イーテ 竜の印と魔王の顕現

御手洗快

プロローグ

神話とは

  神は泣いていた。それを取り囲むのは人・悪魔、そして竜である私。

「神など人の上にはいらん。」

 感情を面に感じない男が言った。

「その通り。怠惰で傲慢な神は我々を所有物としか見ていない。出来が悪ければ捨て、己より出来が良くても同じ。まるで子供だ。」

 大天使ルシフェル、今では魔王サタンと呼ばれるようになった謀反の首謀者は、倒れ伏す神を嘲る。

「…主よ、言い残すことはあるか?」

 私はすがる様に神の言葉を待った。だが、涙が音もなく地に落ちるだけで、身じろぎすることも無かった。一言命じてくれれば全てを元通りに出来るのに。全てを水に流せるのに。もう、どうすればいいのか分からない。

「終わりにしよう。理解して協力してくれたのだろう?ここにいる皆が君の力を必要としている。」

「お前に『君』呼ばわりされる覚えはない。若造が調子に乗るな。」 

 湧き上がる感情を乗せた目線にも、サタンは言葉を続ける。

「神を殺せるのは竜の炎、それも始祖である君にしかできないのだ。」

 いつもの飄々とした表情ではなく、迷いを許さない魔王のものだった。いかに全ての知識を持ち、それらを破壊する力を持つ竜といえども、己の非が重なれば再び神に目を落とさざるを得なかった。いつの間にか神の涙は止まり、落ちた雫は地に広がり黒い跡を残していた。

「君は神に捨てられ、最後には地を這いずることしかできないように手足と翼を奪われた。だが、与えられた力は残り、この通り弁明する気配もない。それらが君に殺されることを望んでいる証拠だ。」

人間を堕落させる時のように、都合の良い希望をちらつかせてくる言葉に反吐が出るが、否定しきれない自分が心底憎い。腹に貯まる熱は加速度的に増し、もはや制御など効かない破壊の源に変わっていることが、余計に精神を蝕む。そんな私が返せる言葉は一つしかなかった。

「共に塵となりたくなければ、失せろ。」


 世界の行先を大きく変える争いの後を眼下におさめ、今か今かと成就の瞬間を待っていた。出来ることなら、その光景を己の目に焼き付けたくはあったが、奴が言うこともまた事実。これからの世界を導くことは他の誰にも成せない。

 左右に、白と黒相反する三対の翼をはためかし、一息の内に危険地帯を抜けた。事前に控えさせておいた悪魔を使いに出し、竜の監視を行わせる。人間どもも小賢しいことに動きを見せてはいるが、気にするようなことではない。今しばらくは勝利の余韻を味わいたいのだ。


 達成感は無かった。これから始まるであろう悪魔との戦争に勝たねば未来は無く、長く厳しいものになるのは想像に難しくない。ただ、天使との戦いにおいて被害があまり大きくなかったこともあり、態勢を整える間に攻め切られる心配は無くなったと言って良いだろう。

 人間、天使、悪魔の、歴史に類を見ない大戦争の跡は凄惨を極めていた。神の国、と呼ぶに相応しい荘厳な景観は跡形もなく破壊され、種族入り乱れた屍が転がるのみ。それだけで血生臭さを思わせる光景であったが、残された神聖な気に影響を及ぼすことはなく、ここが、以前神の国であることを知らしめていた。

「カイン、遂に神を下したのか?」

 戦火の及ばぬ場所で待機していた仲間達の問いに簡潔に顛末を答え、この場から離れることを第一とした。何か嫌な予感がしたからだ。都合が良すぎる展開に、これが神との戦いだったことが腑に落ちない。何より、身体に刻まれた印の疼きが段々と強まり、危険が迫っていることを知らせていた。

「一刻も早くノドに戻り、今後の―」


 音は止み、光だけが支配する世界。遅れて届いた破壊の濁流と化した轟音が、神の国のすべてを飲み込んだ。残骸は塵となりめくれ上がった大地と混ざり合って天高く舞い上がる。

 それらは次第に球状に纏まると、徐々に中心の密度が高くなり核を形成していった。束の間の静寂が終わると、分裂を始め、輪郭は粉塵のようなぼやけたものではなく艶のある膜状に変化し、急激な活動も伴い鼓動しているように思える。鼓動は際限なく大きくなり続け、胚とも呼べるであろうそれが、耐えきれないというように弾けた。

 零れ落ちた血は、荒れた大地に吸われ黒々とした滲みを作る。そこからは、源泉のように血が噴き出し続け、瞬く間に地上の一切を洗い流す大洪水となった。


 始めは誰もが終わることなく続く戦いになると考えていたが、血は願いも、想いも、驕りも掃き捨てるように、四十日間止まることなく吹き出し続け、地が乾くことは無かった。

 これが神の怒りに触れた末路であると生き延びた者たちは口々に言い合ったが、真相を知る者は、洪水を尻目に飛び立った竜とそれを追った魔王のみである。

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