4 黒いパーカーの女
「え、シェアハウス?」
「そうなの~。前の家と立地そんなに変わらないのに七万も安くなった!」
前の家が高すぎるだけ、というツッコミは飲み込んで、代わりに素朴な疑問を投げかけた。
「他の住人がいるのにお邪魔して大丈夫なの?」
「うん、よゆー。一階の共用部のほかにちゃんと個室もあるから! 三畳だけどね」
華奈は早速玄関を開けた。中に入ると広い共用部があった。キッチン、テレビ、ソファ、テーブルなどの生活に必要な設備が整っている。奥には共用のトイレやバスルームもあるらしい。
「あたしの部屋は二階だからこっちね」
つい数十分前に自殺予告をしたとは思えないほどうきうきしながら、華奈は二階への階段を上った。首元では延長コードの輪っかがぶらぶらと揺れている。
案内されたのは一番奥の部屋だった。薄暗い中でも目立つビビットなピンクのドアを開ける。中には無数の段ボールと、狭い部屋には似つかわしくないシルクの布団が敷いてあった。
「まだ引っ越してきたばっかりだから汚くてごめん。さぁ、酒だ酒!」
「あ、うん」
華奈が小さな冷蔵庫から度数の高い缶チューハイを二本だし、そのうちの一本を私の頬にぴたっとくっつけた。あまりの冷たさに顔が強張る。したり顔の彼女を横目に、私は缶を開けた。プシュッ。すべてから解放された音。
「ところで有里はなんでキャリーケースを持ってきたの?」
いきなり核心を突かれ、飲みかけのチューハイを吹き出しそうになる。動揺を悟られないように袖で口を拭った。
淳樹のことを言うべきだろうか。でも、まだ心の整理がついていない。もやもやとした気持ちを抱えながらチューハイを呷った。
「もしかして不倫された?」
「ブッ!」
「あー、吐かないで! このシーツ高いのに!」
今度は口に含んでいたチューハイをすべてシルクにぶちまけてしまった。平謝りしながら、着てきた白いパーカーを雑巾代わりにして拭く。
「ごめんね、シーツ汚しちゃって」
「一緒に死ぬ?」
「へっ」
驚いて顔を上げると、先程までの無邪気な表情は霧散していた。華奈は首元にぶら下がっている延長コードの輪っかを器用に締めている。
「さすがに十四人連続で浮気されちゃったらさ、もう無理かなって。どんなにいい人に見えても男ってみんな浮気すんじゃん。いつの間にか二番目の女に成り下がってあっさりフラれるし。生きてる意味、ないなって」
酒に弱い華奈の顔はすでにゆでだこ状態だ。それなのに声音は沈み、重苦しい空気を纏っている。
ハイテンションと鬱状態を繰り返すのは危険な精神状態だ。わかっているのに、身につまされる思いがして励ましの言葉が出てこない。
大丈夫、次がある。いつも軽々しく使っていた言葉がいかに陳腐で役立たずだったかを思い知らされる。
男が男である限り、性欲を持て余す限り、幸せな『次』なんてあるはずがない。
華奈の手によって延長コードの輪っかがどんどん狭くなる。
「仕事はいつもクビになるし、お金はないし、人生で楽しいことって恋愛くらいなんだよね。それがこのありさま。もう若くもない。有里はパート主婦でいいなぁって思ってたけど、二度目の不倫は流石に堪えるよね。うちらもう、詰んでんじゃん。だから死んで楽になろうよ。まずあたしから」
ついに、延長コードが華奈の首にくいこんだ。酔いもあってか手を緩める気配がない。虚ろな表情と苦しそうな吐息から危険を感じ、咄嗟に彼女の手を掴んで止めようとした。
両者必死で、滅茶苦茶な言葉の応酬が始まった。離して、いやだ、死ぬ、死ぬな、男死ね、男死ね、わたしも死ぬ、華奈は死ぬな、やだやだやだやだやだやだやだやだ。
どれくらいの時間が経ったろう。実際には一瞬だろうが、体感では淳樹の飲み会を待っているときくらい長く感じた。爪が割れそうなほど強引に華奈の手を掴んでいると、突然雷雨の如く激しい勢いでドアがノックされた。
華奈がひるんだ隙に延長コードを一気に緩めて取り上げた。「有里のぶわぁかぁ~‼」という奇声とともに、ビビットピンクの扉が外から開かれた。
「あの、うるさいんですけど。メイワクです」
黒いパーカーを目深に被った女性が廊下に立っている。アニメ声のような鼻につく声音と棘のある言葉のギャップが、逆に物々しさを引き立たせている。慌てて玄関に立ち、深々と頭を下げた。
「すみません」
「コロシならほかでやってください。じこブッケンいやなんで」
「いや、殺そうとなんか……」
「ソレ」
独特なイントネーションで話す彼女は、私の手を指さした。視線を移すと、しっかりと延長コードが握られてる。とんでもない誤解をされて背筋に冷たい汗が伝った。
「ケイサツよびますけど」
「いや、ほんとに違います!」
「ショウコは?」
警察、証拠、と立て続けに物騒な言葉をぶつけられ、心臓が苦しくなる。
「しょう、こ……あ、華奈! ねぇ、違うよね?」
振り向いて華奈に助けを求めたが、既にシルクの布団の上で大の字になって眠っている。
忘れていた。華奈は度の強い酒を飲むと錯乱のち爆睡することを。
「まぁ、もういいです。つぎはツウホウしますけど」
女性はそういうと隣の部屋に帰っていった。あらゆる疲れがどっと押し寄せ、私はその場に蹲った。
そして間もなく、意識を手放した。
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