は……この前、動物園に現れた、小洒落こじゃれ優男やさおとこじゃないか!」

「ふっ……誰が『ヤサオトコ』だって? それを云うなら、男前とか二枚目とか云って欲しいものだね」


 左目を覆うウエーブ気味の髪をほっそりと長い左手指でさらりと払った、優男。

 しかし、炎天下の中で正々堂々、お嬢さまに戦いを挑んだ榊原も、負けてはいない。


「どうして、お前が僕と真奈美さんのデートの場にいる?」

「簡単だよ、二十九歳の冴えない独身男クン……。キミと近藤とかいう後輩が結託して良からぬ作戦を企てていることを知った私は、私と近藤君の背恰好が近いことを利用して近藤に成りすまし、その野望を打ち砕いたというわけだ」

「ということはアンタ……僕の恋敵なんだな。というかアンタ……ホントに暇なんだな」

「全然、暇ではなーい! 何たって、私は――」


 二人の訳の分からない云い争いに、真奈美お嬢様がぷるんとみずみずしい唇を艶やかに動かして、割り込んだ。

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