3 男の性欲
車内では、やたらおしゃべりな運転手のおじさんが矢継ぎ早に話題を提供してきた。
適当な相槌を打っていたが、「そういえばさっきの兄ちゃん、やけにニヤニヤしててさ~」という言葉が耳朶を打ったとき、反射的に前方の運転席のシートを蹴ってしまった。運転手がビクンと肩を震わせる。
「おっかねぇなぁ」
「すみま、せん」
「お姉さん夜逃げ?」
「え」
図星を突かれ、息が止まる。何と答えればよいのかわからない。
「隣のでっかいスーツケースからなんかはみ出てるからさ。急いでるんだろ」
バックミラー越しにやけにニヤついた運転手と目が合った。視線をキャリーケースに移すと、二軍のブラジャーのカップが半分はみ出ていた。
慌てて押し込んだが、全く隠れる気配がない。羞恥の念に苛まれながら手でブラジャーを隠すと、運転手がお笑い番組を見ているかのような軽いテンションで笑い出した。
「はっはっ。気にしなさんな。仕事中だから欲情なんかしないって」
あまりにも不躾な言葉を受け、頭に血が上る。今度は意図的に運転席を蹴り上げた。
「おっかね……」
「降ります!」
あらゆる苛立ちを言葉に込めた。車が急停車すると、千円札数枚を運転手のじじぃに投げつけた。
男はなんで常に性的なことばかり考えているんだ。なんで性欲を無遠慮に女にぶつけるんだ。そのせいで世の多くの女性が不幸になっているのに。
二度目の不倫された私も、十四回目の浮気された華奈も。
「お姉さん、足りな……」
「いらない!」
お釣りなんかいらない。投げつけるように言葉を吐き、すぐにタクシーを降りた。
運転手が「だから、足り……」となにかをぼそぼそ呟いていたが、構わず乱暴にドアを閉めた。キャリーケースを引きずりながらタクシーから離れる。
しばらくタクシーは後方で停車したままだったが、ややあってから私を追い越していった。車のタイヤは道路と擦れても静音なのに、キャリーケースのタイヤは不快な音を出し続けるのはなぜだろう。なぜ女はいつもこんなに辛いのだろう。
私の思いに同意するかのようなタイミングでスマホの通知音が鳴った。
『有里いた!』
視線を上げると、前方の路地から華奈が現れた。元気そうに手を振っているが、首には写真に写っていた延長コードの輪っかをかけている。
髪は頭頂部でお団子状に結んでおり、おくれ毛が無造作に飛び出している。すっぴんなのか眉毛は禿げているが、カラコンは入れているようだ。プリクラで撮ったような不自然なデカ目が際立っている。
「有里~! 途中から全然ライン見てくれないから、死んじゃいそうだった」
華奈はサイズの合っていないブランド物のサンダルを引きずるようにしてこちらに駆け寄ってきた。近くで見ると、瞼が水膨れのように腫れている。私の「大丈夫?」という言葉にかぶせる形で華奈が言葉を発した。
「住むとこ微妙に変わったから新しい住所送ったのに、全然既読つかないんだもん。迎えに来ちゃった」
「そうだったの?」
運転手の話が煩すぎて通知音に全く気づかなかった。
「うん、徒歩十分くらいの距離なんだけどね。金欠で家賃払えなくてさー。あ、こっちね」
華奈は私からキャリーケースを奪い取って上に跨り、地面を勢いよく蹴りながら前に進んだ。相変わらずの無邪気さだ。
奇人の彼女には毎回面倒をかけられるが、五歳児のような性格はなんだかんだ好きだ。
「はーい、ついたよ!」
華奈は跳び箱を飛ぶような体勢でキャリーケースから降り、得意げに二階建てのアパートを指し示した。
看板には、『シェアハウス』という文字が書かれている。
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