第33話 二匹の獣
美田園先生のアパートにスマホを忘れてしまった。
せっかく今日は早めに作業が終わってアシスタントは全員帰されたのに、またここに戻って来るなんて。
時間帯は夜。
先生も疲れているだろうから、そっと合鍵で扉を開けて中に入ると驚く。
「あれ?」
靴箱に葉山の靴があった。
先生の靴があるのは分かるけど、葉山の靴まであるのはおかしい。
もしかして、原稿の手直しでもしているのだろうか。
だとしたら、俺に連絡が入ってこないのはおかしい。
「…………?」
不審に思いながらも、なるべく足音を立てずに進んでいく。
家の中は真っ暗だ。
二人はもう寝ているかも知れない。
葉山だけ、俺だけが仕事場に残って作業をすること自体は普通だ。
今まで何度だってある。
そういえば、葉山の家に今日遊びに行こうとしたら、断られたな。
もしかして、予定が前から入っていたんだろうか?
――私、ペンネームどうしようか迷っているんですよ? どうすればいいと思います?
――名前とかから取ればいいんじゃない? 美田園先生なんて本名そのまま使っているし……。
――そうですね……。葉山真麻、はやままあさ、はまあさ、はざま、ハザマ、うーん。こういうのにしましょうか!! うん、ありがとうございます!! ペンネームも思いつきそうなので、天音さんのお陰で今日は原稿頑張れそうです!!
と張り切っていたのに。
まだ仕事が残っていたのなら、美田園先生にも最近俺が描き上げた原稿の感想も欲しかったところだ。
――そういえば、次の原稿なんだけど、これどうかな?
それから俺は編集に出そうとした原稿を葉山に見せてみた。
編集に直接出すのが怖かったので、意見が欲しかったのだ。
だが、葉山は読みながらも怪訝な顔をしていた。
――異世界もの、ですか?
――ラノベでは定番だけど、今後漫画原作でも増えると思っているんだ。でも、異世界転生ものはラノベで書き尽くされているから、漫画原作はその逆を描こうと思っている。
――その逆って、異世界転生じゃなくて、異世界人がこちらの世界に転移してくる話ですか?
――そうそう。
――天音さん、そういう設定得意ですもんね……。
――まあ、ね……。
美田園先生にもそういう所は褒められたりするけど、プロにはなれていないのでそれ以外がダメなんだろうな。
自分には何が足りないのかすら分からない。
そもそもこの原稿を出しても、俺はプロになれないんだと心のどこかでは分かっていた。
――うん、面白いと思います!!
――ありがとう、葉山。
隅々まで読んでもらって好意的な感想を貰って自信が少しだけついた。
でも、そうなるのが分かっていたから、俺は葉山に一番最初に見せたのだ。
俺の彼女である葉山は、俺の作品をつまらないとハッキリと言える訳がない。
空気が読めるような人間ではないが、そのぐらいの配慮はできる子なのだ。
「――あっ」
小さな声が聴こえる。
まずいな。
物音で起こしてしまったのかも知れない。
「あっ、あっ、あっ、あっ」
魘されているのか、葉山の声が断続的に聴こえる。
でも、この声。
何かがおかしい。
まるで風邪でもひいているかのように上擦っている。
何となく嫌な予感がした。
自分がどこに立っているか分からない浮遊感に突如襲われる。
乗り物酔いをした時みたいに気分が悪い。
ゆっくりと扉を開けると、そこには二匹の獣がいた。
毛がびっしりと生えた三段腹がリズミカルに動き、その動作と連動して股を開いた獣が歓喜の声を上げていた。
そんな声を俺は聴いたことがなかったし、妖艶な表情も観たことがなかった。
基本的には無表情でいた彼女は、ずっと俺の前では我慢していたのかも知れない。
「キャアアアアアアアアアアッ!!」
彼女の悲鳴と共に、覆い被さっていた獣がいつの間にかそこらに転がっていた。
拳が痛い。
もしかしたら人生で初めて他人を殴ってしまったかもしれない。
プチン、と何かが切れた音がしたと思ったら、いつの間にか手が出てしまったらしい。
だが、自分から殴りにいった記憶などどこにもない。
「やめてえええええええええっ!!」
再び殴ろうとしたら、葉山が庇うようにして両手を広げる。
俺を止めようとしている?
何故?
俺がまるで悪者のようだった。
何故?
何が起こっているんだろう。
「違う、違うのっ!! この人は美田園先生なのっ!!」
そんなこと見れば分かる。
分かっているから怒っているのだ。
俺はずっと尊敬していた。
確かに他人の仕事を自分の物にするような人で、俺が出したアイディアも、編集には僕が考えたアイディアですと平然と言ってのけるような人ではある。
だけど、毎日努力して原稿を描いているのを俺は知っている。
命を賭けているのは、傍から見た俺でも分かる。
人生の成功者であり、こんな俺のことを拾ってくれた。
アシスタントとして育ててくれた恩もある。
でも、こんな裏切り方ってあるのか。
「クソッ。仕事ができなくなったらどうすんだ!! 腕に怪我して今週原稿描けなかったら慰謝料払ってもらうからな!!」
美田園先生は謝るどころか、こちらに非があるとして開き直っている。
そして葉山はそんな美田園先生を観ても、何も言いだそうとしない。
いつもの葉山だったら遠回しにでも美田園先生言い過ぎだと窘めるはずだ。
それがない。
「なんだ、これ……?」
一瞬、頭に過ったのだ。
もしかしたら、無理やりだったんじゃないかって。
美田園先生が強引に葉山のことを襲ったんじゃないかって勝手に思っていた。
でも、違うみたいだ。
そもそも、俺は本当に葉山の彼氏だったんだろうか。
この親密な感じだと、昨日、今日の関係でもなさそうだ。
浮気とかじゃなくて、俺の方が浮気だったんじゃないのか?
葉山の本命は美田園先生であり、俺の方が火遊びだったんじゃないだろうか。
「お前みたいな才能のない奴が、俺みたいな才能のある奴の邪魔をするな!!」
その言葉は人間じゃない。
だけど、漫画界では当然のことだった。
新人作家みたいな奴は、編集には頭が上がらない。
だけどベテランともなると、編集が作家に頭を下げるのだ。
かなり気を遣っていて、移動手段にタクシーを手配するのだって編集の仕事だったりして、最早マネージャーみたいなものになっている。
明らかにネームが駄作だったとしても、作家の命令には逆らえないのでそのまま通す編集だっている。
だからこそ、今の人でなしな言葉も正義なのだ。
売れた者こそ、絶対の正義で、彼の言う事は最早神の言葉だ。
「すいません……」
俺は背を向けて逃げ出した。
そんな俺のことを、二人とも止めなかった。
誰が悪かったんだろう。
美田園先生はどこまで知っていたんだろうか。
俺と葉山の関係を知っていたんだろうか。
少なくとも俺は、美田園先生と葉山の関係は知らなかった。
察することもできなかった。
他人のことはよく見ている人間だと思っていたけど、全然見れていなかった。
それとも葉山が俺達二人のことを騙していたんだろうか。
美田園先生は何も知らなくて、俺がいきなり殴りかかってきた悪党にしか見えなかったんだろうか。
何も分からないし、もう知りたくもない。
「あああああああああああああああっ!!」
夜道で叫ぶと、どこからかうるさいぞ、と非難の声が上がる。
だけど叫ばなければ、自分が保てなかった。
自分?
自分ってなんだ?
学生の時は身分があったから良かった。
中学生、高校生と。
何かしらの身分があった。
でも、社会人になってからは自分はいったい誰なのか分からなくなった。
漫画家を目指したけど、結局俺は漫画家にはなれなかった。
そして、今やもう俺は無職だ。
もう、何者でもない。
あの現場にはもう戻れないし、漫画家にはもうなれない。
夢から覚める時だ。
俺はプレイヤーになれなかった。
主人公になれる器じゃなかったのだ。
誰かに使われることしかできない、ただのしがない道具だった。
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