第31話 ジレンマ
友加里の背中を見送って私はドアを静かに閉めた。
何だか全身の力が抜けていくようで、私はベッドに躰を預けた。
ぼんやりとした目で天井を見つめる。思わず私の唇から長い長い溜め息が漏れた…
(…結婚しても恋しちゃいけないってことはないんだから。ときめきは女にとって必要よ…)
友加里が私の耳元で囁いた言葉が、私の頭の中で何度も何度も巡った。
その言葉に反発するかのように、私の心の声が上書きしていく。
高校生にときめいたからって、これは恋じゃない…
私は教師という神聖な仕事をしてきたのだから…
心の中の呟きは、心の隙間にどんどん虚しさだけを膨らませていく。
私は…嘘つきだ。
本当は柾のことが気になって仕方がないのに…柾を思い浮かべると胸の中が熱くなっていくのに…
このときめきがどうカタチを変えていくのか不安だった。
友加里が大野家に現われたりしなければ、このときめきには蓋をしていたかも知れない。
だけど、友加里の言葉で私はパンドラの箱を開けてしまった。
ときめきのカタチが、はっきりとしたカタチになってしまったことに気付いてしまったのだった…
「茜さ~ん、ちょっと~」
階下で義母の声が響いている。私ははっきりとしたカタチになってしまった思いを口にしようとして、思わずその二文字の言葉をグっと飲み込んだ。
ベッドから起き上がると「は~い」と返事をし、急いでドアノブに手を掛けた。
部屋を出る瞬間、私は平静を装った。大野家の嫁の顔を作ってゆっくりとドアを開けた。
その日の深夜過ぎ…
飲み会を終えた貴一郎が同僚に送られて帰宅した。
「お~い、茜~!帰ったぞ~」
玄関先で大声を出す貴一郎を静かにさせようと、慌てて階段を降りようとしたが、義母の方が一足先に貴一郎を介抱する姿が私の目に映った。
「もう、あなたもお父さんに似て、声が大きいんだから!」義母は「水くれよ~」と叫ぶ息子の背中を叩きながら抑えた口調で言い放っている。
「すみません、お義母さん。後は私が…」
私の言葉に眠そうな顔を向けて「じゃ、茜さん。お願いね」と言って義母は自分の部屋へと戻って行った。
私はコップに水を汲んで、貴一郎がのびている玄関先に急いだ。また、大声を出されては堪らないという気持ちが勝っていて、何だか何時もより躰が速く動いていた。
「おい!茜!」
「なぁ~に?」
「…愛してるぞぉ…俺にはお前だけだぞ」
普段なら絶対に口にしない言葉が、お酒の力を借りて貴一郎の口から次々と溢れてくる。
本当だったら嬉しい筈の言葉も、今日の私の胸には響いてこなかった。
「愛してる」の言葉が酔っ払わないと口を吐いて出てこないのか…と思うと、何だか「愛」という言葉も虚しいものに感じた。
「はいはい、分かったから。部屋に行って着替えるわよ」
私は貴一郎の躰を床から起こすと、水を飲ませて自分で部屋に戻るように促した。
ゆらゆらと揺れるしっかりとした骨格は、ケガをしている私にとって今は凶器のようなものだ。
貴一郎が上手く階段を上りきるのを見守りながら、私は後に続いた。
「今日さ~、伊坂先生にも会ったぞ」
背広がシワにならないように、貴一郎の躰から素早く脱がすと「そう」と相槌を打ちながらクローゼットの扉を開けた。
「バスケ部に木本っているだろ?クラブチームから声が掛かってる凄い奴なんだけどさ」
靴下を脱ぎながら話をする貴一郎の言葉に、私の手が一瞬止まった。
貴一郎の口から柾の名前を聞くとは思っていなかったからか、私の心は何だか落ち着かなかった。
「…そうなんだ。その木本くんがどうしたの?」
「クラブチームからの誘い、ダメになるかも知れないってさ。故障したらしいぞ。大会も近いのにな…可哀相に」
貴一郎の言葉に私は動揺したのか、手に握っていたハンガーを床に落としてしまった――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます