1章 アリアの覚悟
1節 岐路に立つ少年少女
見渡す限り陸地など見えない海の上、風が吹いているにも関わらず水面は凪いでいる。太陽は天高く昇り、遮るものもなく僕たちの身に光を降り注げる。それでも、僕は櫂を両手に汗だくになりながら陸地を目指し船を漕いでいた。
僕たちが乗る小舟は、実際にじじ様が死海を航海してきたものだ。帆などの風受けは無く二本の櫂があるだけで、長旅をするとは思えない簡易なつくりである。ただ、じじ様はゴフェルの木で出来ているからそう易々と壊れることはないと自慢していた。僕たちを無事に陸地へ届けてくれると、信じるほかない。
アリアといえば日差しにやられ、僕が脱いだ外套を日除けにしながら、船首で進行方向を確認している。初めは交代で漕ぐ意思を見せてはいたが、櫂を手にした瞬間。
「重くてムリ。」
ということで、僕が一日中休みなく漕ぐことになった。最初は疲れてとても漕ぎ続けられる気はしなかったが、身体の使い方に慣れてきたことや、アリアが船尾を向いて漕いだほうが効率が良いと教えてくれたことで、何とか船を動かし続けられている。
アリアが外套で扇いで背中に風を送ってくれているのだろう。熱を蓄えた僕の体に心地いい風が当たる。それは嬉しいのだが、僕には他に叶えてほしい願いがあった。
「アリア~、そろそろご飯にしようよ。」
折角の僕が活躍できる場面だ。全力を尽くすのは問題ないが、体を動かせば腹が減る。この何もない死海の上で食料が貴重なのは僕にだってわかるが、これ以上は辛抱ならない。
渋々ではあるがアリアのお許しが出る。船出後、すぐに没収された僕の荷袋からアリアは硬いパンを二つ、自分の荷袋からはガラス瓶を取り出した。仄かに漂う甘い香りには覚えがあるが、少し独特な胸の奥に残る匂いが分からない。
「はちみつ?」
やはりそうではなかったようで、アリアはにやけた口元を隠しながら伏し目がちにこちらを見ている。いつもの悪戯するときの顔だ。一口飲んでみてと、栓を抜いた瓶を僕の目の前に突き出してきた。強まる独特な匂いが不安を煽る。意を決して瓶を傾け、口の半分ほどまで謎の液体を流し込んだ。
口に含んだ瞬間、鼻に抜けた香りの強さは香草並みに強い。だが決して不快ではなく、蜂蜜のまろやかでいてふわりと口の中で広がる甘みと複雑に混ざり合い、飲み物だとは思えない重厚な味わいがあった。舌の上がぴりぴりと辛みを感じ始め慌てて飲み下すと、喉からその先をどう通ったか分かるほどに胸の中が熱くなる。
忙しなく呼吸を繰り返しながら胸をさすり何とか熱を逃がそうとしていると、その様が可笑しかったのかアリアはけらけらと笑っていた。咳込みながらも、落ち着きを取り戻した僕は憎らし気にアリアを睨む。
「これはミードって言うの。パパが自分の発明だって言ってるけど、飲めるように改良したのは私だからね!」
僕のことは意にも介さず、アリアは胸を逸らして偉ぶる。蜂蜜と水を放置して作られたミードは腐ることがなく、海の上での貴重な水分として持ってきたようだ。注意するべきは一度に飲む量で、あまり飲みすぎると具合が悪くなって嘔吐するらしい。適度に飲む分には気分が良くなるだけだとアリアは言った。
僕が初めて知るということは、この実験はサムが被害に遭ったに違いない。サムだって発明したと言い張っても許されるだろうと、心の中で同情していた僕に、アリアは非常な一言を放つ。
「気に入らないなら、革袋の中身が無くなった時は周りにいくらでもある赤い水を飲みなさい。」
薄笑いを浮かべながら両手を広げて死海を示すアリア。僕はその手を優しく取り、向かい合わせに持ってきた。
「アリアはすごい!」
まるで子犬のように主人が望む姿を見せることが、僕の生存戦略だった。
腹ごしらえを終え、再稼働したアゼルの推進力で船は進み始める。アリアがすることといえば水平線に陸地を探すこと。事前にじじ様に聞いていた話が確かであれば、南に一日かけて進めば陸地が見えるはずだ。じじ様の体力を考えればアゼルなら倍の二日で着く計算でいる。ならば、アリアには今日一日することがない。
