第52話 疑惑 3
私の鼓動は早鐘を打つようにドクドクと体中に鳴り響いた。
頭の中では以前の教え子だと話をするべきか…など、いろんな言い訳が並んだが、どれもピンとくるものがなかった。
もとより嘘が苦手な私は、貴一郎の顔を見ながら嘘をつくなんて出来る筈がなかった。それを一番分かっているのは、私の返事を待つ貴一郎なのだから…
「前にも話したことあると思うんだけど…木本柾くん。足の手術をするらしいの。予定してた手術日が早まって明日になったからって、わざわざ連絡入れてくれたのよ」
私はありのままのことを貴一郎に伝えた。嘘をついていることは何もない。
自分の心に何度も言い聞かせる…
堂々としていよう。何も隠すようなことはないんだから。
ただ、柾と心を通わせあったことだけを除けば、貴一郎に伝えたことは事実だった。
「…噂は本当だったんだ。木本が手術するって…」
私の言葉に唇の端を上げて、二ヤッと笑う貴一郎の顔が私の目に飛び込んできた。
私はそんな貴一郎の顔を見て、思わず身震いした。
「うちにもチャンスが巡って来たってことか~」
貴一郎の興奮した声に、私は思わずムッとした表情になったに違いない。
黙りこくった私を貴一郎が訝(いぶか)しげな顔で見つめていた。
何だか柾の不幸を喜ばれているみたいで、心の中でムッとしたつもりだったが、表情に現れたことを悟った私は、慌てて曖昧な笑顔を作った。
しかし、それはもう手遅れで、貴一郎に疑問を抱かせる結果になってしまったのだった。
「茜…何か怒ってる?」
「ううん、別に…」
私は気持ちを悟られないように、努めて明るく振る舞ったつもりだった。貴一郎の夕食作りに身を入れようとしたのだが、疑問を抱いた貴一郎にはそんな私の態度は通用せず、芽生えた疑問を追求しようと、私ににじり寄ってくる。
「い~や、怒ってただろ?さっき…俺が木本の手術を喜んだ時さ」
「…怒ってないわよ。ただ…」
「ただ…?」
「何だか貴一郎が、人の不幸を喜んでるみたいで嫌だったの!」
私の口からつい、そんな言葉が発せられたことに自分自身が驚いていた。
自分の本心を悟られないようにと発した言葉は、貴一郎にも堪(こた)えているようだった。
「…木本くんだって試合に出たかったと思うわ。伊坂先生だって、木本くんの手術のこと、相当悩んでたし…でも、木本くんが将来のことを考えて手術を決めたから、それを応援しようって気持ちを切り替えてるところなの。だから…」
「…分かったよ。茜の言いたいことは分かったから…」
私の言葉をかき消すように貴一郎は言葉を発した。
貴一郎の話す言葉の語尾が、少し荒くなったことで私は忘れかけていたことを思い出すことが出来た。
自由奔放で大らかそうに見える貴一郎だったが、嫉妬心は人一倍強い人だったと言うことを私は不意に思い出したのだった。
「茜が、木本を庇(かば)ってるような気がしてさ…」
貴一郎がポツリと漏らした言葉で「やっぱり…」と心の中で呟く。
嘘が苦手な私は、貴一郎にそう思わせる態度をとってしまったことを後悔した。
柾への気持ちは絶対に悟られてはいけない…そうとも強く思った。
「何言ってんだか。いったい、歳がいくつ離れてると思ってるの?私が木本くんを好きになる訳ないじゃない。バカね、貴一郎は…」
私はこの時、生まれて初めて嘘をついた…
自分の大切な気持ちを守る為には、こんな嘘が付けることを初めて知ったのだった――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます