第56話 想い




貴一郎の背中を見送って、私はリビングに戻るとフーっと溜め息を吐いた。

貴一郎と友加里のことを思い返すと、次から次へと疑心が生まれてくる…

今まで、こんな気持ちで二人を見ていなかったせいか、こんな感情が生まれてくること自体に慣れておらず、気持ちをどう整理していいのか正直、分からなかった。





貴一郎を嫌いになった訳じゃない。

ただ、貴一郎には抱いたことのない感情を柾に抱いてしまった。

その想いを抱いたことの罪悪感は、もちろん感じていたが、自分の気持ちに嘘を吐くことは出来なかったのだ…





柾への想いはどこから生まれてきたのだろう…

私の心の隙が、この恋へと走らせてしまったのだろうか。

もし、そうなら貴一郎にもそういう心の隙があったのだろうか。

そうだとしたら、余計に私には責められなくなる…

その心の隙を友加里が満たしてくれているのだとしたら、私は責めることなど出来ないんじゃないか…?





その日は、柾への想いに浸ることなどすっかり忘れ、私は私なりに貴一郎と友加里への疑心を冷静に考えていた。

答えなど見つからない…見つかる訳がないことは分かっていた。

それでも、自分への納得が欲しかった。

こういう時に教師という職業に慣れつつある自分が恨めしく思えた。

感情のまま流されないよう鍛えられてきたことが、こんなところで役に立つなんて思いもしなかった。





「ただいま~、茜さん。ちょっと、お水くれない?」





シンと静まり返っていた玄関が賑わいを見せたのは、とうに日付を越してしまった深夜だった。義母の機嫌の良い声が覚醒してしまった私の頭にやけに響いてきた。

私は急いでコップに水を注ぐと、玄関の小上がりに座り込む母にコップを差し出した。





「ありがとう…茜さん…まだ、起きてたの?寝てて良かったのに」





たとえ寝ていたとしても、起こされるのは目に見えていたが、義母の矛盾した言葉に苦笑しながらも「はい」と答える。

義母が水に口を付けていると、更に酔った友加里が玄関の扉を開け、続けて貴一郎が中に入ってきた。

もう、気にしないと心の整理をしていた私だったが、玄関で並んで立つ二人の腕に思わず目を向けている自分が何だか情けなくなる。

想像と目の前で二人を見るのとでは、心がこんなにもかき乱されるのかと、現実を思い知らされる。





私はそんな自分が嫌で、水を汲みに行くと言ってその場を離れようとした。

しかし、義母がそれを許さなかった。





「友加里ちゃん、あなた、タクシーで帰るんでしょ?お水は帰ってからしっかり飲みなさい」





「え~?藤江先生、泊まっていけばいいじゃないって言ってくれてたでしょ~?友加里、そのつもりだったのに~」





友加里が酔うと、更に可愛らしさを増すことは私も十分知っている。いつも、この愛らしさに義母はメロメロになり友加里を大事にしてきた。

しかし、その日の義母は今までになく冷静で、友加里の甘い声にも動じない態度に私の方が驚かされた。





「じゃぁ、貴一郎に送って貰っていいでしょ?夜中に女性一人なんて、怖いんだから~」





「まぁ、友加里ちゃん、何言ってるの。貴一郎は曲がりなりにも既婚者なんだから。私が一緒の時はいいけど、他人様から誤解を受けるようなことは許されないわ。今日は一人で帰ってちょうだい」





義母は酔ってはいたが、しっかりとした口調で友加里にそう言って退けた。友加里は甘えた目で貴一郎を見つめていたが、義母の言葉に貴一郎も何も言わなかった。いや、言えなかったのだろう。

義母は私にタクシーを呼ぶように言い、私は直ぐにそれに従った。





渋々、タクシーに乗り込む友加里を見送りながら、私は義母の初めて見る凛とした態度に、ふと、想いも寄らない義母の気持ちに触れてしまったような気がしていた――



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