第54話 疑惑 5
(…何もないんだったら、別にいいけど)
貴一郎は私の言葉にポツリとそう言った。
貴一郎に対して罪悪感は残るものの、このままの態度を貫き通さなければならないと思った。
この気持ちは以前の実習生の時の話とはまったくの別物だ。
だって、私は柾への恋心に気付いてしまっていたのだから…
「高校生に嫉妬なんて、貴一郎らしくないわよ。まさか、貴一郎がそんなことしてるとかじゃないわよね?」
私はこれ以上、話が進展しないようにと冗談めかして、笑いながら貴一郎に言った。
冗談とはいえ、自分のことを誤魔化す為に貴一郎を引き合いに出してしまったことに、貴一郎の表情が一瞬、ムッとしたのが分かった。
私は直ぐ様、貴一郎に「ごめんなさい」と「冗談よ」を繰り返し、機嫌をとったのだった。
貴一郎の機嫌が治った頃、貴一郎の携帯電話に着信が入った。
「もしもし」と言って出た貴一郎の様子で、相手は友加里だと推測出来た。
多分、もうすぐ義母と電話を代わるだろう…
義母が予告していた通りに、貴一郎を呼び出そうとしているのが分かって、何だか可笑しくなってしまう。
一度、断られても義母は絶対に引かない。
相手が貴一郎だと、最後には寝返るのが分かっているから、絶対に引くことはないと断言出来る自分がいた。
「…あ~、もう分かったよ。で、どこに行けばいいの?」
投げやりな口調で貴一郎が答えているのを耳にしながら、私は気付かれないように笑ってしまった。まだ、義母とのやり取りをしている貴一郎を尻目に、出掛ける支度をしておこうと寝室へと向かう。
背広ではない、でも、堅すぎない程度のラフな服を選び、後はいつも身に付けている時計をベッドサイドの小物入れから取り出した。
ずっしりと重い時計は、私が以前、付き合っている頃にプレゼントしたものとは違っていた。あまり人の持ち物に興味のない私は、貴一郎が時計を新しいものに変えてしまっても気付くことがない鈍感さを持ち合わせていたようだ。
何時から使っているのか分からないその時計を、私は初めて明るい電灯の下でまじまじと見つめたのだった。
「…これ」
私が呟いたのと同時に、電話を終えた貴一郎が寝室へと階段を駆け上がってくる音が聴こえてきた。少し慌てているようなバタバタとした足音に気を取られ、時計を見た時のインスピレーションが薄れそうになる。
「何、勝手に触ってるんだよ!」
貴一郎は寝室に入ってくるなり、洋服と時計を持った私の手から時計を取り上げると、急いでポケットにしまった。あまりの突然な出来事に、私は呆然と立ち尽くし、貴一郎の顔を見つめた。
「あ、ごめんなさい。てっきりお義母さんからの電話だと思って。出掛ける支度しておこうと…」
たどたどしい私のしゃべりに冷静さが戻ったのか、貴一郎の表情も些(いささ)か和らいでいくように思えた。慌てた自分の態度を非難し、支度をしようとしていた私にお礼まで言う始末だった。
「…その時計、初めてのボーナスで買ってさ。教師、辞めたいって思ってた頃だったから…自分に気合を入れようって奮発しちゃって。…思い入れのある時計だったもんだから、つい…」
貴一郎は時計に纏(まつ)わるエピソードを、まだ聞きもしない私に話して聴かせる。初めて聞く話と、時計を見た時のインスピレーションが私の中で蘇ってきて、貴一郎の言葉は虚しく私の耳を通り抜けていった――
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