最終羽 「シロ」

 ルナはハンドスピナーを回しながら、静かで平穏な森の中にある湖のほとりを一人歩いていた。水はどこまでも透明で、底まではっきりと見える。だが、生き物の姿はなかった。魚一匹いない。そのときだった。湖の中央に突然巨大な穴が空いた。そして中から、巨大な何かが出てきた。それは一言で言うなら、巨大なクロワッサンだった。


「なにあれ……」


 ルナはそのあまりの巨大さに呆然としていた。するとそのクロワッサンはルナを見ると、こちらに向かってきた。


「えっ……?」


 クロワッサンはどんどん近づいてくる。やがてルナの目はクロワッサンで覆いつくされる。


「うわあああ!」


 ルナは必死に逃げようとする。しかし足がすくんで動かない。クロワッサンはついにルナの真上に来た。


「ルナ……僕だよ……」


 クロワッサンはルナに話しかけてきた。どうやらこの声の主はあのクロワッサンらしい。口らしきものは見当たらず、どこから声を発しているのかは不明だった。


「あ、あなた誰なの!?」

「僕は…………三月ウサギだった者だ……」

「三月ウサギ? ……あの、三月ウサギ?」

「そうだよ……。君を操り人形にしていた、あの三月ウサギだよ……」


 ルナは覚えていた。三月ウサギはかつて、自分を操り人形のように扱っていたウサギである。そして自分との戦いの末、消滅した。そんな彼女がなぜ今ここにいるのか。ルナには確信があった。


「アリスはやっぱり、あなたのことも救いたいと思っていたんだよ」

「じゃあなんで僕をこんな姿にしたんだ!? クロワッサンにするなんて、酷すぎるじゃないか!!」


 三月ウサギだったクロワッサンは怒りを込めた声で言った。


「確かに、これは酷いね」

「安っぽい同情をするなあああああああああああああああああ! 僕の苦しみはお前にはわからない! だってお前は! 何も変わっていないじゃないか! お前に何が分かるっていうんだあああ!」

「わかるよ。あたしだって変わっていないわけじゃないから。人形じゃなくて、血が通った人間になってるもの。それに、あなたのことはよく知ってる。あなたはずっと苦しんでいた。自分が嫌いだった。でも、それを乗り越えて変わろうとしたんじゃなかったの?」

「うるさい! 黙れ! お前はいいじゃないか! 人形が人間になれたんだから! 僕はパンじゃないか! なのに湖で生活させられてるんだぞ!?」


 クロワッサンはそう叫んだ。激しい怒りの感情が伝わってくる。そしてそのまま言葉を続ける。


「能力も失って僕はもう元に戻れない! こんな醜い姿で生きていくなら死んだ方がマシだああああ!」

「それは違うよ」


 ルナはきっぱりと否定した。そしてこう続ける。


「あなたはまだ生きている。そしてこれからも生きることができる。だからまだ希望を捨てちゃダメだよ」

「何を根拠にそんなことが言えるんだ! お前は僕を知らないだろう!?」

「知ってるよ。だってあたしは、あなたの操り人形だったんだもの。どんなときもあなたと意識が繋がってたから」


 ルナはクロワッサンに近づき、そして抱きしめた。その身体からは生命の温かさを感じた。そして言う。


「大丈夫。あたしがついているから」


 するとクロワッサンの目から涙のようなものが流れ始めた。それは目がないはずの彼女の頬を流れる。さらにルナは続けた。


「それに約束したでしょ? あたしだけは、あなたを覚えてるって」

「ルナ……ありがとう……」


 クロワッサンは静かに泣きながら呟いた。すると湖に浸かっていても決して濡れることのなかったクロワッサンの身体がふやけ、ゆっくりと破れていった。するとその中から、髪も瞳も真っ白な少女が姿を現した。その姿はどこか神秘的で、幻想的な雰囲気を感じさせた。


「僕は……一体……?」


 ルナはその少女の声を聞いて、彼女が三月ウサギであることを悟った。彼女もまた、人間になったのだ。三月ウサギは自分の手を見たり、自分の顔を触ったりして確かめているようだった。そして再びルナの方を向いて言う。


「まさか僕も……人間に……?」

「そうみたいね。きっとアリスは、あなたとあたしがいつかこうやって出会って、こうなることを信じていたんじゃないかな?」

「そうなのか……? でも……僕には実感がわかないよ……。だって僕は、彼女に酷いことをしてしまったから……。許されてはいけないんだ……。僕はどうすれば……」


 三月ウサギは俯いて涙を流し、震えているように見えた。おそらく三月ウサギの心の中には深い罪悪感が残っているのだろう。だがそれを拭うことなどできない。なぜなら、彼女に残っている記憶は決して消えないからだ。


 ルナはそんな彼女を見て、何か言わなければ、と思った。そのとき、頭の中にアリスがよく言っていた台詞が浮かんだ。ルナはそれを自分なりに再構築して声に出した。


「あたしはルナ。あなたは誰?」

「僕は……三月ウサギ……だった者だ……」


 三月ウサギはルナの言葉に戸惑いながらもそう答えた。


「なら、今は誰?」

「えっ?」

「今のあなたはもう、三月ウサギじゃない。だから、今のあなたの名前は?」

「名前……そんなもの……僕には……」


 ルナは三月ウサギの目をじっと見つめた。三月ウサギの澄んだ空のような色の目は揺れているように見える。そしてしばらくの沈黙の後、三月ウサギは小さな声で言った。


「もし良ければ……君が……名付けて欲しい……。そんなこと頼める筋合いは僕には無いと思うけど……」

「わかった」


 ルナは考える。この子にぴったりの名前を考えようと必死に頭を働かせる。そして少し経って、思い付いた。


「あなたの名前はね……。『シロ』っていうのはどうかな?」

「シロ……それが、僕の新しい名前……シロ……」


 三月ウサギ改めシロは、その名前を噛みしめるように何度も繰り返した。その様子を見てルナが続けて言う。


「そう。今のあなたは真っ白。だけど今日から、少しずつ色を付けていくの。いろんなことを経験してね。そして最後には、あなたの望むような素敵な自分に成長してほしい。そんな願いを込めて、この名前にしたんだけど……」

「ありがとう、ルナ……。とても気に入ったよ」


 シロは笑顔でそう言った。その表情はまるで無邪気で子供のように純粋で、見ているこちらまでつられて笑ってしまいそうになるくらいだった。


「よかった。気にいってもらえて」


 ルナは思う。自分は三月ウサギ――シロをアリスが望んだ結末へと導くことができただろうかと。しかし、ルナには確信があった。きっと大丈夫だと。なぜなら彼女は、もう一人ではないから。


「それじゃあ行こう。シロ」


 ルナはシロに、手を差し伸べた。


「ああ……そうだね。ルナ」


 シロはルナの手を取った。目的地は分からない。でも、きっと辿り着けるはずだ。そう信じながら、あてもなくただひたすら前に向かって、二人は並んで歩き始める。

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ウブなウサギのウサウサ子 夜々予肆 @NMW

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