そうと決まれば実験の開始だ。小さな空き瓶を荷袋から取り出して、手が触れないように注意しながら死海の水を汲む。濁ったガラスの外からでは色は確認できないが、今回の実験はその必要はない。さらにもう一つ口の広い瓶を取り出し、蓋を素早く開閉して目的の物を取り出す。指先で摘まみ出したのは掌よりも小さな蜥蜴だ。
「私が良いって言うまで、こっち見ちゃダメよ。」
アゼルに注意しながらごめんねと、小声で一声かけて蜥蜴を赤い水に頭から胴体まで浸す。途端に暴れ始めた蜥蜴は片時も待たずに動かなくなった。ここまでは予想通り。
もともと、この実験は島にいる時にする予定ではあった。だが、動物実験を行う上、必ず犠牲になることが分かっていたため、必要性の無さもあり後回しにしていた。それも死海を旅することになった今では、赤い水の事を少しでも知っておきたい。
生まれた時から島を囲んでいた死海。その昔には透明で塩味のある水だったそうだ。そこにはサカナと呼ばれる水の中に住む動物がいて、リョウシと呼ばれる人々が狩りをする人間の営みがある場所だった。だが、神の怒りと呼ばれる災禍以降、赤く穢れた水には人間に限らず生き物が近寄ることは無くなった。
その原因が赤い水が持つ、あらゆる生き物を殺してしまう猛毒という性質だ。
アリアは動かなくなった蜥蜴を船の底板に置いて見分を始める。目を引く変化が起きているのは赤黒く変色した体だ。水に浸された部分だけでなく全身が変色している。まるで殴打されて出来たような痣の色、それはアリアとアゼル以外の人々が持つ痣の色に似ていた。ほかに想起されるものといえば、記憶に新しいマガビトの姿だ。だが、あれはもっと黒かった気もする。
これ以上得られる情報は無いと見切りをつけて、次は解剖を始める。アリアは少し表情を緩めて、手にピタリと合う革製の手袋を着ける。これはアゼルにお願いして作ってもらった実験用の手袋だ。もちろん、宝物の小物入れは欠かさず身に着けているが、出番のあまりないこの手袋を着ける時は心が弾む。安全を確保した手に小さめのナイフを取り、慣れた手つきで蜥蜴の体を丸裸にしていく。
開かれて露わになった内臓に、驚きのあまり手が止まった。確かに死んでいた筈の蜥蜴の心臓が再び動き始めていたのだ。最初は見間違いで振動しているように見えただけだと思った。次第に大きくなる鼓動に、アリアの脳は理解できない現実を拒絶して完全に停止していた。それでも鼓動は際限なく早く大きくなり続け、耐えきれなくなった心臓は破裂した。爆ぜて飛び跳ねた血がアリアを穢した。それと共に、止まったアリアの時間が動き始める。
「いやあぁ!」
僕は悲鳴に驚いて振り向く。そこには、取り乱して顔を手の甲で拭うアリアがいた。せっかくの水を通さない手袋も、その用途では塗り広げることに力を貸すだけだろう。
上着を手早く脱ぎ、腰に吊るした皮袋の水で湿らす。死んじゃう死んじゃうと、暴れる邪魔なアリアの手を片手で抱き抑えて顔を拭う。少し手荒い拭き方だが、なにやら緊急事態だったようだし仕方がない。全体的に拭き終えてから濡れていない部分で先ほどの分まで優しく乾拭きをしてあげる。なすがままになったアリアを覗き込むと、涙を浮かべながら喘いだ。
「・・・わたし、生きてる?」
僕はこれほど弱り切ったアリアを見たことがなかった。いつもの自信は影を潜め、人攫いの魔物に怯える子供のようだ。
「生きてるよ。そんなに慌ててどうしたの?」
アリアが言葉を整理するまでゆっくりと待つ。その間、辺りを観察して分かったことは蜥蜴を捌いていたということだけ。アリアが恐れるほどの事態が起きたとは思えなかった。
ぽつりぽつりと、アリアは起きたことを言葉に変えていく。
「・・・赤い水で死んだ蜥蜴がまた動き出して、心臓が破裂してまた死んで。意味わかんない。」
要領を得ない回答だった。だからこそ、それが事実でアリアが混乱しているのだと僕には自然に思えた。いつだって分からないことを理解するためのアリアの思考力、洞察力は人並外れていた。そのために、足掛かりすら掴めない赤い水の正体が恐ろしくて堪らないのだ。
「アリア。今は陸地に辿り着くことだけ考えよう。少しでも早く着くように僕も頑張るから。」
意気込んだ僕は、一刻も早く船を漕ぎたくて元の位置に戻ろうとする。だが、アリアの手が離れない。弱弱しく僕の腕を掴む手を振り払うこともできず、日が傾き空が赤く染まっても船は動かなかった。
