2 家出

 憤怒を持て余したまま、トイレを済ませた。


 尿が染みたショーツをゴミ箱にぶち込み、ブラジャーとは柄も素材も違う二軍のショーツに履き替える。女としての何かを刻一刻と失っていく感覚が心を蝕んでいく。


 いつの間にか憤怒は悲哀に姿を変え、涙腺を刺激しはじめた。

 それでもなんとか自分を奮い立たせ、クローゼットの奥から海外旅行用の大きなキャリーケースを引っ張り出した。二人で選んだチーターのシールが貼ってあるが、所々剥げてしまっている。


 中を開けると、新婚旅行で行ったハワイの細々こまごまとしたお土産が出てきた。ビーチの写真がプリントされたポストカードは半分に折れ、マカデミアナッツの賞味期限は五年前に切れている。


 思い出も気持ちも関係も、全てが色褪せている。私たちはずっと前に終わっていた。それなのに無理やり結婚生活を続けたから、ツケが回ってきたのだと思った。


 顔は涙や鼻水でぐちゃぐちゃになっていたけど、構わずキャリーケースに衣服を詰め込んだ。マカデミアナッツは二軍の下着たちに埋もれた。


 そのあと家中を回って、生活に必要な最低限のものと通帳などの貴重品をかき集めた。キャリーケースのキャパを超えていたけど、押し込んで何とか鍵を閉めた。


 そして午前四時四十分、家を出た。


 マンションの外へ出ると、辺りは暗闇に飲まれていた。しけた秋風がパーカーの裾から入り込み、無慈悲に肌を冷やしていく。

 始発まではだいぶ時間があり、タクシーも見当たらない。あてもないまま、キャリーケースのタイヤが道路を蹴る音だけが響いている。

 これからどうしよう。


 ピロリンッ


 唐突にLINEの通知音が鳴り、心臓が飛び跳ねた。こんな時間に連絡をしてくるのは淳樹しかいない。家にいないことがバレたらすぐに追いつかれてしまう。


 不安を覚えながらLINEを開いた。しかし、メッセージは淳樹からではなかった。


『彼氏に浮気されてフラれた。今から死ぬ』


 華奈かなからだった。高校時代からの一番の友人で、彼氏にフラれるたびに自殺予告を送ってくる。


 『死ぬ』という言葉に反して安堵してしまったのは、淳樹がまだ私の家出には気づいていないとわかったから。ちなみに華奈は、過去十三回死んだ試しがないから問題ない。


『生きて。大丈夫、次がある』


 スマホの光に目をすがめながら、最低限の励ましの言葉を送信した。一息ついてバッグにスマホを戻す。しかし、通知音が再び鳴った。


『玉の輿逃したからショックマジ無理。ホントに死ぬ』


 三十代とは思えぬメンヘラメッセージと共に、輪っか状に結ばれた延長コードの写真が送られてきた。


有里ゆり、いままでありがと』


 どうやら今日は本当に深刻らしい。先程とは別種の焦燥感に駆られ、気付いたら走っていた。スリッパを踏んで捻った足は痛み、キャリーケースが道路を蹴る音は工事現場のように煩い。それでも走った。


 走って走って、駅のロータリーについた。辺りに人はおらず、当然電車も走っていない。華奈の家は三駅先。本気を出せば一時間強でたどり着くかもしれないが、その間に彼女が死んでしまうかもしれない。途方に暮れていると、私の十メートル程前方にタクシーが止まった。


 降りてきたのは、淳樹だった。


 彼が気に入っている三万円のパーカーに、派手な柄の赤い短パン。足はすらっとしているが、百七十足らずの身長のせいか、はたまた短足のせいか、あまり似合っていない。それでも普段の部屋着よりはかなり気合を入れているのがわかる。


 肋骨をへし折る勢いで心臓が暴走している。この場にいたら確実に見つかるけど、今キャリーケースを動かしたら音でバレてしまう。


 苦渋の決断で、キャリーケースをその場に残したまま近くの物陰に隠れた。


 ややあって、淳樹はタクシーから離れた。キャリーケースの前で立ち止まり、胡乱な目でそれを見つめている。

 きっとチーターのシールを見て私のものだと気づいたんだ。じきに「有里! どこだ」と騒ぎ出すだろう。家出は失敗だ。


 そんな諦念にも似た予想とは裏腹に、淳樹はキャリーケースの前を横切って帰路についた。「爆弾テロ?」などとアホな呟きを残して。


 私は得も言われぬ喪失感を覚えた。バレなかった安堵よりも、不倫後の呑気な態度よりも、一緒に選んだチーターのシールを覚えていないことへのショックが大きかった。


 思い出は色褪せるどころか、淳樹の中では消失していたんだ。


 腑抜けて地面にへたり込む。涙が再びぶり返す。日本で一番みじめな女というレッテルを貼られた気分だ。

 途方に暮れていると、肩掛けバッグの中から通知音が鳴った。


『ねぇ、本当に死んじゃうからね? ね?』


 これは死なないな。乾いた笑いが出て、『今行くから』と返信した。

 自分でも解読不能な何かを小さく叫んで、おぼつかない足取りでキャリーケースの場所に戻る。


 淳樹の後姿が米粒ぐらいに見えてから、タクシーに乗った。

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