第8話 花頼友子の気持ち

「おはよう」

 私がダイニングに入ると、お父さんがタブレットで新聞を読みながら私に言った。


「おはよう」

 と私も返しておく。


 お母さんはキッチンで3つのお弁当を作りながら、小さな声で「おはよう」と言ってたみたいだけど、私の耳にはほとんど聞こえなかった。


 私の名前は花頼友子はなよりゆうこ、26歳。

 東京都練馬区の住宅地にある実家暮らしのOLだ。


 両親と4つ違いの兄と私の4人家族だけど、兄は8年前に一人暮らしを始め、今は家には居ない。


 私も早く家を出たかったけど、一人暮らしが出来るほどの給料がもらえる会社には就職出来なかったから、今も実家暮らしをしている。


 両親は共働きで、父は商社の営業マンで母はIT会社に勤めている。


 私は冷蔵庫を開けて豆乳パックを取り出し、コップに入れてゴクゴクと飲んだ。


 私の朝ごはんはこれだけ。


「はい、お弁当」

 とお母さんが私にお弁当を渡してくれた。


「ありがとう」

 と私は言ってお弁当を受け取った。


 今日は8月10日の水曜日。


 明日からは会社が夏休みに入るので、今日は夏休み前の最後の出勤日だ。


「友子、明日からは会社は休みなんだろう?」

 とお父さんが私に言った。


「・・・うん。それがどうしたの?」

 と私の口調は少しキツかったかもしれない。


「いや、何でも無い」

 とお父さんは言って、またタブレットに目を落としている。


「はい」

 とお母さんはお父さんの分のお弁当をテーブルに置いた。

 そして自分の分を保温バッグに入れると、

「今日は朝から会議があるからもう出るけど、お父さんはまだ出ないの?」

 と言った。


「ああ、俺は今日は取引先に直行するからまだいい」

 とお父さんはタブレットを見たまま答えた。


 お母さんが私の方を見て「あんたは?」と言いたげな顔をしている。


「私ももう出る」

 と言って、「じゃ、行ってきます」

 とお弁当をカバンに入れて、ダイニングを出て玄関に向かった。


 お母さんも付いて来て

「じゃ、私も出るわね」

 とお父さんの方を見ずに言う。


 いつもこんな感じだ。


 ミュールを履いて玄関扉を開けると、まだ7時だというのに太陽が眩しくて、肌を焼くように熱い。


 私は西武線の駅に向かい、お母さんは東武線の駅に向かう。


 玄関前の道路で

「じゃ、気を付けてね」

 とお互いに言って別れる。


 これもいつもの事だ。


 両親の仲はあまり良くない。


 原因は父だ。


 2年前、母が出張で2日間留守にした日があった。

 その日は私が家事をして、父のお弁当を作ったりした。


 母が居ない二日目の夜、私がお風呂から上がると、父が洗面所に立っていた。


 私は「キャッ」と悲鳴を上げて浴室の扉を閉めたら、父は洗面所を出て行った。


「もう! サイアク!」

 と声に出してから、浴室の扉をそっと開けると、もう洗面所に父の姿は無かった。


 私は浴室を出てバスタオルで身体を拭いて、カゴの中に入れていた下着を身に着けてから念入りにタオルで髪の水気を取ってから、ドライヤーで髪がサラサラになるまで乾かした。


 なのにお風呂を出たばかりで、まだ汗が噴き出る。


 夏は嫌いじゃないけど、ここまで蒸し暑いのは好きじゃない。


 拭いても拭いても汗が出るし、履いたばかりの下着も汗で湿ってしまう。


 髪を乾かしてからも10分くらい洗面所で身体を何度も拭いて、私はやっとパジャマを着る。


 そうして洗面所を出ると、お父さんはリビングでテレビを見ていた。


「上がったよ」

 と私はお父さんに言って

「ああ」

 という生返事を聞きながら階段を昇って自分の部屋に入った。


 明日は土曜日だ。会社は隔週で土曜日が休みなので、明日の土曜日は会社は休みだ。

 明日の昼にはお母さんも帰って来るから、家事からも解放される。


 そんな事を考えながら、部屋でノートPCの電源を点けて、ベッドの横のサイドテーブルにPCを置く。


 有料動画サービスのページを開いて、恋愛ドラマの続きを見ようと思って動画を流して、ベッドに横になった。


 エアコンは点けているけど、温度設定は高めだ。


 節約の為というよりは、私はあまりエアコンの風が好きではないからだ。


 そうして、動画を見ながらウトウトとして、いつの間にか眠ってしまった。


 私が眠ってからそれほど時間は経っていなかったと思う。


 眠りながら何か足元に違和感を感じて、目を開けると、父が私のパジャマを脱がせて、私の太腿を広げようとしているところだった。


 私は全身の毛が逆立つ程にゾッとして、体中に鳥肌が立った。


 そして「きゃああ!」と悲鳴を上げて身体を丸め、足を延ばして父を何度も蹴った。


「うあっ!」

 と何度目かに出した足が父の顔面に当たり、父は顔を両手で押さえてベッドの向こうにうずくまった。


 私はすぐに起き上がり、椅子に掛けてたジーンズとシャツをひったくる様に掴んで部屋を飛び出した。


 はあはあと肩で息をしながら、今も足がガクガクと震えている。


 下半身はパジャマを脱がされていて、上半身もパジャマのボタンが外されている。


 私は吐き気を覚えたけど、我慢しながらジーンズを履いて、洗面所の洗濯機に入れたブラジャーを取り出してすぐに身に着け、その上から白いシャツを着た。


 父は部屋から出てこない。


 部屋の中からうめき声が聞こえる。


「うう・・・、折れてる・・・、救急車・・・」

 と呻く様に言う父を見て、私はコートハンガーに掛けてたショルダーバッグに財布とスマホを入れて部屋を飛び出し、玄関に行ってスニーカーを履いて扉の鍵を開けて外に出た。


 スマホを見ると、深夜の1時半だった。


 私はスマホで119番に連絡し、

「火事ですか?救急ですか?」

 と訊く電話の相手に

「救急です」

 と言ってから、自宅の住所を伝え、玄関の鍵を開けたまま家を出て、駅前の商店街の方へと歩いていた。


 その日はインターネトカフェで寝泊まりして翌日の昼までを過ごし、母からの電話で

「友子! 鍵も開けっぱなしでどこいったの? お父さんも電話に出ないし、何があったの?」

 という声を聞いて、涙が出て来た。


「今から帰る」

 と言って私はインターネットカフェを出て、とぼとぼと歩いて帰宅し、昨夜の事を母に話した。


 母は私の話を聞いて震えていた。


「ごめんね友子・・・ ごめんね・・・」


 と言って泣きながら私に謝っていた。


 お母さんが悪いんじゃない。悪いのはお父さんだ。


 その日の夜、病院から連絡があってお母さんが病院に迎えに行った。


 そのまま帰って来なきゃいいのに。


 そんな事を考えていた。


 だけど二人は帰って来た。


 お父さんは「酔っていて覚えていない」と言う。


 お母さんは「二度とお酒は飲まないで」と言って「今回だけよ」と言って父を許してしまった。


 離婚する訳でも無く、これまで通りの生活が、その後も続いた。


 だけど、それからの私の様子がこれまでと同じはずも無く、だんだんと家族はギクシャクとしていった。


 父は普段通りに振舞おうとしているけど、私も母も「これまで通り」には戻れなかった。


 なのに惰性だせいのまま、今もこんな生活を送っている。


 男の人が怖い。


 私はそう思うようになっていた。


 会社に行っても、みんないい人だとは思っていても、社長も山本部長も吉田さんも、やはり男である以上、そういう目で私を見ているんじゃないかと不安になった。


 だけど、会社にも一人だけ、とても安心できる男の人が居る。


 みんなに影口を言われても全然気にもしていない、とても純粋な目で一生懸命に仕事をしているおじさんが居る。


 帆地槍さんの事だけは、私は怖いという感情が湧かない。


 私を見る目もとても純粋で、時々私を目で追ってる事には気付いているけど、その目にはいやらしさなど微塵も無くて、まるで私を守ってくれている気さえする。


 不器用だし、精神障害者手帳があるというけれど、少しもそんな事は気にしていない。


 ただ美しいと思ってしまう。


 ぽっちゃりした体形も、帆地槍さんの優しさを体現しているかの様に思える程に。


 ・・・・・・


 今日が終わったら、明日からは自宅に父が居る。


 そんな家になんて居たくない。


 こんな話は友達にも相談できない。


 帆地槍さんを誘ってみよう。


 私が心を許せる人は、今は帆地槍さんしか居ない。


 あの人なら、きっと私の心の病気を理解してくれるはず・・・


 そんな思いを胸に、今日も私は会社に向かう。


 帆地槍さんが居る場所に向かう為に。

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