瓦解する出雲
健と乙姫は、稲穂が実る田畑の中心に立っていた。
平地を覆い囲むように屹立する小高い丘の頂上には、薄雲が幾重にもまとわりついている。健には母方の実家でもあり外祖父が暮らしていた家で見慣れていた、まさに『八雲立つ』出雲の光景であった。
「ここが出雲の首都なのね。そんで、南方くんっていうか、タケミナカタのお兄さんのコトシロヌシって神様が居るんだ?」
乙姫は全身を撫でる海風に髪を手櫛で流したり、時折吹き付ける強風にスカートを押さえながら健に問い掛ける。
「いや、普段は
「ふーん、お父さんが行方不明で、ヤマトと睨み合って、政権運営が大変な時に釣りなんて優雅じゃないのよ」
「それはそれで、釣り好きの人には考えがあるみたいだよ。僕の兄さんも釣りが趣味だけど、考え事をするにはちょうどいい時間つぶしらしいよ」
それを聞いた乙姫は先程の発言はどこに行ったのか、健の義兄で世話になっている雑貨屋の店主、進のことを思い出して一気に考えを翻した。
「そうかもね。やっぱ釣りを趣味にしてる人って、どっか思慮深い感じするもん」
あからさまな義兄への忖度に健もやや腐りながら、腰まで伸びる草を漕ぐと集落でひときわ大きな屋敷へと向かった。
「あのぉ、こんにちは~。僕ですけど」
第二王子の凱旋だと言うのに情けない声を上げる健に、乙姫は嘆息しながらもその後を黙ってついて歩く。まだ自己紹介されていない自分は出雲ではよそ者、そういう分別や常識は彼女にもある。
王子の姿を発見した家臣は深々と会釈をすると祭祀を行う奥の間へと駆けていく。
するとコトシロヌシが屋敷の入口にやってきた。
彼はすぐに健の隣に居る、同じような異国の服に身を包んだ少女に視線を向ける。
「おぉ、タケミナカタよ、久しいな。となりの女性はどなただ?」
「弥栄……あっいや。ほら、僕のお妃になった科野のヤサカトメさんだよ」
健の言葉を受けた乙姫はその芝居を引き継ぎ、深々と会釈をする。
「ヤサカトメです。よろしくお願いします」
噂の兄、コトシロヌシはこの時代の男性にしては背も高く髭も丁寧に剃ってあり、軍事より祭祀専門を自称している彼の様子はとても柔和で、健の義兄、進と雰囲気も似ている。
恋多き娘、乙姫は早くも若干の緊張とわずかな胸の高鳴りを感じていた。
「そうか、科野の姫君か。それはよく参られた。それにしても急にどうした? まさか嫁を迎えたから俺にのろけに出雲まで
「もちろん。兄さんに大切な相談があるんだけど」
健の発言にしばし黙って笑みを浮かべていたコトシロヌシだったが、掌を屋敷の奥へと差し向ける。
「まぁ、ゆるりとしていけ。どうぞ奥方もこちらに」
茶を用意された健と乙姫は、コトシロヌシと向き合うように腰を下ろした。
人払いをしたコトシロヌシは早々に足を崩すと、茶を飲む。
「ヤマトの動きもさることながら、出雲の中も意見が割れていて頭を抱えることばかりだ。最近は釣りをする時間も無くて辟易するな」
苦笑しながら椀を傾けるコトシロヌシであったが、健は彼の発言を聞いてその一挙手一投足をじっと見ていた。
スセリを焚きつけてヤマトの間者を屠ったり、長門の湾を封鎖させたのは自分の提案。そのせいでさらに両国の間に緊張が高まったのは明らかだ。
それが『兄』からの当て擦りに聞こえた健は、彼も黙って茶を飲むしかなかった。
「お前が科野を平定したり、墨江の港で
「いや、まぁその。ぜんぶ兄さんのおかげで自由にやれてるから、っていうか……」
苦笑しながらも健は隣に座る乙姫に視線を向ける。
これからどう話を進めていけばよいか、内心困惑していた。
しかし今は自分が出張る番ではない――そう理解している乙姫は、黙って健の膝を小突いた。
それを見止めたコトシロヌシは小さく笑いながら、また茶を飲む。
「そう言えばタケミナカタ。科野平定では
そこでコトシロヌシの言葉を遮るように乙姫が声を上げる。
「あのー、すいません。ちょっとお茶を飲み過ぎて席を外したいんですけど……」
健が驚いて乙姫と茶を交互に見ると、まだ差し出された椀の半分も飲んでいない。
それでも彼女は小さくうなずいて視線を健に向ける。
自分は席を外すから『兄弟』だけで大事な話をしろ、との合図だったのだが、肝心の健はいまいち理解していなかった。
「女中に
コトシロヌシは大きく二度、手を叩く。
やがて健たちが居る部屋に女中がやってくると、乙姫はトイレへと案内された。
乙姫と女中が居なくなったところで、コトシロヌシは改めて茶を飲んだ。
「それで、タケミナカタよ。改めてここに来たという事は、俺のまつりごとの手伝いをしてくれるのだよな? お前とヌナカワ母殿、スセリ母殿の動きによってヤマトとの戦はさらに近づいた。お前はどう考えているんだ?」
途端に眉を寄せると、不機嫌そうに椀を置いて凄むコトシロヌシに、健も肩をすぼめて弱々しく呟く。
「どうもこうも、僕はヤマトに勝つために必死で考えたつもりなんだけど……」
それでもコトシロヌシの語気は収まらない。
「長門の湾を封鎖して、ヤマトの船を全て検閲した。その結果、ヤマトだけではなく出雲と伊豫や淡道の島を繋ぐ交易の船も全て途絶えた。内海に加え浪速や墨江の湾の反発も大きくなっている。出雲には明らかに不利益となったぞ」
「だって、クニの中に間者が居るのに、黙って見過ごせないでしょ?」
「だとしたら、お前はどうやってヤマトの間者が出雲に居ると知ったのだ?」
健は神話の記述に従って動いただけだが、さも当然のように出雲に間者が潜伏していると知っていて放言したようになってしまい、コトシロヌシの質問を受けて初めて我に返った彼は返答に困惑した。
咄嗟の嘘として、コトシロヌシと出会った頃、ヌナカワと共に出雲に
「それは、えっと……火を起こしたりしたのとおんなじように、巫術で……」
健は語尾を濁して顔を下げながらも、上目遣いにコトシロヌシに告げる。
その言葉を受けて彼は健に小さくうなずいた。
「なるほどな……だが、せめて俺に相談して欲しかったもんだ」
「ヌナカワ姫とかスセリ姫と相談して決めたんだけど……すいません」
場を取り繕おうと健が頭を下げると、コトシロヌシは両腕を肩の位置まで上げた。
そして、まるで竿を握り水面に集中するかのような芝居を始めた。
「
健は苦笑を浮かべながら、何度もうなずいた。
全然わかりません――釣りをしない彼は、そんなことを言える訳もない。
同じ釣り好きという意味では未来の義兄、進とは異なり、どうにもこの出雲の釣り人は掴みどころがなく、健も会話に苦慮していた。
飄々としているようでそれは無気力にも感じるし、釣果が得られないとすぐに腐るあたりは、武勲に逸る軍人のようでもある。そのくせにヤマトとの戦が間近であるという割には、一向に焦る様子はない。
「改めて問おう。我が弟タケミナカタよ、お前は出雲をどうしたい?」
コトシロヌシにそう聞かれた健は、ヌナカワの本懐を言葉に出した。
「ヤマトとの戦になっても、出雲というクニをなんとか残す方法を考えることだね」
「うむ。それには俺も同意だ。それにはどうすべきだと思う?」
「ヤマトに戦を諦めさせるしかないんじゃないかな?」
「相手は強大だ。出雲と何年も睨み合っている。その狙いがお前にはあるのか?」
「とりあえず熊襲と協定を結ぼうと思ってるんだ」
コトシロヌシは驚いたと言わんばかりに大きく目を見開くと、健の顔を覗き見る。
まるで穴が開くかのように凝視されると、健もつい視線を逸らしてしまうが、相手は出雲の兄である。まずは理解してもらい納得させるために、再び顔を上げると敢えてコトシロヌシの視線を正面から受けた。
「熊襲は独自のまつりごとを貫く一匹狼。加えて筑紫の南を統治しており、ヤマトですら簡単には手を出せない強国だ。協定など上手くいく算段でもあるのか?」
「上手くいくかどうか、行ってみないとわからないから、試してみる価値はあるかなって」
「それはかえってヤマトと熊襲、両方を刺激する顛末にならんか? 熊襲は現状であれば敢えて外に攻め出るということはしないであろう。結果として筑紫島全体が一枚岩になったら、この豊秋津島はひとたまりもない」
「うーん、熊襲がヤマトに負けるか、ヤマトが滅びて熊襲が筑紫島全体を統治すればその可能性はあるんだけど……今の見立てでは分裂状態だからね。向こうもお互いに手を組もうって話はまだ出ない気がする」
当然ながら健だけが知る未来の歴史書、すなわち記紀神話には出雲平定の後にヤマトタケルによって滅びる熊襲、という記載がある。
言い換えれば、熊襲は出雲よりも後の時代まで残る。
そこにチャンスがあるのではないか、と彼は結論づけた。
ヌナカワが言う、歴史書にない事を起こしていけば未来を変えられるのではないだろうか。今はその可能性に期待するしかなかった。
コトシロヌシは頭を掻きながら椀の茶を飲み干す。
それでもまだ困惑というか、混乱に近い状況になっているのは彼の神経質そうな動きに現れているのは、健にもよくわかった。