昼食よりも豪勢になった夕食には、瓶詰にされた木苺のジャムと干し肉が加わった。僕は硬いパンを半分に割り、その断面からミードをしみ込ませる。さらにその上からジャムをたっぷりと乗せて、アゼル特製すっぱあま大人パンの完成だ。
大口を開けてパンにかぶりつく僕とは正反対に、アリアは小さくちぎったパンをよく咀嚼してからミードで流し込んでいた。その様は食事というより作業じみていて、恐らくまた思考に埋もれているのだろう。
どうしたものかと考えながら干し肉を齧る。強い塩味が甘さの残った口を引き締め、また甘味が欲しくなる。間を開けることなく、ジャムの酸味の先にある甘味を求めて再びパンに食らいつく。
のんきに食事を堪能している僕に、アリアが重々しく口を開いた。
「・・・ごめんなさい。」
予想外な言葉に呆気にとられ、干し肉が口からこぼれ落ちる。アリアに謝られた記憶など終ぞない。それでも懺悔は続く。
「私のせいで大事な水も、時間も・・・。」
目を落とし肩を震わせるアリアを見ていられず、僕はアリアの手を引き寄せる。最善を尽くしてきたアリアの失敗を誰が責められるというのか。消え入りそうなアリアの手をいっそう強く握る。
「謝ることなんて何もないよ。まだ少しだけど水もある。それだって、アリアがミードを持ってきてくれたおかげだよ。アリアがたくさん頑張ってくれたから、儀式だって乗り越えられたんだ。」
言葉を切り、覚悟を決めて続ける。
「だから、次は僕が頑張る番だ。食料があるうちに絶対に陸地に着いてみせるよ!」
目いっぱい力こぶを作って見せる。アリアの様に先を見るなんて難しいことは出来ないけれど、まだ僕たちは生きている。きっと二人の力を合わせれば何とかなるはずだ。
夕闇が迫るなか、アリアの顔にはまだ夕陽が差していた。零れそうな涙に気付いたアリアが慌ててミードを煽り誤魔化す。可笑しかった僕は声を上げないように静かに笑った。
だが、いつまでもミードから口を離さないアリアに徐々に焦りを感じ、無理やり瓶を取り上げる。飲みすぎると具合が悪くなると、自分で言っていたのに忘れてしまったのか。ゆらゆらと揺れるアリアが心配になり、体を支えようと近くによると、いきなり体重を掛けられて仰向けに倒れ込む。覆いかぶさるアリアはもぞもぞと動くばかりで退けようとしない。困り果てていると、小さくつぶやく声が聞こえた。
「・・・みず飲んで。使わせた分。」
日中のことを言っているのだと分かり、それくらい大丈夫だと、首を振るがアリアは納得してくれない。そうとわかると、アリアは僕の胸板に手をつけ上体を起こして馬乗りになった。ふらつきながら皮袋の水を口に含むと、そのまま僕の顔目掛けて近づいてくる。何をしようとしているのか理解した僕は抵抗しようとしたが、驚くことにアリアが迫る速度が上回った。がしりと掴まれた頭は動かすことが出来ず、寸分の狂いもなく互いの唇が密着する。
「んんむぅん!」
口内に流れ込む人肌の温度の水に溺れ、声にならない声を上げる。体勢の悪さもあり、少しずつしか飲み下せない。流れ込む水が無くなり、やっとの思いで口を空にすると、満足したのかアリアの唇が離れてそのまま横に倒れ込んだ。
アリアの寝息を聞きながら、僕はほのかな蜂蜜の味を思い出していつまでも眠れずにいた。
夕笛の重低音が響く室内は、煩わし気にうごめく人の気配で満ちていた。ヤーラはいち早く寝台から抜け出ると、うつらうつらしている周りの少女たちに発破をかける。
「今日の見張り番が終われば里守りだよ!気合入れなさい!」
上がる同意の声を背に、ゲルと呼ばれる十人ほどが就寝できる円形の建物から出ると、夕方の少し強い風がヤーラの髪を撫でつけた。少し癖のある朱色の髪は視界の邪魔にならぬよう、眉よりも高い位置の前髪に合わせて全体も短く切り揃えている。
「今日も一番はヤーラか。さすが、竜の戦士様は違うねぇ。」
前回の大会で敗れたことをいまだに根に持つ男、イサムが軽口をたたく。実力は確かなのだが人間的には未熟なやつだ。これを好く女も少なくないのが不思議でならない。
「そうね。決勝で負けた誰かとは心持ちが違うもの。」
アツムと呼ばれる動物の骨で出来た笛を引ったくり、イサムの横を通り抜ける。負け犬が吠えているが、ひらひらと手を振ってあしらいながら広場へと足を向けた。
里の戦士たちは三つの集団に分けられる。訓練に励み里の内側を守る里守り、日が出ている間の見張りを務める日守り、そして、月が出ている間の見張り番が月守りと呼ばれる。これらは月の満ち欠けが一周期するごとに交代する。ヤーラたち月守りは、次に太陽が昇れば里守りに戻る。訓練が楽というわけではないが、敵が実際に里の内にまで及ぶことはなく、毎日十分な休息が取れるので皆心待ちにしているのだ。
遠目ながらこちらに手を振る少女に気付き、ふっと頬が緩む。もっとも、本人に子供と言えば怒られてしまうが。
「ヤーラおはよう!今日はヤーラの大好きな串焼きだよ!」
太陽のような笑顔で献立を教えてくれたのは、十五歳の少女ピナだ。鮮やかな黄色の前掛けが良く似合う。持ち前の明るさと小柄で可愛らしい容貌は、里の皆を笑顔にしてくれる。ピナの頭を一撫でしてからヤーラは屋台の椅子に腰かけた。
広場は円状に広がっており、その周りを囲むようにある屋台で各々食事を取るのが里の習慣だ。素早く屋台の厨房に入ったピナは、鳥の肉と野菜を交互に刺した串を直接火にかざして焼き始める。本来なら金網があると便利なのだが、金物は高く取引されるためピナのような若者には手が出ない。贈りたい人間ならいくらでもいるのにピナは頑として受け取らないようで、自分で稼ぐことにこだわっている。
額に汗して火に向かうピナを見つめていると、二人で生活していた時を思い出さずにはいられない。ヤーラもピナも親無しだ。今では珍しくなったがマガビトが出始めた頃は被害が大きく、家族を失った者は多かった。そのなかで身を寄せ合い、助け合ってきた二人は家族同然の存在になっていた。
「出来上がり!」
木皿に置かれた五本の串焼きは、ヤーラの好みに合わせて香辛料がたっぷりと塗られていた。食欲を刺激される香りに、起きがけの身体でもぺろりと平らげられそうだ。
「あした里守りに戻るんでしょ?家でお祝いの準備しとかなくちゃ!」
はしゃぐピナの姿を見ながら食べる串焼きは特段美味しい。それなら御馳走をお願いと伝えると、ピナは献立を考えるのに大忙しだ。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、空には闇が迫っている。ピナに礼を告げて見張りの配置へと向かう。
見張り台は北に十二番塔、東に三番塔、南に六番塔、西に九番塔というように右回りに十二個の塔が建っている。それぞれが関所の役割も果たしており、円状に配置された塔の間は人の背丈よりも大きな柵で囲まれている。
ヤーラの持ち場は最も危険の多い十二番塔だ。今回の月守りの中で一番の実力者が就くのは当然の流れではあるが、本来、竜の戦士であるヤーラには一般の戦士としての義務はない。特に月守りは過酷なため、歴代の竜の戦士は里守りや日守りをたまにする程度だった。それでも、ヤーラが竜の戦士となってからも義務を怠らないのには理由があった。
十歳の頃、突如として現れたマガビトに里は蹂躙された。血の洪水の後、住居を追われた人々の共同体として生まれた里には未知の脅威から身を守るすべなどなく、無尽蔵に死海から這い出てくるマガビトにヤーラの両親と弟は殺された。それも、目の前で。放心しているヤーラを里長が脇に抱えて逃げ出してくれなければ、家族と同じ運命を辿っていただろう。それらの壮絶な過去がヤーラに戦士としての道を歩ませ、里を守るという強い使命を与えた。
背に槍を、腰に剣を携えたヤーラは縄はしごを難なく昇る。塔の上部、物見が出来る開けた空間に入り、日守りの二人に労いの言葉をかけた。
「アッシム、オシム交代だ。狭い中お疲れさま。」
屋根を越える巨大な体躯を窮屈そうにかがめた双子、兄アッシムと弟オシムが揃ってこちらを向く。
「おう!もう交代か。今日はマガビトが全然来なくて退屈してたとこだ!」
豪快に笑うアッシムとは対照的に、仏頂面のオシムは憂慮すべきことを報告する。
「・・・だから多めにマガビトが出るかもしれない。ヤーラなら問題ないと思うが、気をつけろ。」
