第32話 ジレンマ 2




私は貴一郎の言葉に動揺し、背広を掛けていたハンガーを床に落としてしまった。

バサッと音をたて背広が床の上に広がった。





「お~い、茜…その背広、俺のお気に入りなんだからな。もうちょっと丁寧に扱ってくれよ…」





「あ、ごめん」





私は慌てて床から背広を拾い上げると、形が崩れないようにハンガーに掛けクローゼットに仕舞った。

体は自然とそう動いたが、私は既に上の空で貴一郎の言葉を聞いていた。





夕方、病院を訪れていた柾の顔が脳裏に浮かんでくる。

あの時はそんなに大したケガではなさそうだったが、やはりスポーツをやるには重傷だったのだろうか…

そう言えば、あの時の伊坂の様子もおかしかった。

生徒のことを常に考えている人ではあるけれども、あんな深刻な顔をした伊坂を見たのは初めてのことだった。

そんなに酷いケガだったなんて…





疑問が次々と心配へと変わり、私はその場から動けなくなってしまった。

酔っ払った貴一郎が上手くシャツを脱ぐことが出来ずに、私の名前を何度も呼んでいたけれど、私の耳には届かなかった。

私が気が付いた時には、シャツのボタンを半分外して片方の腕を出そうとしたまま、高いびきをかいて寝ている貴一郎の姿があった。





「茜…」





貴一郎の寝言に私は相槌を打ちながら、シャツを脱がしパジャマに更衣させる。

力の入らない貴一郎の重たい体にパジャマを着せるのは至難の技だったが、何とか着せ終わった時には、私の額から汗が滲んでいた。





貴一郎のいびきが止み、部屋中がシンと静まり返った。ベッドに横たわった私は、真っ暗な暗闇をじっと見つめた。目を開けているのか、閉じているのか分からないような感覚に陥りながらも、私の脳裏には柾の姿がくっきりと浮かび上がってくる。

その日は、なかなか眠りにつけないまま朝を迎えてしまった…









「昨日は随分飲んでたわね~」





食卓では、新聞を見つめる貴一郎に義母が声を掛けている。「ああ」と上の空に返事をする貴一郎は、テーブルに並んだ味噌汁に手を伸ばしてすすり始めた。





「新聞は後にしなさいよ」





そう言って新聞を取り上げた義母は、少し不機嫌そうだった。

昨夜、貴一郎の帰りが遅かったことで、義母もあまり眠っていないのだろうと思われた。

貴一郎もそれが分かったのか、何も言わずにお箸を拾い上げると黙々と食事を摂り始めた。





「茜さん、今日も病院なの?」





義母の苛立ちはとうとう私に飛び火した。「あ~、やっぱり」と心の中で呟きながら、病院受診は来週だと告げた。





「お義母さんはゆっくり休まれて下さい。昨日はあまり眠られていないんでしょう…申し訳ありません」





義母の不機嫌さがこの言葉で収まるとは思っていなかったが、何も言わないよりマシだと思い丁寧に言葉を連ねた。私が気の利いたことを言うなんて思っていなかった義母は、「そう?」と返事をしたが、一瞬、驚いた顔をしたのを私は見逃さなかった。





不思議だった…

昨夜から私の頭の中は、柾への心配ばかりが渦巻いている…

でも、その気持ちに気付かれてはいけないと、細心の注意を払う自分が存在していることにも気付いた。

義母と一緒にいると、その気持ちを見抜かれてしまいそうな不安があったからだろう…

柾の様子を知りたいと思う一方で、義母に優しく出来た自分が妙に可笑しかった。





きっと、この頃からだったのだろう。

ちぐはぐな心の私が生まれてしまったのは――




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