序章 アゼルの決意

1節 天上の主より

 僕の血はなぜ赤いのだろう。昨日食べたものに赤い色なんて一つもなかったのに、違う色が混ざることなく流れている。僕だけじゃない。みんなも違うようには思えない。サムおじさんが御裾分けしてくれたハトにも同じ血が流れていたのかもしれない。

 そう考え始め、今晩のご馳走が食べられなくなってしまう気がして慌てていると、自分の名前を呼ぶ声で意識が浮かび上がる。

「アゼル、大丈夫?顔色良くないよ。」

 栗色のおさげを揺らしながらアリアが顔を覗き込んでいた。なんでもないよと答えると、怪訝な顔をしながらも元の位置に戻る。

 アリアの顔が空いて目に入ってきたのは、二人の助祭に挟まれるように羊皮紙を見ながら何か喋っている司祭だった。ふと、儀式の最中ということを思い出し、いったい後どれほどの時間右から左に流れていく話を聞いていなければいけないのかと、ほとほと嫌になってきた。

 司祭がひと際大きな咳払いをしてから、言葉を続ける。

「私達がこうして日々を暮らせているのは、ここが神に祝福された地だからである。そして、その祝福が失われぬよう天に在らせられる主に仕えることが、ノアの民に与えられた使命だと理解しなさい。」

 羊皮紙を丸め僕とアリアの名前を呼ぶと、左右に控えていた助祭がそれぞれ杯とナイフを持ち出してきた。教えられていた通りに右手を杯の上に差し出し、予想される痛みを待つ。アリアも同じ脅しを受けたのだろう、暴れると手が動かなくなると言われては力をめいっぱい込めて身を固くするほかない。

 準備が終わり、鈍く光る刃が手首に押し当てられ、反射で呼吸が浅くなる。ナイフでなぞられた跡には、一瞬の遅れもなく鋭い痛みが付いてくる。血が止まることなく滴るのは先に飲まされた薬の効果だろう。痛みは段々とひいてきたが、一滴、また一滴と落ちる血を見ていると、自分の命が少しずつ損なわれていくような怖気が頭の上からやってくる。

 止血の許可が出るまでの時間が途方もなく永く感じられ、何気なしに杯に刻まれた彫刻を注視していた。杯には、今にも火を噴きだしそうな竜が天使に頭を踏みつけられ、炎を纏った剣で斬られる瞬間が切り取られていた。

 それは、誰でも知っている有名なお話だ。竜は人間をそそのかして神様に戦いを挑ませた。すると神様は怒り、血の洪水を起こし人間が住める場所を大きく奪われた。竜は残された地をも壊して回り人間を苦しめたが、すべてを知った神様は悪意ある竜を許さず、天使を遣わしてこれを討った。

 血の洪水以前は、海は青く、大地はどれだけ走っても端にはたどり着けなかったそうだ。昔を知る大人たちは罪を償うため、血の洪水で失われた神の血を補うために儀式を行い人間の血を捧げるのだという。

 十四歳になり、血捧げの儀式を行う僕たちは不安だった。″痣無し〟である僕らが話せる人は限られていたし、儀式のことはみんなあまり話したがらなかったからだ。儀式は二日間に渡って行われること、二人一組で行うことしか分からなかった。

 それでも、二人でなら何があっても大丈夫だろう。アリアの方を横目で伺うと緊張した硬い表情だったが、視線に気付くと微笑みかけてくる。彼女の気丈さを見ると不思議と勇気が湧いて、不安は薄れていった。

 十分に血が溜まった杯を祭壇に捧げると、司祭は僕たちに目を向け、跪き、胸の前で両手を組み合わせて祈りを捧げた。


  天にまします我らが父よ

  願わくば御名を崇めさせ給え

  我らが捧ぐ子らの血を頂戴し給え

  我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦し給え

  我らをこころみにあわせず悪より救い出し給え

  我らに栄えと力を与え給え

  我らの持つすべて汝のものなればなり


 しばらくすると、司祭が立ち上がり、控えていた助祭が僕たちを連れ礼拝堂を後にすることで、一日目の儀式が終わった。

 

