第18話 強さ 2
私は洗面所でいつもより丹念に顔を洗った。溢れ出る涙を鏡に映したくなくて、涙が途切れるまで冷たい水で顔を洗い続けた。冷たい水は眠っていた強さを引き出してくれるかのように、徐々に私の中で覚醒していくようだった。
「…私は教師に戻りたいの。…私が私でいられる場所を絶対に見つけるから」
顔を洗ってサッパリした私の口から、思わず零れた言葉だった。私がこの大野家に入って初めて口にする思いだった。
「茜さーん!いつまで顔洗ってるの?ちょっと手伝ってちょうだい!」
長い廊下を伝って義母の金切り声がドア越しにまで聞こえてくる。
今まで家の中の雰囲気を壊さないように義母の言葉にも我慢してきたが、今は自分に目標があると思うだけで、いつものうんざりするような金切り声が何だか気にならなかった。
「はーい!お義母さん!すぐに行きます」
私は洗面所を出ながら、義母に聞こえるように返事をする。
それは苦虫を噛み砕いたような返事ではなく、何だか爽やかな声だった。
ポッカリ空いたココロの穴を埋められるのは自分しかいない…
この家の中に居ては、穴は広がるばかりだと今なら分かる。
夫だからといって貴一郎を頼り、守って貰おうなんて淡い期待を抱くのも止めよう。
ぎこちない足を引きずりながらも、一歩、足を踏み出す度に心に強く言い聞かせる。
その為に私は我慢する…
私を守る為に義母の言葉も貴一郎の態度も我慢して受け入れよう…と。
ようやく辿り着いたリビングの食卓には、もう義母のこしらえた朝食がテーブル狭しと並んでいた。新聞を読み終えた貴一郎は、美味しそうに義母の作った卵焼きを口に頬張っているところだった。
「母さんの卵焼きは最高だね。このダシの効き具合がいいんだよね」
「…でしょう?お父さんもよくそう言ってくれたわ。あ、今日は卵焼きを差し入れに持って行ってみようかしら?最近、食欲がないみたいなの…」
「いいんじゃない?父さん、喜ぶんじゃないかな」
さっきまでは雰囲気の悪かった食卓の雰囲気も、貴一郎の一言でこんなにも変わるのかと私は第三者のような目で眺めていた。私がこの場に入ることで、またこの雰囲気が壊れるのかと思うと、思わず躊躇してしまう。
でも、ここで怯(ひる)んでしまっては、さっきの誓いも音をたてて崩れてしまいそうだったから、私は敢えて何も言わずリビングに足を踏み入れた。
「ねぇ、茜さん」
テーブルに着こうとする私に、義母が怪訝そうな顔で声を掛けてきた。私は義母が何を言い出すのか検討もつかないまま「はい」とだけ返事をする。
「昨日の伊坂くんの話だけど…仕事、始めようと思ってるの?」
いずれ、きちんと伊坂からの教職復帰の話はしなくてはならないと思っていたが、義母から話を切り出してくるとは予想外のことだった。思わず返事に戸惑ったが、直ぐに気持ちを落ち着かせ私は力強く「はい」と答えた。
私の短い返事に込められた思いに義母は気付いたのか、やはりいい顔はしなかった。
貴一郎は何も言わずに黙々と食事を進めるだけだった。
「仕事と家事の両立なんて出来るのかしら?ましてや、今から子供だって生んでもらわなくちゃならないのに…この大野家の跡取りはあなたにかかってるのよ。仕事することを考える前に産婦人科に行って、ちゃんと子供を産める体なのか調べてきた方がいいんじゃないの?」
義母の言葉で私の頭の中は真っ白になった…
どう、返事をしていいのか、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
「それは言い過ぎだよ、母さん」
貴一郎の気遣いの言葉も今は虚しく私の耳を通り過ぎていった――
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