第58話 想い 3




あの日から義母の貴一郎に対する目は厳しくなったように思えた。

言葉かけや仕草はいつもと変わらないのだが、義母の目は笑っていなかった。

それは、入院している義父の容態が思わしくないせいだと言うことが、後になって分かった。

義母の中で大野家の跡取りである貴一郎に、自覚を持たせたかったのかも知れない。

今までは見逃してきたことも、義父にもしものことがあれば、大野家の当主は必然的に貴一郎になる訳だから…





お陰で少しの間、私は居心地が良いとまではいかないが、それなりに自分のペースで過ごすことが出来た。

ストレスがない生活が体にいいというのは本当だった。

私の傷めた足も、思ったより順調に回復に向かうことが出来たのだった。





しかし、思いがけず悲しい気持ちになることもあった。

手術を受けた柾は本格的にリハビリをする為、入院していた病院を転院していた。

足のケガで危ぶまれたクラブチームの入団だったが、柾の実力を高く評価したクラブチームが名乗りを上げ、彼のリハビリにも一役買ってくれたのだそうだ。

嬉しそうに話す伊坂の顔とは対照的に、私は苦笑いしか出来なかった。

もう、柾に会うことは無いに等しいことだったから…





携帯の着信もメールも少しだけ期待していたが、なしのつぶてだった。

時間が経てば経つほど、最後に話した柾との会話が遠いことのように感じる。

あの時、同じ気持ちでいると根拠のない確信を持っていたが、何もない時間はその確信を何もなかった時間へと変えていくような気がしていた。





「…足の具合はどうなの?」





そんな思いの中、病院への受診も遠のいて来た私に、義母が初めて私の体の心配をしてきたのだった。

予想すらしていなかったことだけに、私は驚いて言葉を直ぐに発することが出来ずにいた。





「まだ、良くないの?だったら、ちゃんと病院には行かなくちゃダメでしょ」





「あ、いえ…順調に回復してます。だから、病院も少し間を空けていいとのことなので」





「何だ、そうだったの。茜さん、何にも言わないから。それならそうと言ってちょうだい。あなたにやって貰わなきゃならないこと、山のようにあるんだから。あなたが怪我してると思って遠慮してたのよ」





時間が経てば、義母も相変わらずな態度に戻っていくのかと、心の中で苦笑する。

一応は遠慮されていたんだと思うと、顔には一切出さないが、笑いがこみ上げて来てしまう。

これは皮肉ではなかった。

私の心に多少の免疫がついてきたことを物語っていた。

やはり、義母の貴一郎への態度が変わったことが、私にも影響を与えていた。

義母の守りたいものの中に、嫁という立場の私がどんな形にせよ、加わっていたのだから。





「…で、いつからなの?」





あの日以来、義母は私にお茶を淹れさせた。「まぁまぁね」と言いながらも、湯呑みにお茶が残ることはなかった。

唐突な義母の今日二度目の質問は、そのお茶を淹れている最中だった。

「何がでしょう?」とお茶を湯呑みに注ぎながら、私は義母に質問を返した。義母が何を意図して言っているのか、さっぱり検討がつかなかったからだ。





「伊坂くんに誘われてるんでしょう?教師に戻ること…あなたの足が良くなれば、仕事に行くことになってるんじゃないの?」





義母の言葉に私は呆然としていた。湯呑みからお茶が溢れ出し、床に零れたことで私は我に返った。慌ててフキンを取り出し、溢れ出たお茶を染み込ませた。





「どうせ、あなたのことだから反対しても行くんでしょ?だったら、お勤めに行く前にやって貰わなきゃならないこと言っておくから。それくらいして貰っても罰(ばち)は当たらないわよね?」





義母の言葉に私は「はい」としか返事が出来なかった。まさか、こんな時に義母の許しを得られるなど思ってもみなかったのだ。





「ねぇ~、お茶はまだかしら?さっきからずっと待ってるんだけど」





義母の独特な耳に残る声も、さらりと聴こえることが不思議だった。「はい、ただいま」と答える私の声が、何時にも増して明るかったのは言うまでもなかった――



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