3節 窮すること限りなく

 命を奪う恐ろしい儀式から逃げ出した僕たちは、民家が集まる村の中心地への道程を半分ほど越えたところまで来ていた。人の気配のない獣道には、緊張の糸が切れて軽くなった口を止めるものはない。

「僕は指示を聞いてるだけだったけど、やっぱりアリアはすごいよ!密室からは脱出しちゃうし、爆発まで起こして追っ手を撒いちゃうんだもん!」

 冒険譚が大好きな僕にはアリアがまるで物語の主人公のように思えて、尊敬の眼差しを向ける。アリアは嬉しそうに笑っていた。それから、少し恥ずかしそうな顔をしながら言葉を返す。

「アゼルだって活躍したよ。特に鼻とか。それに、アゼルと一緒だから私は・・・。」

 しりすぼみになっていく声に、どうしたのと、聞き返すがは何も答えてくれない。それでも、アリアが素直に褒めてくれることはあまりあることでは無いので、僕には十分だった。

 でもと、アリアは気を取り直すように続ける。

「儀式を逃げ出した私達に村での居場所は無いわ。」

 現実を突きつける言葉は重たく、僕たちの間にあった軽やかな雰囲気は無くなる。しかし、それは逃れられない現実で、教会が村に与える影響は非常に大きく、ましてや神に捧げられるはずの“痣無し”が逃げたとくれば、結果は火を見るより明らかだ。

 僕たち自身にはあまり村には未練はない。だが、家族や少数ではあるがお世話になった人がいる。その人たちにまで責が及ぶことは恐ろしかった。

 答えの出ない問題を抱えたまま、それでも僕たちは家へと向かうしかなかった。

 

 教会から届く鐘の音が遠退いたころ、反対に、僕たちが向かう方向から喧噪が聞こえ始める。鐘の音は村からでも聞こえる。見張り台から火が見えて、消化の準備や怪我人の受け入れなど、慌ただしく動く人たちの音が届く距離まで来たのだろう。

 だが、聞こえてくる声には恐怖や混乱があり、衝撃に伴った音や、先ほども嗅いだばかりの煤交じりの臭いを風が運んでくる。明らかに様子がおかしい。アリアも同意見のようで、お互いの走るペースが上がった。

 この丘を登り切れば家々が見えてくるはずだ。先ほどよりも大きくなった喧噪を無視して、がむしゃらに足を動かす。嫌な想像はどこまでも広がって、僕の心を占める。

 永遠にも一瞬にも感じる坂道を登り切り姿を見せたのは、破壊され瓦礫と化した建物。そして、この世のものとは思えぬ異形たち。放心した僕の後に遅れてきたアリアが口を開く。

「マガビト・・・。」

 マガビトとは、魂を失いそれを求め彷徨う幽鬼。異形に向けられたその言葉はじじ様に教えられたものだ。

 話に聞くそれと目にするものとでは受ける衝撃の度合いが違う。人であったと思われるのは姿形だけであり、黒く爛れ殻の様に硬質化した肌、ぎくしゃくとした不自然な動き、眼球は無く落ち窪み露出した眼窩と力なく開いた口は、底の無い闇を宿していた。抵抗したであろう男の頭を丸呑みにした姿は、恐怖を呼び起こすには十分だった。

 無意識にマガビトへと足を向ける僕を、アリアが腕を掴んで引き留める。

「ダメ!今はパパとおばさんのところに行くの!」

 そうだ、優先すべきことを間違えてはいけない。了解の意を伝えると、アリアは僕の背に飛び乗る。意図を理解した僕は、山が見える方角、僕とアリアの家へ全速力で走り始めた。

 

 駆け抜ける道は馴染みのある場所のはずなのに、違う世界に迷い込んでしまったように変わり果てていた。悲鳴や助けを求める声が聞こえぬようにアリアは僕の耳を塞ぐ。僕はアリアにこそ耳を塞いで欲しかったが、そうはしてくれ無いことは知っていた。いつだって本当に辛いことは自分一人で済まそうとする。僕に出来ることはマガビトや瓦礫を避けて、少しでも早く走ることだけだ。

 家が近づき僕たちは声をあげて母を、父を、呼んだ。返る声がなくとも諦めずに何度も叫んだ。脇目もふらずに声を張り上げ続ける僕たちに反応したマガビトが何処からともなく現れ、遂には四方を囲まれる。行き場を失い、足が止まった僕は意を決して腰を低く落とす。

 背にいるアリアのことを考えると無茶は出来ない。機会を探っていたその時、目の前を塞いでいたマガビトの額から矢じりが飛び出した。

「二人とも、こっちだ!」

 倒れたマガビトを飛び越えて包囲網から抜け出し、声の主の元まで駆ける。栗色の長い髪を後ろで束ね同じ色の髭をたっぷりと蓄えた、いかにも狩人といった装いの人物。アリアは背から降りて勢いよくその人物に抱きついた。

「パパ!」

 サムは弓を持たない右手で軽く抱擁してから、逃げるぞと、言い残し背を見せて森に向け走り出す。僕らは一も二もなくサムの後を追った。

 

 辿り着いたのはサムが狩人として使用している山小屋だ。ここにはこの建物以外には自然があるだけで、人気がないからかマガビトも来ていないようだった。改めて向き直ったサムは弓を足元に放り、膝をついて僕たちを両腕に抱き抱える。

「よがったぁ、ふだりども無事でよがったぁ。」

 嗚咽交じりに力強く抱きしめてくるサムにされるがままの僕と、暑苦しいと言わんばかりにサムの顔を手で押しやるアリア。なかなか落ち着きを取り戻さないサムに痺れを切らしたアリアは、金的をかまして強引に自由を得る。悶絶しているサムを尻目に、アリアは事の次第を問う。

「なんで急にマガビトが現れたの?それに村があんなに荒らされるなんて、いつから奴らが攻めてきたの?」

 マガビト?と一度声に出し、何を差しているのか合点がいったサムは、立て続けの質問にも慣れたように答える。

「なぜ現れたのかは分からん。だが昨日の夜更けに奴ら、マガビトが死海から現れたのは見張りの奴に聞いたから間違いない。それのせいで防衛が後手に回ったのが痛かった。なにせ、今まで襲撃なんて受けたことがないからな。うじゃうじゃ湧いてくるマガビトにそのまま押し切られちまったってわけだ。」

 説明を聞いたアリアは一人思考の海に潜る。その間に、僕はサムに聞かなければいけないことがあった。

「母さんは、母さんは無事?」

 サムの話を聞く限り、避難できる時間は多少なりともあったはずだ。希望を込めた僕の言葉にサムは真剣な顔で答える。

「・・・分からん。村にマガビトがなだれ込む前に家に行ったが、お前の母さんは居なかった。」

 僕は失望を隠しきれなかったが、サムの言葉には続きがあった。

「だが、いつも何かが起こることを知っているみたいに、先に行動してる不思議な人だったろ?だから、今回だってきっとどこか安全な場所で身を隠してるはずさ。」

 僕の肩に腕を回し、サムが優し気に語ったことはただの慰めではない。母は僕が幼いころ怪我をして帰ってくると、知っていたみたいに手当の用意をしていた。だから、今回も誰かの助けになっているはずだ。サムに感謝を伝えると、安心したというように僕から離れ、山小屋に入るよう僕たちに促した。

 久しぶりに入った山小屋は昔のままで、緊張が緩む。少し待ってろと言い残して、サムが奥のほうへと入っていった。残された僕たちは手持無沙汰で、アリアが何気なしに言葉を吐く。

「ここで隠れ住むのもいいかもしれないわね。」

 少し考えればそれが困難なことは明白で、アリアらしくない言葉が今の混沌とした状況を表している気がした。

 戻ってきたサムは両手に衣服を抱え、それぞれを僕たちに渡す。

「こんな時になんだが・・・。お祝いだ!二人とも成人おめでとう!」

 渡されたのは革製の外套だった。琥珀のように鮮やかな茶色に、触ると滑らかで人肌のような革は、それだけでとても貴重なものに思えた。着てみると身をすっぽりと覆える大きさで、これがあれば雨が降っても体を冷やされずに済むだろう。いつの間に持ってきたのか、自分の弓と矢筒を背負ったアリアはさながら一流の狩人のようだ。

 非常時なのも忘れ、僕たちはくるくると回って新しい宝物と戯れた。その姿に満足したサムは一度自らの頬を叩き、気を引き締めてこれからの指針について話す。


 轟轟と燃え上がる教会はもはや一つの巨大な炎そのもので、手のつけようがなかった。消火活動も空しく、助祭の二人はただ呆然と崩れゆく教会を見守る。祭儀室へ向かった司祭は帰ってこず、助けに行こうにも二階は火の海でとても人が立ち入ることは出来なかった。

 助祭たちはどちらからともなく、教会を向いて跪き司祭の冥福を神へと祈った。

 初め、燃え盛る教会の中に見えたそれは、炎の揺らめきのようにも熱から来る空間の歪みにも見えた。だが、少しづつ大きくなっていく姿に助祭たちは慄いた。輪郭がわかる距離まで近付いてきたそれは、司祭だった。ただ、何人にも優しかった司祭の面影はどこにもなく、燃え尽きて所々剥げあがった髪に焼け爛れた皮膚、見開かれた目には狂信の光だけが差す。唯一、司祭だと分かるのは身に纏ったガウンのみ。それも燃えて元の気品や静謐さは感じられない。

 司祭は迷うことなく歩を進め助祭たちの目の前までやってくる。助祭たちは声にならない悲鳴を上げながら尻もちをつき、そのままの姿で後退る。走り出したいが異様な気配の司祭から目を離すことが出来ず、これから自分の身にどんな災いが訪れるのかと体が震える。

 しかし、まるで姿が見えていないかのような司祭は助祭たちの間を通り抜けていく。その間に聞こえた言葉を、助祭の一人が幼子のように意味もなく反芻する。

「“痣無し”・・・。」


 山小屋を出た僕たちはサムの指示通り、島の東に位置するアララト山へと向かう。山の麓にはじじ様の家があり、そこに避難した人々がいるらしい。村にはマガビトに抵抗する男たちと避難が遅れた者たちがいたようで、大半の人々は攻め込まれる前に避難したそうだ。その中でサムは残された者たちを誘導しつつ、僕たちが村に戻ってきたときのことを考えて家の近くに居てくれた。おかげで無事に合流でき、行動を共に出来るのはとても心強いことだった。

 道中マガビトに遭うこともなく、僕たちは無事にじじ様の家に辿り着いた。やはりというべきか、避難した人々の中に母の姿はない。そして、予想外なことに家の主であるじじ様の姿もなく、人々は不安のなか身を寄せ合っていた。

「パパ、どうするの?これだけ人が集まってるなら、きっとマガビトはそう遅くない内にここに来る。じじ様もいないしこのままじゃ・・・。」

 アリアが吐露したことをサムは否定できない。ここが避難場所になったのはじじ様がいる想定だったからだ。これでは村で起きた惨劇を繰り返すだけになる。アリアをちらりと伺ってから、僕はサムに提案する。

「僕が村に行って時間を稼ぐよ。その間にサムおじさんはアリアと一緒にじじ様を探して。」

「絶対ダメ!」

 サムがなにかを言う前にアリアが僕を羽交い絞めにする。非力で小柄なアリアがしても、ただ抱きついているだけだ。簡単に振り解くことは出来る。それでもアリアの気持ちを想うとどうするべきか困ってしまう。サムは寂しそうに笑いながら口を開く。

「それを言うなら俺が時間稼ぎだ。こういうのは歳を食った奴の仕事なんだよ。」


 アリアの明晰な頭脳を以てしても、二人を論理的に止める手段が思いつかなかった。感情で言うならば、その他大勢の命などどうでもよかった。だから、三人でじじ様を探しに行けばいい。これがアリアにとっての最善手だが、口に出したところで二人は微笑むだけで首を縦には振らないだろう。

 気付けば涙が視界を覆っていた。胸を占めるのは、嫌だという子供じみた言葉だけ。ぐちゃぐちゃになった思考はなにも解決策を出してくれない。アゼルに一言二言声をかけ、父が背を向ける。羽交い絞めにしていた筈のアゼルが、いつの間にかアリアを腕で拘束していた。アリアの身を焼くような熱が声に、涙に変わる。

 もし、この状況を変えることができるならアリアは悪魔にでも魂を売ってしまうだろう。


「可愛い我が孫たちよ。待たせたのう。」

 アリアは涙を拭い、求めていた人物がやってきたことを知る。アリアとアゼルを足しても届かない高い身長に、熊にも勝る肉体を持つ老人。伸びきった真っ白な髪と髭から覗くしわくちゃの朗らかな表情は、アリア達だけでなく避難した人々すべてに安心を与えた。

 この人こそ、アララト村の大長老であり守護者であらせられるセト様だ。

 

 皆が歓喜する中、僕はじじ様ではなくその傍らにいる長い黒髪の女性を見つめていた。

「・・・母さん。」

 アリアも気付いたのだろう、今度はアリアが捕まえていた腕から抜け出し、僕の背を押す。むず痒いような安堵感が少し恥ずかしくて、小走りで母のもとに行く。会話ができる距離まで来た僕を、母がいつもの慈しむような表情で迎えてくれた。

「アゼル、貴方には心配をかけましたね。」

 優しく頭を撫でられて目を細める。そんな僕の背中を、どんと、じじ様の大きな手が叩いた。

「さて、皆に話があるのじゃが・・・。先に不躾者共を片付けねばのう。」

 じじ様は村がある方角を見ながら言った。アリアの予想通り、避難した人々に吸い寄せられたマガビトがこちらに押し寄せ始めていた。だが、先ほどまでの恐怖や不安はもうない。僕達には最強の守護者がいる。その場にいる誰もが、期待に満ちた眼差しをじじ様に向けているのが分かる。

 だが、じじ様の言葉はその期待を裏切るものだった。

「アゼル準備はいいな?試練の開始じゃ。」

 僕はいまだに背に置かれたじじ様の手の意味を悟った。片手で胴体を鷲掴みにされ、そのまま腕を振り上げたかと思えば途中で宙に放り投げられる。僕が高いところがダメなのは知っているのに!涙目になりながら落下地点を確認すると、そこはマガビトの群れのど真ん中だ。

「試練内容は生きて戻ること!もちろん五体満足でじゃぞ!」

 ガハハと、豪快なじじ様の笑い声が山にこだました。

 

 アリアは予期せぬ事態に目を白黒させていた。全ての問題が解決したと思った途端に最悪の状況になったのだ。混乱から立ち直ると、すぐさまアゼルを助けるために走り出す。だが、数歩も進まぬうちに一足でやってきたじじ様に捕まってしまう。

「離して、じじ様!このままじゃアゼルが・・・。それに、もしマガビトを倒せてもこんな大勢の前で・・・。」

 続く言葉は出ない。このままではアゼルはどう転んでも酷い目に遭う。どんなに懇願する目を向けても、じじ様は今まで見たことのない険しい面持ちを崩さない。

「受け入れるんじゃ。この試練はこれからのお前たちに必要なことじゃ。」

 含みのある言い方にアリアは問いかけたかったが、今はそれどころではない。マガビトは動きも遅く、特に恐るべき攻撃をしてくるわけではない。それでも、痛みを感じず、急所を叩かない限り動きを止めることはないため、多数のマガビトに囲まれればその質量に圧し潰されるのは間違いない。

 もはや、獲物に集りに行ったマガビトの壁でアゼルの姿は見えなくなり、その向こうでアリアの危惧することが起きているかもしれないのだ。その知識を与えてくれたじじ様が理解できないはずがないのに、ただ眺めることしかしないなんて信じられない。

 助けを求めるように父に視線を送る。視線を合わせることは出来たが、父は項垂れて首を振るだけで動くことは無かった。

 万策尽きたアリアに出来ることは、じじ様の手の中で暴れ続けることだけだった。

 

 僕の心臓は破裂するかと思うほどに脈打っていた。全身が震え、いまだに空中にいるような感覚がする。昔から高いところは苦手なのだ。特に宙に居る時の浮遊感はどうやっても慣れることは無い。

 大地に四肢をつき、やっとの思いで落ち着きを取り戻す。ふうっと、一息吐きながら上体を起こす。すると、目の前には顔から飛び込んできたマガビトの口が大きく開き、闇が僕を飲み込まんとしていた。

 

 咄嗟だった。思い切り殴りつけたマガビトの顔面は拳の圧に耐えることが出来ず、手首の先までめり込ませながら、やがて衝撃を受けきれなくなり後方に大きく吹き飛ばされる。地面に倒れたマガビトの顔面には綺麗に拳の痕が残り、二度と起き上がることは無かった。

 状況に頭が追いついたアゼルは、跳ねるように起きて戦闘態勢に入る。しかし、その姿は戦闘の構えと呼ぶには隙だらけに見えるものだった。腰を低く落としてはいるが、丸まった上体に両腕はだらんと力なく垂れ下がり、口は半開きで一見脱力しきっているようだ。ただ、乱れた黒髪から覗く爛々とした藍色の瞳が異様な雰囲気を醸し出す。

 生物ならば警戒する空気の変化を、心を持たぬマガビトは感じ取れない。新たなマガビトがアゼル目掛けて襲い掛かる。両手を突き出し獲物を捕まえようとするマガビトに対し、アゼルは左足を一歩下げて大きく上体を逸らし、捻りを加えた姿勢で左手の拳を作り上げる。右肩越しに覗き込み、右腕を伸ばして狙いを定めた。

 アゼルは戦い方を知らない。だが、身体の使い方と身近に居た凄腕の狩人の姿を知っていた。弓の様に鋭く引き絞られた肉体から放たれた拳は、狙い通りマガビトの顔面を捉える。結果は先の一撃とはまるで違った。マガビトの面がアゼルの拳を避けるように内側にめくれ上がる。否、一点に集約された破壊力に後頭部まで穿たれたのだ。遅れてどぱんと、水を含んだものが破裂する鈍い音が響く。当然、頭を失ったマガビトはその場に崩れ落ちた。

 

 じじ様の手に捕まるアリアは暴れることを止め、その様を茫然と眺める。異常な爆発音がマガビトの群れの中心から鳴り止まず、その間隔は徐々に短くなっていた。アゼルの身体能力の高さは共に育ったアリアの知るところではあったし、その力が普通の人間の域を越えていることも理解していた。

 ただ、あれだけの数のマガビトの直中に放り込まれたのだ。逃げることが出来ただけでも称賛されるべきことで、アリアもアゼルが逃げに活路を見出すと思っていた。

 じじ様の態度から、こうなることは分かっていたのだろう。アリアの知らないところで特訓でもしていたのかもしれない。じじ様に疑いの目を向けていると、何を思ったのか話し始める。

「わしが守れるものなどたかが知れておる。特にアリア、離れるお前たちを守ってやれぬ。」

 教会のことは聞いておると、遠い目をしたじじ様が守護者らしからぬことを言う。加えて、少しでも経験を積ませてやらねばとも言った。これらが何を差し示すのかアリアが答えに辿り着くより早く、アゼルの戦いが終わった。

 

 疲れ切った身体は休息を欲して膝に手を突く。足元に転がったマガビトの残骸は百は下らないだろう。今までじじ様としてきた木切りや岩砕きなどの遊びよりも過酷で、試練と言われたことに納得した。なんとか捌き切れたことに安堵したアゼルは、ゆっくりと乱れた呼吸を整えて姿勢を正す。

 目に入ってきたのは、僕に恐怖を抱いた人々の顔だった。血塗れの両手に気付き急いでズボンで拭うが、全身に浴びた返り血は取り繕えるようなものではなかった。どうすればいいか分からずに人々の群れから一歩後退る。

「見タだロう、“痣無シ”ハ普通でハなイのダ。」

 僕は声のする方向から飛び退く。一瞬攻撃するべきか迷った。なぜなら、現れた司祭の姿はまるでマガビトだったからだ。アリアの罠にかかり重度の火傷を負った司祭の恐ろしい姿は、僕と同様の恐怖を人々に与えた。ただ、司祭の反応は違う。

「私ハ昨日の夜半ニ神ノお告ゲを受けタのダ。″痣無シ〟ヲ捧ゲよト!」

 喉も肺も焼けたのだろう、聞き取りづらい声で話し続ける。

「神ハお怒りナのダ。ダかラこソ皆ガ不幸な目に遭うノだ。」

 姿が、声が変わっても司祭の語る話は不思議と力を持っていた。人々の中から賛同の声が出始める。理不尽な不幸に理由を求めて、その怒りをぶつける相手を見つけて。

「捧ゲよ!“痣無シ”ヲ捧ゲよ!」

 怒りは伝播し、いつしか一つの狂気と化した。繰り返される言葉に僕は何もできない。

 

