Fourth Wonderland

42羽目 「どうしてあなたを食べる必要があるの……?」


 視界が開けてきたので、咄嗟に周囲を確認してみると、今まで見たこともない、灰色で細長い建物が所狭しと建ち並んでいた。


「今度はどこなの?」


 わたしは無意識のうちにそう呟いていた。その時、誰かに肩を叩かれた。振り返ると背の高い女の人が立っていた。スーツを着た美人なお姉さんといった感じだった。


「ここは危険よ。今すぐ逃げて」


 いきなり何を言ってるのか意味がわからなかったけど、わたしが戸惑っている間にも、お姉さんの後ろからも大勢の人が出てきた。


「えっ?  あの……ちょっ……」


  わたしは怖くて震えた。わたしを取り囲む人たちがどんどんと増えていくから。

 その人たちは皆一様に同じ服を着ていた。紺色の地味な上下の服に、黒いブーツと手袋を着けている。その人たちが無言のまま、ジリジリと迫ってくる様子は、すごく不気味だった。


「走って!」

「えっ!?」

「早く!」


 わたしはお姉さんに手を引かれて全力で走った。だけど、やがて息切れしてしまった。それでもなんとか必死になって走った。そしてわたしたちは人気ひとけのない路地裏に逃げ込むことができた。


「はあ……はぁ……何なの……」


 膝に手を置いて呼吸を整えていると、突然銃声が響いた。びっくりして顔を上げるとお姉さんが撃たれて倒れていた。お姉さんは苦しげに喘ぎながらも、わたしに何か言いたいみたいだった。


「……アリス……に……げて……」


 お姉さんはそう言うと力尽きたように倒れた。わたしが慌てて駆け寄ると、まだかろうじて意識があるようだった。そして力を振り絞るように言った。


「はや……く……」

 

 そう言うと、お姉さんは気絶した。慌てて抱き起こそうとしたとき、背後で複数の人の気配を感じた。


「誰!?」

「アリスだ! 本物だ!」


 わたしが振り向くと同時に叫び声が聞こえてきた。そこには何人もの大人たちが興奮した面持ちでこちらに細長い板のようなものを向けていた。


「あ……あ……」

 

 わたしは恐怖のあまり動けなくなった。すると、先頭にいた白髪のおじいさんが一歩前に出て話しかけてきた。


「君の名前は?」

「あ……アリス……」

「不思議の国のアリスの、アリス?」

「ち、違うよ!」

「じゃあ、どうしてここにいるんだい?」

「わかんないよ!」


 わたしは力を振り絞って答える。わたしを囲む人たちの顔からは血の気が引いているように見えた。まるで死人を目の前にしているかのような表情をしている。この人たちが一体誰なのかまったくわからない。


「ここはどこなの!?」

「ここはどこでもない世界だよ」

「え!?」


 思いがけない答えに動揺した。どこでもない世界って一体何なの……? すると、さっきの質問をしたおじいさんが話を続けた。


「とにかく、ここが君のいるべき世界とは違う世界であるということは確かだろうね」


 おじいさんはそう言って金色の歯を剥き出しにしてニヤッと笑ったけど、一体何を言っているのか全然わからなかった。わたしが戸惑っていると、他の人達も口々に話し出した。


「すごい! 本当にアリスがいるぞ!」

「俺はずっとこの瞬間を待ってたんだよ!」

「これこそまさに奇跡じゃないか!」


 周りの人達はまるで神様に会ったかのように盛り上がっていた。でも、わたしには何が何だかわからなかった。


「あ、あの……これは一体どういうことなんですか?」

 

 わたしは恐る恐る人達に訊いてみた。


「大丈夫! 全部私たちに任せてくれればいいんです!」

「えっ?」

「さあさあ、行きましょう」

「ちょ、ちょっと待ってください! 行くってどこに!?」


 わたしはたくさんの人たちに押されながら尋ねる。すると、一人のおばさんが振り向いて微笑みかけてきた。


「アリスが行くべき場所なんて、決まってるじゃない」

「え……?」


 わたしが言葉に詰まっているうちに大勢の人に囲まれてしまった。


「あなたは何がしたいですか? 何が見たいですか? 誰と出会いたいですか?」


 誰かにそう訊かれたけど、そう言われても何も思いつかなかった。そんなこと考えたこともなかったからだ。それに、わたしを見ている人たちの目つきはとてもおかしかった。どこか狂喜めいたものを感じさせるような目でわたしのことを見ていた。それが怖くて震えていると、後ろの方から誰かの叫び声が聞こえた。