椀を床に置いたコトシロヌシは、身を乗り出して健に言葉を投げる。
「いいか、タケミナカタよ。俺も親父殿が大きく発展させた出雲というクニをいかに残すか、出雲の血をいかに継いでいくか、その考えはお前と同じだ。そのために各地に使者を派遣したり俺自身が赴いて交渉をすることもある。それでも熊襲は
「もちろん。でももしヤマトと熊襲、どっちと和議を結ぶかって考えたら、わざわざ島の外に攻めてこようとしているヤマトよりは話が通じると思うんだけど」
「……そうかもしれぬがなぁ」
コトシロヌシは改めて茶を飲もうとしたが、傾けても何も落ちてこない椀を見て、つい先程自分で飲み干したことを思い出すと、手ずから素焼きの小さな釜に入った茶を注ぐ。
「そう言えば、タケミナカタは浪速の湾で、ヤマトの武人と会ったそうだな?」
それがすぐに武具を蓄えた出雲の詰所が焼き討ちに遭った例の話だと思った健は、手を叩いてコトシロヌシの会話に乗る。
「うん。タケミカヅチさんっていうヤマトでは有名な……あっ、これから名を馳せるかもしれない武将と会ってさ。一瞬殺されるかと思ったけど。
「……いや、別の者だ」
「あの人は気をつけた方がいいよ。力比べしても勝てそうにないし、出雲にとっては最大の敵になるかもしれないよ」
「あぁ、わかっている」
まるで会話にも乗らず、途端に茶を飲むコトシロヌシの様子に、健も訝しそうにしながらも、それに続いて自分も茶をひとくち飲み干した。
一方の乙姫は、案内された川屋の中だけ確認すると、屋敷の廊下を歩いていた。
「水洗トイレ完備だなんて出雲はローマみたいでオシャレじゃないのよ。科野なんか汲み取りだったから、もうホントにそれだけがイヤで……」
川屋とは下水道専用に引いた小さな流水の上に木造の足場を組み、そこで用を足す仕組みだ。
無論、彼女はトイレに行きたくて場を外した訳では無い。ヌナカワを知る者が近くに居ないか探していたのだ。
「あのコトシロヌシって人、科野で聞いた浪速での評判はあんまり良くないのよね。<大国主>が居なくなった後はヤマトに接近してるって噂もあるくらいだから。やっぱヌナカワさんやスセリさんみたいに、出雲の未来を心配する人がいないと……」
「わたしの名を呼ぶ者は誰だ?」
突然に木戸の奥から声を掛けられた乙姫は、慌てて口を塞ぐ。
健と再会する前は古代の日本にひとりぼっち。おまけにスマートフォンの充電が自由に出来て、いつでも時間を潰す手段があった訳ではない。それゆえ独り言が多くなっていたせいだ。
すると、部屋と廊下を仕切る木戸の隙間から、か細い指が出てくる。
「そなたはどこの女中の者だ?」
「あっ、あの、科野の王サカヒコの娘のヤサカトメです。いちおうタケミナカタくんの妃なんですけど……」
室内に居た女性は、驚いた様子で廊下へと出てくる。
なにせ向かいに立つ少女は女性にしては背丈もずいぶん大きく、髪は肩にも届かず結う事もできないくらい程で、腰に巻いた短い衣は膝上までしかなく素足を晒していたからだ。
だが、その奇妙な衣装によく似た服を纏う青年を彼女は知っている。
「あなたがタケミナカタの妃となった科野の姫君ですね? なぜに出雲に?」
「ちょっと彼と一緒に出雲に用事があって……って、あなたはどこのどなたです?」
「わたしはスセリ。そなたが名を呼んだ者ですよ」
「あっ! あなたがスセリさん?」
長門の湾を封鎖して、ヤマトが放った間者を始末し、コトシロヌシの異母兄妹であるシタテルに襲われた挙句、ヤマトとの無用な緊張を煽ったとして、コトシロヌシによって蟄居させられたと聞いていたオオナムチの第二妃だ。
だが、彼女は比較的元気そうであった。
蟄居とは言っても、今も<大国主>の妃であり、なにより『国父』スサノオの血族の娘である。
無下な扱いはされないのも道理、それは乙姫にもすぐにわかった。
「そなた、ずいぶんと大きな声でひとりごちておりましたね。まるで誰かと会話をしているようでしたよ?」
まるで会話と言わんばかりの廊下での独り言をぜんぶ聞かれていたようで、乙姫も途端に顔を赤らめる。
だが、スセリはそんな彼女の手を握ると、声を抑えて乙姫にすがりつく。
まるでそれは懇願という様子だ。
「すぐにタケミナカタや高志のヌナカワ様にお伝えなさい。コトシロヌシを信用してはならぬ、と。そしてそなたも早よう科野に戻られよ」
「……えっ? コトシロヌシさんを?」
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