ロスカ・フィーカ・モーンガータ

小富 百(コトミ モモ)

短編


「ねえねえ」

声をかけられて僕は顎だけで返事する。

「ねえ、ねえったら!」

めげない声色に僕は仕方なく、

「何、何さヒュッゲ」

顔を上げると顰めっ面に張り付いた薄いグリーンの瞳とかち合った。

「どうして返事してくれないのさ」

「どうしてって」

どうしてもこうしてもない。少し憂鬱なだけ。

「僕の声が聞こえてないわけじゃないだろう。酷い奴だ、ずっと一緒に居るのに」

「そうさ。ずっと一緒に居るからだよ、僕達が」

「だから疎かにしてしまったって?」

涙が出そうだよ、あんまりじゃないか!ヒュッゲはよく泣く。ヒュッゲの肩に蝶が止まりすぐにちうちうと塩水を舐め始める。それをヒュッゲはぐわりと掴んでばくりと食べてしまった。蝶も蛾も粉っぽいから僕は苦手だ。

「美味しい!」

「そうかな」

「とても!すっごく!」

「それで?」

「え?」

口から黒い鱗粉を吹きこぼしながらヒュッゲが振り向く。

「僕に何か言いたい事があったんじゃないの?」

嗚呼。その薄青い唇を拭う。

「もう。忘れてしまったじゃないか」

君があんまりにも酷い奴だから。

「ねえ、アンデルセン」

涙跡の残る笑顔でヒュッゲは言った。




この深い森には主に僕とヒュッゲしか棲んでいない。生息、という意味では沢山の生き物が居るけれど居住、という意味では僕らだけ。言葉を話せるのも僕らだけだし、まず僕らはこの森を出たこともない。特に僕なんかは生まれてこのかた出たいとも出ようとも思ったことがない。この森の上に聳える山々の雪解け水を飲み、きのこや木の実を食べ大樹のウロの中で眠る。そんなことを何百年も続けてきた。ただ一つ言うなれば最近ヒュッゲが妙なことを言い始めた。そのくらい。

「だからね!」

ヒュッゲが眠りのお茶をぐいと飲み干して勢いよく言う。

「色んな僕らが居るんだ、色んな僕らがあっていいんだ。そう思わないかい、アンデルセン」

最初はこの森の外の話だと思っていた。僕には関係のない荒唐無稽なヒュッゲの調子づいたおとぎ話だと。けれどどうやら違うようだと気付いたのだ。

「例えばさ、あの星には赤色の僕が居て、そして魚の尾を持つアンデルセンが居るんだ。

それで、ああそうだな、じゃあ次は…ほら川の水面、鏡の中には寄り目でぶっきらぼうな僕が居て、そして髪の長いお茶を淹れるのが下手くそなアンデルセンも居るんだ」

それって素敵じゃない?

それってとっても素敵じゃない?

「ああ、そう思うよ。僕のヒュッゲ」

僕は曖昧な相打ちと共にお茶を口に含む。よく冷えていて酷く美味しい。ティーカップに二つの月がよく映っている。ヒュッゲが僕のおざなりを上手に嗅ぎ分けて眉間に皺を寄せた。

「非道い、非道いよアンデルセン。そうやってまた僕の話を鼻先で煙に巻いて。少しくらいちゃんと聞いてくれたっていいのに…」

「聞いてるよ、勿論」

「嘘だね、僕には分かる。だって君、軽々しく、僕のヒュッゲ、なんて言って…」

「軽々しくなんて、ないさ」

答える頃にはすうとヒュッゲは眠っている。だから僕はこのお茶がとても気に入っている。

明日はきっと怒られる、どうしてあんなにお茶を沢山飲ませたんだいと。勝手に飲んだのは君だろうと僕は答える。するとヒュッゲは二つのことに怒るだろう。あんなに美味しいお茶を入れるアンデルセンが悪いんだと。そして、僕のことを『君』なんて呼ばないでくれ、と。

そう思いながら僕は両翼でヒュッゲを寝床へと運んだ。きのこ達の胞子が淡く青く光っていた。木の葉で使ったティーカップは結び目を解いて小川へ流した。もし下流に生き物がいたとして、もしその生き物がこのティーカップを目にしたとしても、この川の上流になにがしかの生き物が生き永らえていることに決して気が付かぬように。




僕のヒュッゲ。

決して、無論、軽々しくなんてない。僕はこの地と、僕と、唯一無二のヒュッゲを守ることで精一杯。だから確かに、あんまりヒュッゲの話は聞きたくないのだ。ヒュッゲのあまりに壮大な、例えば広大な更地に一人ぽつんと取り残されてそれを空から大きな単眼からじいと見つめられているような話は。だからこそ悲しいかな僕らは、すれ違って顔を背けておやすみを言い合うような、そんな関係にいつの間にかなっていたのだ。

「聞いて、アンデルセン」

ヒュッゲはいつだってヒュッゲの話を僕に聞いてもらいたがった。この何百年、生まれてこの方、僕はいつだってヒュッゲの話を聞いてきた。だからこそ僕は答えた。

「聞きたくないよ、ヒュッゲ」

お願いだから、聞かせないで。

ヒュッゲは分かっていたようだった、僕の不安も不満もなにもかも。

「それでも、聞いて欲しいんだよ。

君だけに、アンデルセン」

ヒュッゲは懇願した。今夜も二つ、月が出ていた。近頃は雪解けの季節で川の水が多い。僕も流されてしまいそう、けれど僕の翼は水を弾かないからきっとすぐに僕は溺れて死んでしまう。

「ヒュッゲ、君の…君のその能力はきっととても大切なものだよ。きっと単眼からの贈り物なんだ、大事にすべきだと僕も思う」

それでも、それでもね。

「ヒュッゲ、聞いて。

僕には君のその力がとても怖いんだ」

ごめんねヒュッゲ。

君がいつか単眼の元へ行ってしまいそうで僕は酷く酷く怖いんだよ。だってその能力を授かった君をみすみすこんな森に放り出しておくはずがない、きっといつか迎えが来る、報せが来る。それを僕のこの弱い翼で、どうやってへし折れと言うの。どうやって君を守れというの。

「君が行くというのなら、どうか僕を殺して行ってくれ」

君の居なくなったこの森で、君といた何百年という記憶を持ったまま、これから先を生き続けるなんて僕にできるだろうか。

ヒュッゲが息を吸い込む、僕の羽毛が逆立つ。

「アンデルセン、僕はどこにも行かないよ。

本当だよ、だから聞いてよ、僕の話を」

ヒュッゲは話し始めた。気付くとやっぱり僕は泣いていた。僕の涙に蝶は群がってこなかった。

「君と居られて僕は心地良いんだよ、本当。けれど僕に君の言う力みたいなものがあるのは本当。どちらも、本当」

だから離れていく。離れなきゃならない月の下に生まれた、僕らは。

「でも僕らはヒュッゲとアンデルセンなんだよ、分かる?アンデルセン」

「分からない、分からないよ。どういうこと、」

ヒュッゲは大きな瞳を閉じて夜空を見上げた。ヒュッゲと同じ瞳の色の星々がぱたぱたと瞬いていた。ほら、見て。

「僕は今までいくつも色んな世界の色んな僕らを見てきたんだ。色んな景色を見た、川よりも湖よりも大きな塩の水や辺り一面を覆う青のカーテン。四つ足で立つ牙の長い唸る怪物や真っ赤に燃える灼熱の地面から湧く太陽の欠けら。どれもこれも美しかったよ、綺麗だった」

けれどね、アンデルセン。

「君と暮らすこの森と二つの月と、君のその乳白色の翼に勝るものなんて一つも無かったんだ」

ヒュッゲは目をゆっくりと開けて僕を見て、そしてにっこりと笑った。

「だから僕はどこにも行かないよ。

どこにも行けないんだよ、アンデルセン」

「本当?」

「本当だよ」

「本当の本当?」

「本当の本当さ!」

僕が嘘をつけないことくらい、君がよく分かっているだろう。それにね、

「どの世界でも僕ら、ずっと一緒に居たんだから!」

離れられないのなんて、はなから決まってるのさ。諦めよう、諦めてお話しして、お茶は飲みすぎないで、今晩は手を繋いで寝ようよ。君は翼だから僕が風切羽を持っていてあげる。

僕は泣いた。やっぱりそうか、そうなのか。羽根で涙を拭うと、ダメだよダメとヒュッゲが自身の鱗に塩水を染み込ませた。すると沢山の蝶達がやってきてちうちうヒュッゲの身体を舐めた。

「ありがとう、ヒュッゲ」

「何を!本当のことだよ」

「本当のことを言ってくれて。

ありがとう、ヒュッゲ」

僕から離れないでいてくれて。僕を見捨てないでいてくれて。

僕はヒュッゲを抱きしめた。ヒュッゲは嬉しそうに、それはそれは満足そうに僕を抱き返した。油断しきったそのうなじを僕は目の端で見やりながら、僕はまた涙が溜まっていくのを感じた。

愛してるよ、ありがとうヒュッゲ。

「僕と共にこの地に残ると言ってくれて。

…それが例え、今だけだとしても」

彼の首を僕は鉤爪で切り裂いた。ヒュッゲはすぐにヒュッゲでなくなり、ヒュッゲの形をした肉の塊になった。この何百年、同じことを繰り返してきた。毎年、毎年、今年こそは、来年こそは、と願いながらヒュッゲの首を裂いてきた。

嗚呼。

「ごめんね、ヒュッゲ」

毎年同じ時期に被るヒュッゲの血は温かかった。視界が赤く染まってゆく、二つの月が、瞬く星々がみるみるうちに見えなくなってゆく。ヒュッゲが好きだと言った僕の乳白色の翼が、赤い罪障に沈んでゆく。

もうこの辺りにはヒュッゲを埋める場所がもはや無い、森の出口寸前まで行かねばならない。けれどこうしなければならない。いくらヒュッゲがこの地が良いと言ったとて、僕が好きだと宣ったとて、迎える最期は同じなのだ。

ヒュッゲは僕を殺さない。

いいや、ヒュッゲは僕を殺せない。

そしてヒュッゲはいずれこの森を出て、

単眼の元へ、神々の元へと自らの足で赴く。

この棲家と、この僕を捨てて。

それがどうしても耐えられない、ごめんなさい、許してとは言わない、許さなくて良いから、僕はこの生温かい血をも愛しているのだから。

ヒュッゲが大好きだった。

本当だよ。

ヒュッゲはアンデルセンが大好きだった。

これも、本当。

けれどもう彼の大好きな彼を映す瞳はもう無い。もうどこにも無いのだ。僕が殺してしまったのだ。だって仕方ないだろう、仕方がないじゃないか。

「君のいないこれから先を生きていくより、

君が生きたまま僕を捨てる選択をする方が、

僕にとってはよっぽど恐ろしいんだから」

だから。

「愛してるよ、ヒュッゲ」

永遠に。









あなたがたがしあわせになりますように。

そして、あなたのことを永遠に忘れられないだれかのことは、どうか忘れてください。

『アンデルセン─ある語り手の生涯』より

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ロスカ・フィーカ・モーンガータ 小富 百(コトミ モモ) @cotomi_momo

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