忠告に感謝しつつも、少し笑いがこぼれてしまう。見分けがつかないほど似た者同士の癖に、話せば全くの別人だ。怪訝な色を浮かべる二人にヤーラは何でもないと言って誤魔化す。代わりに了解の意を伝えて角笛を受け取ると、引継ぎを完了したアッシムは手すりを乗り越えて飛び降り、オシムは縄はしごを壊さぬように慎重に塔から降りて行った。
ヤーラは隠す必要もなくなった笑いをひとしきり終えて、十二番塔から辺りを望む。月明りに照らされて浮かび上がる一面の死海。昔は恐れを抱くだけだった光景も、今では宿敵の巣として相対することができた。オシムの言う通り、大量のマガビトが来たとしても一体たりとも逃がしはしない。昂ぶりを目に預け、ヤーラは死海の全てを見通すかのように神経を研ぎ澄ませ続けた。
水平線の上、闇は光に飛ばされて明けの明星が顔を出す。絶え間なく移ろう空の色は、月守りの務めがもうじき終わることを告げていた。
疲れが溜まっていたのか、はたまた仕事がなく手持無沙汰だったからか、ヤーラは凝り固まった身体をほぐすために塔を降りていた。門を開けると、手始めに剣を振るう。その動きは型などの練習ではなく、頭の中のマガビトを倒す実戦だった。ひたすらに首を一撃で斬り飛ばし続ける淀みない動きは、見事な剣舞にも見える。
百を数え終えた頃、ヤーラは剣を鞘に納めた。息の一つも上げずにいられる理由は、日頃の鍛錬だけでなく極限まで軽さを追い求めた装備にあるだろう。急所を守る鎧などは付けず、局部を隠す布を巻いてその上に一枚の革で出来た服を着るのみ。すらりと伸びた手足は日に焼けた肌を晒している。特徴的で大胆に開けた背は、軽さだけでなくこの地の温暖な気候に見合った通気性を考えたものだ。
死海に最も近接している十二番塔は地に降りていてもその姿が見える。ヤーラは異変を感じ取り、槍に伸ばしかけた手を止めて水面を注視する。里の中でも特に優れた目には僅かに立ったさざ波が映っていた。普段、死海が波を打つことは無い。だが、波を打つ時は決まってマガビトが現れる。急いで塔を登り切ったヤーラは首に角笛を下げ、援軍が必要な規模かを見極めるため、這い出てくるであろうマガビトを待つ。
待てども姿を見せないマガビトに代わり、塔の正面、北の水平線上に何かが見え始める。東から昇り始めた太陽が照らし出したのは小舟の姿だ。ヤーラは今まで己の目に誇りを持てど、疑ったことなどなかった。しかし、幼かった頃の記憶に薄っすらと残るだけの船という遺物が、大きな水しぶきを上げてこちらに向かってくるなど、正気を疑わざるを得ない。
茫然として見つめていると、瞬く間に船は陸との距離を縮めていた。想定外の事態ではあるが、これも月守りの務めだと考えたヤーラは、角笛を下げたまま海岸線へと走り始める。
ヤーラが海岸に到着した時には、先ほどの小舟は既に着船していた。辺りの地面を見る限り、彼方からやってきた何者かはまだ船に居る可能性が高い。
「何者だ!姿を見せろ!」
誰何の声に答えるものはなく、緊張感が高まる。ヤーラは槍を背から抜き、油断なく小舟に接近する。いつでも突き込めるように槍を構えたまま、船の横っ腹を蹴ると中からうめき声が上がった。覗き込んだ船内には子供が二人横たわっている。もはやヤーラに警戒の二文字は無く、子供たちの生死を確認するために船に乗り込んだ。
どうやら二人とも息はあるようだがうなされていて、肩を揺らしても目を覚まさない。少年は蜂蜜、蜂蜜と、意味不明なことを呟くばかりで特に命の危険は無さそうだ。ただ、もう一人の少女は明らかに顔色が悪い。ヤーラは迷うことなく二人を助けることに決めた。少女を優しく抱き上げ、荷袋を持った腕で少年を脇に抱える。
一先ずは十二番塔まで運び込んでからと、今後を考え始めた矢先の出来事だった。三人を乗せた小舟が、突如、動き出したのだ。ヤーラは瞬間的な判断で陸に飛び移った。己の危険に対する直感を頼りに、振り返ることなくその場から離れる。
十二番塔まで戻ったヤーラは言葉を失った。見たことがないほど大きくうねる赤の波が、数えきれない量の黒い化け物を吐き出している。それは止むことなく、刻一刻と大地を飲み込んでいく。
角笛を口に当て、里の中心にまで聞こえるようにヤーラは肺の空気を全て音に変えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます