第2話 彼との出会い
伊坂の呼ぶ声で「木本」と呼ばれていた男性が、職員室のドアを開けて入ってくるのが分かった。伊坂が呼んだ名前に覚えのある私は、背中を向けたまま息を呑んだ。
背中の辺りに浴びせられる視線を痛いほど感じる…
そう…やはり間違いない。
この視線は木本柾(まさき)のものだと、自分の背中越しに確信する。
「明日から体育の臨時講師として来て下さる木本柾先生です。木本先生には男子バスケ部のコーチもお願いしています。顧問は…大野先生!」
いつも以上に声を張る伊坂が、今日は何だか少し恨めしく思える。
そんなに私の名前を強調しなくてもいいのに…そう心の中で呟きながら、私はゆっくりと伊坂の方に躰を向けた。
さっきから途切れることのない視線の先に目を向けると、私の知っている木本柾の顔が視界にハッキリと映った。
「また、後でゆっくり挨拶してくれていいから」
伊坂の声が私の耳を通り過ぎた。
私はイスから立ち上がったまま、柾の視線から逃れられずにその場に立ち尽くした。
たった一秒が何分にも感じられて、伊坂に再び名前を呼ばれるまで、私と柾の間に流れる空気は止まっているように感じた。
「大野先生、見とれるのは構わないけど木本先生に自己紹介して貰っていいかな?」
伊坂の言葉で頭の先までカッと熱くなり、私は顔を赤らめながらイスに腰掛けた。
と、同時に同僚達の笑い声が職員室中に響き渡り、私は余計に顔を上げづらくなった。
隣のイスに腰掛ける同僚が、興味津津に私の腕に自分の肘を当ててニヤニヤしている。
思わず「違うの」と声には出さないものの、同僚に分かるように唇を動かした。
「篠崎先生も木本先生が独身だからって、テンション上げなくていいからね」
同僚も自分の名前を呼ばれ、慌てふためきながらそそくさと自分の席に戻っていった。私の時以上に職員室は笑いの渦と化し、篠崎和美は顔を赤らめながら「違いますよ~」と必死で弁解していた。
柾の存在がそうさせているのか、いつもとは違う和やかな雰囲気の職員会議に、他の先生方もリラックスしているように見える。
どちらかと言うと、人の輪を好まない柾の為に伊坂が画策したのではないかと私は秘かに思っていた。
「あの…木本先生ってNBAに出られたことありますよね?」
体育科を仕切っている渡邉の発言に今度は職員室がどよめき出した。バスケットの詳しいルールは知らなくとも、「NBA」という言葉は大多数の職員に認知されているようだった。さっきとは打って変わった雰囲気に柾は相当困った顔をし始め、それに気付いた伊坂もどよめきを抑えるのに必死になっていた。
「まぁ、木本先生のことはおいおい知って頂くことにして、取り敢えず挨拶させて貰えないかな」
伊坂の言葉で多少、落ち着きを取り戻した職員室にようやく柾の声が響いた。
こういった場が苦手なのを知っている私は、柾が淡々と自己紹介する姿をドキドキしながら見つめている。彼が「よろしくお願いします」と頭を下げるまで、私の体から力は抜けず、握った手にはうっすらと汗が滲んでいた。
「じゃぁ、木本先生の席は、慣れるまで大野先生の隣の席を使って下さい」
伊坂に促され、柾は私の隣の空いたデスクに近づいてくる。早鐘を打つように胸のドキドキが最高潮に達した時、「ご無沙汰してます」と彼の方が先に挨拶してきた。
私も平常心を装いながら「元気だった?」と言葉を交わす。はにかんだ笑顔で「ええ」と答える柾の顔は、出会った頃の無邪気さを思い出させた。
再び開始された職員会議の伊坂の声が遠くなっていく…
私は柾の姿を横目で確認しながら、意識は10年前のあの日へと遡っていくのをぼんやりと感じていた――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます