第34話 光
午後になって伊坂が大野家を訪れた。朝の電話での「信じよう」の言葉が伝わったのだろう。心無しか伊坂の表情も明るく見える。
柾の決断した手術のことを考えたら、伊坂が不安になるのも無理はない。
それが手に取るように分かるから、私は伊坂が更に不安を募らせないように笑顔で「こんにちは」と挨拶した。
私の笑顔を見た伊坂は、少し照れくさそうに「おっ!」と言って右手を上げた。
私もつられて右手を上げ、伊坂を真似てみる。その動作が可笑しかったらしく、伊坂は玄関先で声をたてて笑った。
「…誰かと思ったら、伊坂君じゃない。大きな声で笑って…何かいいことでもあったの?」
そう言いながら奥の部屋から現れた義母に、伊坂は丁寧に挨拶をした。玄関先で大きな声を出したことを詫び、今から私を病院へ連れていくことを告げた。
「ねぇ、伊坂君。茜さんの足のことだけど…いったい何時まで病院に行かなきゃならないのかしら」
「まだ、暫くは…通わなくちゃいけませんね。なにしろ、靱帯ですから…きちんと治さないと後々に響いてきますから」
「まぁ、そうなの…まだ、茜さんのこんな状態が暫くはかかるのね。こんなことなら、手術してた方が良かったのかしら。…でも、どっちにしても私がゆっくりできるのは、まだまだ先ってことね…」
私への嫌味を言いたくて、わざわざ声をかけたのかは分からないが、義母の言葉に伊坂は苦笑した。しかし、今の伊坂には義母の軽々しい発言がどうにも許せなかったようで、義母の言葉にこう続けた。
「藤江先生、手術だってリスクはあるんです。もちろん、手術じゃないとダメな場合だってあります。今後の自分の体のことを真剣に考えて、治ることを前提にしたら、時間が多少掛かってもリスクのない方を選ぶのが賢い場合だってあるんですよ」
「まぁ、そうだわねぇ」
いつもなら自分を上げてくれる伊坂が、珍しく反論めいたことを口にしたのに驚いたのか、義母は「それじゃ、気を付けてね」と私に声を掛けると、そそくさと奥の部屋に姿を隠したのだった。
「…俺も大人げなかったなぁ」
車が走り始めて、ハンドルを握る伊坂がポソリと呟いた。さっきの義母とのやりとりのことを言っているのだと直ぐに分かり、私は思わず苦笑する。
「…先生があんなこと言うから、お義母さんったらびっくりしてたじゃないですか」
「いや~、つい…俺の口が勝手に」
「でも、言わずにはいられなかったんでしょ。手術って簡単に言って欲しくない気持ちを言いたかったんでしょ」
伊坂は私に胸中を見透かされたと思い、照れ笑いを浮かべて「まぁな」とだけ答えた。
私もそれ以上は何も言わなかった。自分の気持ちを誰かに分かって貰えていることが、伊坂にとって何よりの安心なのだ。
伊坂の不安な気持ちは痛いほど分かった。手術を決断した柾の将来がかかっているのだから…
「診察の後、少し時間あるか?」
伊坂に不意に尋ねられ、私はコクンと頷いた。早くに帰っても、義母と一緒にいる時間が長くなるだけのことだ。少しでもその時間が短くなるのなら、願ったり叶ったりだ。
「木本のとこに付き合って貰えないか?あいつ、午後から入院なんだ。松嶋がいてくれたら、俺も明るく出来そうだし…な」
柾の名前を聞いて私の胸が徐々に高鳴っていくのが分かる。予期せぬ伊坂の誘いに燻っていた私のモヤモヤが一掃された気分だった――
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