【1-3】

 胸の鼓動を必死に抑えつつスーツ右ポケットに手を突っ込んだ僕は、一組の新品の軍手を取り出し、両手にセットした。

 そして、急ぎ七輪の網を取り外すと、そこに両手を突っ込んだ。


 じゃあぁぁ! ぶっしゅぅぅ!


 何かが盛んに焼け焦げる音。

 それととともに、まるで真夏の積乱雲のように夥しい量の黒煙がもくもくと湧き上がっていく。

 と、異変を感じたらしい店員さんが、僕の傍にやって来る。


「うわっ。何するんだ、お客さん!」

「すまないけど、見逃してくれ。僕の人生が、かかっているんだ!」

「人生が……かかってる? この七輪に? え、どういうこと??」


 僕の勢いに圧倒された中年の男性店員は、それ以上、言葉を発することはなかった。

 そればかりか、興味深々の眼でもって僕の姿を黙って見守っている。


「できたッ!」


 店内に轟いた、僕の歓声。

 するとその直後、真奈美さんがスマホをいじりいじり、席に戻って来た。何気ないその様子から見て、僕の奇声は耳に届いていなかったのだろう。

 席に着き、スマホの画面から目を離して僕の方を見た、その瞬間――。

 彼女の視線は僕に釘付けとなった。よほど彼女に衝撃インパクトを与えたのか、あんぐりと口を開けたまま、ぱちぱちと瞬きし始める。


(よし、あともうひと押しだ!)


 例えて云うなら――夏休みに家族でキャンプに行き、ここぞとばかりに『頼れる男』感を出すお父さん、の気持ちだ。きびきびと動き、おまけに先日歯医者でホワイトニングしたばかりのきらりと光る歯も、見せつける。


(こんな姿を目の当たりにした彼女は……今度こそ、僕に胸キュンしているに違いない!)


 そんな僕の甘ったるい妄想は、すぐに粉々に砕かれた。


「ちょっとアンタ、何してんの? 恥ずかしいじゃない!」

「は、恥ずかしい? え、そんな……アチ、アチチ!」


 燃え盛る備長炭の炎が、容赦なく僕の両手にはめられた軍手に襲い掛かった。


「危ないわね……。とにかく軍手をとって、そこに座りなさいよ……今すぐ!」

「あ、はい……」


 掴んでいた備長炭のかけらを七輪の中に戻すと、軍手に襲い掛かる火の粉をぱんぱん叩いて消し止め、肉の載った網を七輪の上にセットしなおした。役目を終えた軍手を両手から外し、黒い煙を吐きだしてくすぶる七輪を目の前にして、椅子の上に正座する。

 さあ、準備万端――とばかりに彼女の目をじっと見つめた僕だったが、何故かそのとき感じたのは、彼女の全身から発する、どす黒い殺気だった。

 どうやらそれを感じてたのは、僕だけではないようだ。

 雰囲気を察したらしい店員は、もうとっくに、どこかへと姿を消している。


「で……。一応、聞くけども、何をしたかったの?」

「あ、それはですね……これですよ、真奈美さん」


 僕が指差した先――

 そこにあるのは、網の上に載った厚切りの牛タン、二枚だった。見ようによっては、ハート型に見えなくもないだろう。それらの表面には、僕が備長炭の角を使ってなぞり、熱で黒く変色させて書き込んだ、たどたどしくも情熱的な文字列が並んでいる。


『スキです』

『つきあってください』


「…………」


 それを見た途端、ピタリ、動きを止めて押し黙ってしまった真奈美さん。

 それから、一体どのくらいの長さの時間が経過したのだろう。肉が炭の熱でぱちぱちとはじける音だけが響く、そんな時間のかたまりだった。いや、もしかしたら時間の流れすら止まっていたのかもしれない。この世のものとは思えない異次元の空間が、しばらく僕ら二人を取り囲んだのだ。


 熱し過ぎた二枚の牛タンがくるんと丸まって、文字が見えなくなる。

 その瞬間、凍りついたように動きを止めていた彼女の表情が、ぴくりと動いた。それはまるで、辛く長い冬を乗り越えて春を迎えた、北国の自然の息吹のよう。息を吹き返した彼女の、眉の両端がみるみると盛り上がっていく。


「な、何よ、くだらないわね! この程度の演出で私に告白こくるなんて、3億年早いわよ!」


 僕のお気に入りのポンチョを荒々しく床に脱ぎ捨てた真奈美さんが、くるり、身を翻して足早に店を去って行く。

 気が動転してしまった、僕。

 正座したまま、黙ってその後ろ姿を見送ることしかできなかった。


「ま、真奈美さん……」


 がっくりとうなだれる僕の肩を、ぽんぽんと優しく叩く手があった。

 それは、いつの間にか僕の横に立っていた、先ほどの店員さんの無骨ながらも温かな手だった。そのうるんだ瞳は、彼が今の今まで怒っていた出来事のすべてを理解していることを僕に教えてくれた。


「まあ、元気出しなよ」

「ありがとう、おじさん」

「いいんだよ、お客さん……。この特上カルビ一人前、サービスしとくからさ、これでも食って元気出しなよ」


 鼻をすすりあげながら、肉の盛られた皿をひとつテーブルの上に静かに置いた店員さんは、颯爽と僕の前から去って行った。

 たったひとり――たったひとりで高級店に取り残された、僕。

 動きのおぼつかない右手で時間をかけつつ焼いた店員からの『振舞い肉』をタレにくぐらせ、口へと運ぶ。

 初めて食べる高級肉の油の旨みと芳醇な香りが、僕のハートを捉えた。


「美味い、美味いよ……。ありがとう、おじさん。ありがとう、備長炭!」


 席から立ち上がり、七輪に向かって頭を下げる。

 そんな僕の両眼から、数滴の涙の粒が零れ落ちていった。それらは、網の上でじゅっと音を立てて水蒸気となり、地球の大気の一部と化した。


「さようなら――涙くん」


 高級カルビを包含した僕の口から、ぽつり、そんな侘しい言葉が漏れた。




【キミに届けたい、永久とわの愛を。肉の上に炭で書いたラブレター】 



  ―続く―

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