「じじ様、離して。」

 拘束を失ったアリアは真直ぐにアゼルのもとへと進む。アゼルといえば大勢の狂気にあてられて苦しそうに、怯えたように少しずつ後退っている。

 なぜ、皆を救ったアゼルがこんな目に遭わねばならないのか。分かり切っている。馬鹿な奴らのせいだ。ならば、どうやって解決するか。分かり切っている。

 アゼルを優しく抱きしめる。服に付いた返り血はべったりとアリアを汚した。

「良く頑張ったね。偉いよ、アゼル。あとは私に任せて。」

 アゼルの耳元でそれだけ呟き、愚物どもに相対する。いまや群衆の中央へと移動した司祭に、弓を向け淀みなく矢を番える。

 アゼルを傷つける奴は許さない。一人残らず、殺してやる。

 

 僕は怖かった。このままでは取り返しがつかないことになると思ったから。でも、どうやったらアリアを止められるのか。力ずくで?アリアは僕のために怒り、守ろうとしていて、あの人たちは僕たちを傷つけようとしている。僕はアリアの味方をするべきではないのか。

 違う、そういうことではない。僕はアリアが人を殺すところなんて見たくないのだ。でも、殺そうとしてくるあの人たちをどうすればいいのか。逃げる?どこまで行っても島は狭い。逃げ切ることなんてできない。

 なら、僕が。


「いい加減にせんかぁ!」

 じじ様が上げた静止の声は地が揺れるほどの衝撃を与え、その後には空白の時間が生まれた。

「孫同士が殺し合うなど、如何な理由があろうとも許さぬ。」

 大長老セトとしての言葉は皆の怒りを抑えさせるほどに重い。それでも己の、神の主張を通さんとした司祭を一睨みで黙らせて、言葉少なに今回の騒動の原因を伝える。

「ノアが死んだ。」

 誰よりも衝撃を受けたのは司祭だった。村に住む人間なら誰でもノア様を知っている。ノア様が己のすべての時間を祈りに捧げることで、天上の主よりこのアララトの地に祝福を与えて頂くことが出来たのだという。

 今でもアララト山の山頂で祈り続けていると話には聞いていたが、本当にいらっしゃったのだ。

「もうこの地を守るものはない。じゃからこそ、あの化け物、マガビトが押し寄せてきたのじゃ。今後もそれは続く。アゼルとアリアを捧げたところで何も変わりはせんのじゃ。」

 悪魔にいいように使われおってと、司祭を叱責する。全身の気が抜けた司祭はその場に倒れこんだ。

 じじ様は話は終わりとばかりに、どかりとその場に座り込む。人々は家を失い、これからも脅威に備え続ければ行けないことを知り絶望していた。

 すっかり雲に覆われてしまった太陽は僕たちを照らすことは無く、暗い空はぽつりぽつりと冷たい雨を降らし始めた。

 

 村の中心地にあった家はほとんど壊されてしまったため、僕と母はアリアとサムと共に山小屋で一晩を明かすこととなった。それにあんなことがあったばかりだ。″痣無し〟の僕たちは少しでも離れたところに居たほうが良いだろう。

 僕はアリアにあの後から考えていたことを話した。もう二度とこんなことにならないように、島を一緒に出ようと。アリアは二つ返事で了承してくれた。きっとアリアのことだから、島から出ることも先に考えていたはずだ。だとすれば、僕たちが島から出るのは当然の流れだったのだろう。

 ただと、アリアは条件を付ける。僕は渋々それを受け入れ、明日の朝一番にじじ様のもとに向かうことで話は決まった。

 

 日もまだ上らぬ暗闇の中、僕たちは森を駆ける。サムに貰った外套を羽織り、その下には数日分の食料を入れた荷袋を背負っている。アリアも同様だ。

 会話をする事もなくじじ様の家へ着くと、すでにじじ様が僕たちを待ち構えていた。そして、僕らに先んじて口を開く。

「船は渡さぬ、と言ったら?」

 最悪の展開ではあるが、これもアリアが予想していたこと。この場合は、僕が全力で時間稼ぎをしているうちにアリアが船を出すという力尽くな作戦だ。というより、じじ様相手に作戦なんて無駄だからこうなったという方が正しい。

 本気で渡すつもりがないのか、じじ様から尋常ではない圧力を感じる。これは十秒持つかも怪しい。アリアならその十秒で何とかしてくれると信じて、僕は覚悟を決める。

「ガッハッハ!嘘じゃ、嘘。ちゃんと出してやるとも。」

 潰れてしまいそうな圧力は消え、じじ様が僕たちの覚悟を計っていたのだと知る。だが、話はまだ終わっていなかった。

「ただし、お前たちがしっかり義務を終えてからのう。」

 人の気配で振り返ると、そこには母とサムが立っていた。アリアがあからさまに嫌な顔をしている。アリアに付けられた条件が親には内緒で出立することだったのだ。

 そんな僕も母の顔を正面から見られずにいた。何も言わなかった罪悪感と、これから咎められるだろうことを思うと怖くて動けなかった。

「貴方はもう大人ですよ、アゼル。」

 それだけ言った母はそれ以上は何も言わず、僕の言葉を待っていた。途中まで考えていた言い訳の言葉はどこかに転がり落ちて行き、代わりにしどろもどろになりながら話す。

「僕とアリアが村に居ても何も良いことがないんだ。それに僕たちも辛い。・・・だから島を出て行くしかないんだ。」

 拙いけれど、これが僕の本心だった。自分を守るため、アリアを守るため、誰も傷つけないため、僕たちは島を出る。

「そうですか。であれば、お行きなさい。」

 すんなりと受け入れられてしまい、僕は目を丸くする。てっきり止められると思っていた。

「貴方は貴方の意思で進むことができます。その中で見えるものは変わっていくでしょう。だから今は自分で描きなさい。」

 母はいつも僕自身に考えさせるように話す。言われた事の意味が僕にはよく分からず、唸っていると、母は珍しくふふっと、声を出して笑った。

「・・・これは母からの、いえ、父からの贈り物です。」

 そう言って渡されたのは短剣だった。握りには派手ではないが緻密で美しい文様が彫られ、鍔は受けには向かない短いものだ。鞘は純白の下地に一輪の百合が描かれた穢れを全く感じないものだった。母に抜いてみてもいいかと訊ねると、もう貴方のものですよと諭される。

 慎重に鞘から抜き出すと、自ら輝いていると思えるほどに眩い剣身が現れた。刃こぼれも傷もない短剣を繁々と眺めていると、アリアの怒鳴り声が響いた。

 様子を伺うと泣きながらアリアの腰にへばりついているサムがいた。どうやら話はついてアリアも承諾を得たそうだが、やっぱり嫌だとサムが駄々をこねているらしい。そんな風に真直ぐ愛情を表現して貰えるアリアが少しだけ羨ましかった。

 

 日は昇り、別れの時がやってくる。雲が残る空に、水面から顔を出した太陽が光を差す。赤く淀んだ海は光を寄せ付けず、僕たちの船出すら拒絶しているように思える。ふと、母の言葉が頭を過ぎる。隣に立つアリアの手を握り、顔を見合わせる。


「アリア、僕と一緒に冒険をしよう。」


 僕は思いつく言葉に身を任せる。

「色んな物を食べたり、色んな景色を見たり、色んな人と話したり。それからっ。」

 話の途中でアリアに鼻を摘ままれてしまう。

「はにふるんだほ。」

 僕は手の持ち主に抗議する。

「続きは船の上でいくらでも聞いてあげる。」

 僕たちは笑い合った。

 

 不意にじじ様の大きな手で掴まれた僕たちは、そのまま船に放り投げられる。

「可愛い孫たちの船出じゃ!派手に行くぞお!」

 嫌な予感は的中し、じじ様は船底を持ち上げるとそのまま振りかぶり。

「「じじ様、待って!」」

 僕たちの願いも空しく、小舟といえども五人は乗れるだろうそれを勢いよく投げ飛ばす。

 絶叫しながらも僕たちは死海に放り出されないよう必死に船にしがみつく。一瞬、止まったかと思えば船が落下を始める。

 再び絶叫する僕達が見たのは思い思いに大声を出し、泣き、手を振る僕たちの家族の姿だった。

 じじ様は大声で新しい孫を連れて来いと。サムは何を言っているか分からないほどに慟哭しながら両手を振っていた。母は、泣いていた。そんな姿見るのは生まれて初めてだった。

 僕もアリアも高いところがあまりにも怖くて、涙がどうしても止まらなかった。

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