 案内された寝室の扉が閉まると、ようやく呼吸が出来た気がした。礼拝堂の天井は高く、神と天使を模したステンドグラスから光が入るため、息苦しさは無い。それでも、緊張から来る身が縮まるような疲れは残る。

「痛かったよぉ。」

 アリアが猪もかくやといった勢いで胸に飛び込んできた。ほとんど頭突きだ。だが、それだけ不安に耐えていたのだろうと、はしと受け止める。

「僕も痛かった。」

 少しだけ皮肉を込めても罰は当たらないだろう。

 幼いころから、アリアとはずっと一緒だった。血のつながりは無いけれど、双子のようだと母は言っていた。僕たちは他の子ども達とは遊ぶことは出来なかったから、いつも、じじ様のところで遊んでいた。じじ様はいろんな遊びを知っていたし、外の世界の話を聞くたびに、僕は鳥のように自由に空を飛べた気になった。

 グリグリと頭をねじ込むのを止めたかと思えば、不意に鼻をつままれて、僕は手の持ち主に抗議する。

「はにふるんだほ。」

 アリアは悪びれもせず、そのままの格好で話し続ける。

「アゼルが話し聞かなそうな顔してるから悪いんだよ。」

 あまりに独善的な物言いだが、反論しても無駄なことは間違いないので、手を退かし目を見据えて真摯な態度を作って見せる。

 良し、とばかりにアリアが背を向け部屋の角にある机に向かう。遅れて椅子に座ると、すでに机にはアリアが荷袋から取り出した地図が広げられていた。自慢げな態度を見るに、教会の周りを事前に調べて用意したことは明らかだった。

「一人で危ないことするのはダメ、って言ったのはアリアだよ。」

 非難された当の本人はどこ吹く風。ちゃんと歩数で測ったから正確だとか、木に登って大体の高さも分かってるだとか。僕は諦めて溜息を吐く。

「どうせ、見つかったとしても“痣無し”のすることは強く叱れないじゃない。」

 怒りがこもった言葉にどう返していいかわからず、僕は曖昧な表情をする。アリアもさすがにばつが悪かったのか、次は二人ですることを約束してくれた。

 気を取り直して地図に向かうと同時に、ノックの音が部屋に響いた。アリアが地図を片付けるのを見計らって扉を開ける。そこには、先ほど案内してくれた助祭が立っていた。

「晩餐の準備が整いました。」

 

 廊下に漂う芳ばしい料理の香りに誘われて、僕の体は踊る様に食堂へ向かう。近づくにつれて香りの彩度が増していく。これは果実のソースだろう、甘みの中にある仄かな酸味が食欲をより高める。そして、肉が醸し出す、直接脳に届く強烈な旨味が理性を吹き飛ばす。

 迷わず食堂にたどり着き、遠慮なく扉を押開く。そこには想像通り、否、想像以上の豪華な料理の数々が並んでいた。燭台からの揺らめく明かりに照らされたパンは照り輝いていて、かごから溢れたその身を見せつけてくる。運ばれてきたスープは湯気を立ち昇らせ、絶えず火にかけられ続けた野菜たちが優しく僕を包み込む。テーブルには中央に椅子が二つ向かい合わせで置かれるのみで、それ以外の席が用意されていないところを見るに、晩餐は僕とアリアだけでとるのだろう。これだけの量を食べられるのは人生で初めてかもしれない。

 席に着き、今や遅しと子牛のステーキを切り分け、口に運ぼうとしたところで、遅れてきたアリアに釘を刺される。

「食前の祈りをしなかったって、おばさんに言い付けちゃうよ?」

 ごきり、と動きが止まる。一瞬の幸福を得て、針で心臓を小突くような母の説教を受けるのでは、あまりに割に合わない。理性を総動員し、やっとの思いでナイフとフォークを元に戻す。

 落ち着くために一つ息を吐き、手を組み合わせる。そして、アリアと祈りを捧げようと顔を上げると、そこには悪魔がいた。悪魔は口いっぱいに肉を頬張り、赤いソースを端から垂らしながら満面の笑みで誘惑する。

「美味しいのに。早く食べなよ?」

 僕は、天上の主に祈りを捧げた。

 

 司祭は一人、暗くなった礼拝堂で神に祈りを捧げていた。

 神の怒りが大地を飲み込んだ後、彼は生き延びた人々の悩みを聞き、時には慰め、平穏を取り戻すために尽力してきた。それも、人間の犯した罪が赦される時を信じ、これは与えられた試練であると確信しているからだった。

 しかし、眼前にある一つの問題に対する答えはいつまでも出せずにいた。

 ガウンの袖を捲り、救いを求めるように左腕に刻まれた痣に触れる。神の怒り以降、すべての人間に刻まれたこの痣を人々は罪の証として恐れたが、司祭にとっては神の存在を感じることができる証でもあった。残念なことに、信心の薄い者が無理やり痣を抉り取ったそうだが、気が付くと痣は違う部位に現れたという。神の前で隠し事など出来ないというのに、嘆かわしいことだ。

 逸れ始めた思考に、これ以上の思索を諦め席を立つ。今頃は“痣無し”の二人が食事をしているだろう。あの子たちは罪無き子だ。明日の儀式は例年通り栄の儀式を行うことに決めて迷いを払い、手持ちの燭台に火を移そうと祭壇に向かう。祭壇は血捧げの儀式の時のままで、明日の儀式の前に杯を四天湖に捧げることになる。

 不備がないか祭壇を確認していると、どこからか風が吹き蝋燭の火が消える。いつの間にこれほど老朽化していたのかと訝しんだが、ひと先ずは明かりを取り戻すことを優先する。ステンドグラスから挿し込む色づいた光を辿ると、杯に溜められた血が妖しく揺らめいているように見えた。見間違いかと杯を覗き込もうとすると、揺らめきは大きな渦に変わり瞬く間に杯から飛び出してしまった。渦は回転を速め徐々に赤い靄のように薄くなり、神父が心を取り戻すころには人の姿を形作っていた。

 神父には、赤いそれが何かを伝えようとしているように感じられ、ただじっとその時を待ち続けた。やがて、脳に響くような低い音でそれは告げた。

「・・・ササゲヨ。」

 何を捧げろというのか。だが、本心では理解が出来たため問いは出なかった。その代わりに出た言葉も分かり切ったことだった。

「貴方様は誰なのですか?」

 問いを聞くと、赤いそれが一回り大きくなったような気がした。

「・・・ワタシハ、カミ。」

 天上の言葉を授かった神父は跪き、感涙を流しながら誓う。

「御心のままに。」

 神を名乗るそれは、すべてを捧げる神父を残して跡形もなく消えた。

 

 料理を乗せる前よりも綺麗になった皿が並ぶテーブルを前に、アリアは感嘆の息を漏らす。軽く十人前はあっただろう料理の数々を、ほとんどアゼル一人で食べ尽くしてしまった。アゼルの大喰らいは今に始まったことではないが、大きいとは言えない体に苦も無く飲み込んでいく様を見せられれば、驚きを通り越して拍手を送りたくなるほどだ。

 椅子に背を預け、幸せそうに呆けているアゼルを頬杖をつきながら眺めていた。珍しい黒髪に綺麗な藍色の目。怒ったことなど無いような柔和な顔つきがアリアの心を穏やかにしてくれる。ただ、悪戯もしたくなってしまうが。

 一つ手を叩き注意を誘う。

「それじゃ、食べ終わったことだし片づけのお手伝いしましょ。」

 呆けたままのアゼルは、言われるがままに食器を厨房に運んでいく。彼の背が間仕切りを越えたのを見届けてから、アリアは食堂を後にする。

 人の熱の無い廊下は夜の静けさに冷やされて、体の芯を震わせる。襟元をぎゅっと締め、壁沿いに手を触れながら、教会の見取り図を頭に入れようと集中していく。

 アリア達の寝室がある教会二階は、助祭の大部屋と鍵のかかった部屋、これらが建物東側にある。一階へと繋がる階段は西側に一つあるのみで、その間は礼拝堂を避けるように長い廊下が伸びている。今出てきた食堂は一階の東端で、礼拝堂と隣り合っており、その正面に出入口があることまでがわかった。

 一階の廊下を端まで歩いたところで折り返して、目的の場所に向かう。目的の場所とは、明日の儀式の準備をしているであろう司祭の私室だ。一階二階ともに、廊下に隣接している部屋にそれらしいところはなかった。唯一、鍵のかかった部屋は可能性があるが、さすがのアリアも鍵開けまでは出来ない。それに、この部屋はアリア達の寝室と隣り合っているため、寝静まった夜中に忍び込む機会を探すつもりだ。

 ひそりと、中に人が居ないことを確認してから、月明りに照らされたステンドグラスの光だけがある礼拝堂に入る。ここがアリアが目星をつけた場所だった。血捧げの儀式の際に、祭壇がある壇上の左右に部屋があることを確認していた。入口から右手側の部屋には二つドアが付いており、懺悔室だろうことがわかる。こうして消去法で割り出した最後の部屋。

 アリアは祭壇を横切り、オルガンの後ろに隠されたドアに耳を当てる。物音がしないことを確認してから、蝶番の軋む音が鳴らないように慎重に開ける。予想通りの無人の室内にはまだ火が残っており、司祭が戻ってくるまで時間が無いことを知らせていた。

 簡素な室内にはベッドと机、壁際に天井まで届く背の高い棚が二つ並んでいた。階段下の部屋のためか、全体的に低い天井に加えて傾斜があることで余計に窮屈さを感じる。机に置かれた手持ちの燭台を取ろうと近づくと、机の上に並んだ植物と何かしらの製法が記された羊皮紙が数枚置かれていることに気付く。

「オリアンダー・・・。」

 狩人の父を手伝っているアリアには、それがどんな植物かすぐに分かった。なぜなら、自然の中で気を付けなければいけない、有毒植物の一つだからだ。

 慌てて部屋を出ると、沓摺の段差に躓き、祭壇にぶつかってしまった。杯の血を零してはいないかと、これまた慌てて祭壇を覗き込む。すると、不思議なことに杯の中の血は零れてもいないのに、儀式を終えた時より半分減っていた。

 いま気にするべきことでは無いと分かりながらも、好奇心は止められない。一体血が何に使われたのか、アリアには他の何を差し置いても理解しなければいけないように感じられた。

「なにか困りごとですか?アリア。」

 心臓を掴まれたのかと思うほど、全身が粟立つ。司祭はいつも通りの優しげな声だったが、アリアにはそれが心底恐ろしくて堪らない。

「お部屋に戻ろうとしたんですが、迷ってしまって・・・。」

 苦しい言い訳だが、恐怖が頭を支配して上手く言葉を紡ぐことが出来ない。なんとか笑顔を張り付けて振り返る。だが、意識が遠退いていき立つことすら難しく、司祭に倒れないように抱えられる。

「主に捧げるその身体。無駄に傷が付いてはいけません。」

 記憶に残る最後の光景は、冷たい目の奥底で滾る狂気だった。

 

 お駄賃としてもらったパンを手に、僕は寝室に戻る。アリアの悪知恵には困ったもので、事あるごとに面倒なことは僕に押し付けて、自分はさっさと居なくなってしまう。今回もどうせ寝室で寛ぎながら、遅かったね、なんて憎まれ口をたたくのだろう。

 そんな想像をしながらも、戦利品に口元を緩めて寝室のドアを叩く。返事がないのを不思議に思いながらも、一声かけてから部屋へと入る。

 そこには、二人で横になっても余裕がある寝台の真ん中で、ぐっすりと眠るアリアの姿があった。それに香でも焚いたのだろう、甘い香りが部屋に充満していた。呆れながらも、アリアの小柄な身体には、今日一日の出来事は堪えたのだと納得する。僕も眠くなってきたので、湯浴みは明日念入りにすることにして寝台に入る。間近に見るアリアの顔は寝苦しそうで、悪い夢を祓うように僕は優しく頭を撫でた。こんな風に二人で眠るのは久しぶりで気恥ずかしさもあったけれど、それ以上になぜだかドキドキしてしまう。少し安らかになったアリアの様子を見て、僕も深い眠りに落ちていった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る