視線
諒
第1話 視線
「大野センセ!おっつ~!」
「こら~!おっつ~じゃない。お疲れ様でしょ!何でもかんでも言葉を縮めればいいってもんじゃないのよ」
「はい、は~い」
右手を高々と上げてグレーのジャケットをなびかせながら自転車を漕ぐ後ろ姿は、私の視界の遥か彼方にあった。既に太陽は西に傾き、見上げた空は茜色に染まっている。
ふーっと長い溜め息を吐きながら、自分の名前と同じ茜色の空を見つめる…
「こっちの茜は綺麗だね~」
思わず呟いた言葉が妙にオバさんっぽくて、私は慌てて言葉を飲み込んだ。
35歳という年齢が「オバさん」と呼ばれることを、気にしていないようで気にしている。
少し前までは、まだまだ体力の衰えも感じたことがなかったし、肌のしみやくすみだって気にならなかった。肌を露出する服も迷わず着ていた。日焼けだって日焼け止めクリームだけで十分だと思っていた。
しかし、最近、誕生日を迎えた私は「アラフォー」の仲間入りを果たしてしまったからか、今まで気にしなかったことが気になるようになってしまったのだ。
「センセ~、バイバ~イ!」
茜色の空をぼんやりと眺める私の横を数台の自転車が通り過ぎ、次々に声を掛けられて我に返った。「バイバイって…さようならでしょ」そう心で思ったことを口に出そうとした私は、思わず小煩いオバさんになりつつあるのを意識してしまい、「さよなら」の言葉しか表には出てこなかった。
そんな心の葛藤をしていた私の背中に「大野先生」という声が掛けられ、私は声の聴こえる方へと振り向いた。職員室の窓から手を振る同僚の顔が見える。
今日は定例の職員会議だったことを思い出して、私は慌てて職員室へと戻ったのだった。
この私立成宮高等学校に赴任してきたのは、もう10年を遡(さかのぼ)る。
以前は県立高等学校で国語の教師として働いていたのだが、結婚を機に退職せざるを得なくなった。
夫である大野貴一郎も英語の教師をしていて、以前勤めていた高校では同僚だった。
同じ職場での結婚が特に問題だった訳ではない。夫の母親が私を専業主婦にさせたかったようで、結婚の許しを乞うための条件に入れられていたのだ。
「それでは職員会議を始めます」
ドアを開けたところで、司会進行役の教頭先生の声が耳に入ってきた。私は音をたてないように静かにドアを閉め、自分のデスクにコソコソと戻った。チラリと教頭先生の姿を横目で確認するとゴホンと一つ咳払いをされてしまった。
私は肩を竦(すく)めながら小さく頭を下げると、素早くイスに座った。
この教頭である伊坂が私が高校の時の担任でもあった。私が教師を志したのも、伊坂の存在が少なからず影響している。結婚後、教壇を下りた私に再び教師を続ける場所を提供してくれたのも、この伊坂だった。
普通なら反対するであろう義母も、義父の可愛い教え子だった伊坂の頼みを断る訳にはいかず、私が教師に戻ることを了承せざるを得なかったようだ。
「今日は職員会議の前に、新しい講師の先生が決まりましたので紹介したいと思います」
先日、体育の講師をしていた先生が就職先が決まったとのことで急に辞めたばかりだった。
しかも、私が顧問をしている男子バスケットボール部のコーチでもあった為、ここ一週間はまともに練習も出来ていない状況だった。
伊坂の顔を見るたびに、早く後任を探して貰えるようにお願いしていたのだが、予想以上に早く後任が決まったことに私は安堵の溜め息を漏らした。
「おい、木本。中に入って」
しかし、伊坂の言葉で私の躰は一瞬凍りついたように動けなくなった。
動けない私の背中に視線を感じた…
それはもう、10年も前から感じている視線…
間違うはずはない彼の熱い視線だった――
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