「懐中時計を開いて!」


 わたしはハッとなって懐中時計を急いで開いた。すると周りにいる人達が時間が止まったかのようにみんな静止した。今は、わたしだけが動くことができているようだった。


「何なの……? これ……?」


 わたしは困惑しながらも周囲を観察した。するといつの間にかこの場所に立っている人はわたしだけになっていた。でもその時、遠くの方から何かが近づいてくる音が聞こえた。わたしは身構えて警戒する。やがてその姿が見えてきた。それは、カステラだった。あのお菓子の、カステラだった。どこからどう見ても、ただのカステラだった。


「アリス。ようやく会えたわね」


 カステラはわたしに向かって、そう言った。


「そうだけど……ってなんでカステラが喋ってるの?」


 わたしが驚いて尋ねると、カステラが平穏な口調でこう言った。


「あたしはカステラだけど、カステラではないの。だから喋れるの」

「えっ? それって……どういうこと?」

「あたしは、あなたをずっと見てきた」

「わたしを……?」

「そして、ここであなたを待っていたの」


 わたしは混乱して首を傾げる。カステラの話がよくわからなかった。わたしはしばらく黙り込んで考えていたけれど、やっぱりよくわからなかった。でも、これだけはわかった。


「わたしに言いたいことがあるの……?」


 わたしの言葉に、カステラは静かに「ええ」と言った。それから、意を決したようにゆっくりと話し始めた。


「お願いがあるの」

「何?」

「あなたの力で、世界を救って欲しいの。もうすぐ世界は滅びてしまうわ。でも、今からならまだ間に合うはずよ」

「佐藤先生もそう言ってたけど……どうして……そんなことがわかるの?」

「あたしと佐藤先生はずっと昔からあなたを見てきた。そして今までもずっと。あなたはどんな困難でもいつも乗り越えて来たでしょ?」

「そんなの……わかんないよ。わたしがやってきていたことなんて……」

「とにかく、世界を救うために力を貸して欲しいの」

「そんな……急に言われたって……。ねえ、世界が滅ぶって本当なの?」

「今は信じられないかもしれないけど……本当のことなの」

「一体……何が起こるっていうの……?」


 わたしは震える声で尋ねた。


「悪い魔女がいるの。とても恐ろしい奴なの。そいつのせいで、全てがおかしくなったの。あいつさえいなければ……こんなことにはならなかったの!」

「魔女……?」

「この世界の秩序を守る存在。でも今はとても危険な状態なの。このままだと……全てが崩れ去ってしまう」

「それで、その……なんでわたしが助ける必要があるの?」

「あたしたちでは力不足だから。あなたにしかできないことなの!」

「そんなこと言われても……そもそもその魔女って、名前はなんていうの?」


 それは……カステラは一呼吸置いて答えた。


「三月ウサギ」

「三月ウサギ……?」


 わたしは復唱してみた。


「三月ウサギなんて聞いたことがないんだけど……」

「覚えていないだけで、あなたも出会ったことがあるはずよ。その懐中時計を開いてみて」

「う、うん」


 わたしは戸惑いながらも懐中時計を開いた。すると時計の針はぐるぐると回転し続けていた。そして同時にわたしの頭の中も同時に回転を始める。何かを思い出しそうになるけれど、うまくまとまらない。


「何か思い出せたかしら?」

「だめ。何も思い出せない」


 わたしは素直に答える。カステラは少しだけ寂しげに笑った。


「そう」


 そしてすぐに真面目な表情に戻り、こう続けた。


「ならこの名前ではどうかしら――」


 カステラはわたしに、魔女――三月ウサギの、別の名前を教えてくれた。

 その名前を聞いた瞬間、わたしは何もかも全て思い出した。全てを思い出したつもりで、なんで忘れていたんだろう! わたしは確かに会っていた。三月ウサギに!


「それで、わたしはどうすればいいの?」


 わたしはカステラに訊いた。


「その懐中時計の力を駆使して、魔女を倒して」


 カステラは静かに言った。そしてさらに説明を続けた。


「彼女は時計ウサギとは違って、正真正銘、空間を操る力を持っているの。彼女の目的はこの世界を一度滅亡させて、自分の理想の世界を作ろうとしている。止めるためには、あなたの力が必要なの」

「つまり……わたしがやるべきことは……」


 わたしが呟くと、カステラは大きく息を吸ってから、はっきりと答えた。


「そう。アリスは魔女を倒すしかないの! そしてあたしを食べて!」


 カステラはそう力強く言い切った。しばらくの沈黙の後、わたしはカステラに問いかけた。


「どうしてあなたを食べる必要があるの……?」


 カステラはそれを聞いて、悲しげな声で話し始めた。


「あたしを食べることで、あなたは真の力に目覚めるの。そして、魔女を倒す力を得られる」

「でも……わたしは戦いたくない。世界を救うためだとしても、もう誰も殺したくないの! あなたもそう! あなたの命も、奪いたくない!」

「お願い、アリス。今は他に方法がないの! あたしを食べて!」

「もっと別の道があるはずだよ! 何かあるはずだよ! 何か!」

「お願い、あたしの言うことを聞いて!」

「嫌だよ! あなただって本当は死にたくなんかないんだよね? それなのに……! あなたが犠牲になるなんて間違ってる! わたしには絶対にできない!」

「大丈夫。あたしはあなたに食べられてこその存在だもの。だって、カステラよ? 食べられないでいて、何だというの? それにあなたも見たでしょう? あんな悲劇を繰り返さないためにも……誰かがやらなくちゃいけないの。今度こそ……」

「それでも……わたしは!」

「わかっているわ。だからこそ、アリス……あなたの力を信じるしかないの! あなたならきっと、やれる! あなたならできるわ。信じている」

「やめてよ……そんなこと言われたって……」


 わたしは頭を抱えてうずくまる。わたしには何もできるわけないのに……。


「アリス……これは、あなたしかできないことなのよ」


 カステラが優しく語りかけるように話しかけてきた。


「あなたは今まで、たくさんの冒険を経験してきた。それはあなたにしかできないことだった。あなたはどんな理不尽な目にあっても諦めなかった。時には挫けそうになったこともあったけれど、その度に立ち直ってきた。だから今回も同じこと。ただあなたがいつも通り、正しいと思うことをしてくれればいいの」

「……わたし、やっぱりできない! わたしは……人を殺したりなんてできない!」

わたしは叫んだ。その瞬間、わたしの口に何かが入った。それはカステラだった。カステラはわたしの口が開いた瞬間を狙って、身体を突っ込んできたのだ。


「アリス……お願い……食べて……! 食べて……!」


 わたしは抵抗した。必死にカステラを吐き出そうとしたけど、カステラはなかなか離れようとしなかった。


「お願い……」

「……わかった」


 わたしはカステラの願いを受け入れることにした。そして歯を食いしばり、カステラを噛み砕く。


「アリス……ありがとう」


 カステラはわたしの口の中で、消え入りそうな声でそう言った。


「こうすることが一番いい選択なんだから」


 カステラはそう言ってわたしの喉をすり抜け、そのままお腹の中へ入っていった。するとその瞬間、全身に溢れるような力を感じた。


「えっ!?」


 わたしは驚きの声を上げた。


 カステラを食べた直後、わたしは一瞬にして服が変わったことに気がついた。フリルのついた可愛らしい白いドレス。背中からは純白の大きな翼。そして右手にはステッキを持っていた。これがわたしの真の姿……なの……?


 わたしは自分の姿を確認する。


「まるで……絵本に出てくる魔法少女みたい……」

 

 変身した自分を見て、思わず呟いてしまった。


 わたしが呆然としていると、どこからか声をかけられた。


「その通りよ。それがアリス。あなたの本当の力よ。さあ、願って。世界を救いたいと」


 わたしはその声に従って、願った。世界を救う。そのために、三月ウサギの元へ――。


 そう思った刹那、わたしは眩い光に包まれた。光が消えると、わたしはお城の中の野球場の前に立っていただった。わたしはすぐにグラウンドに向かって走り出す。全力で走り続けたけど、息が切れることは全く無かった。むしろ走っているうちにどんどん速くなっていく感じさえする。わたしは急いでグラウンドに入った。グラウンドには、たくさんの人が血を流して倒れていた。


 ただ一人を、除いて。

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