5 1度目の不倫

 永遠と続く着信音が容赦なく睡眠を阻害した。


 最初は夢と現実の狭間で何かが鳴っているなと思う程度だったが、途中から意識が覚醒して音に嫌気がさした。


 どんよりとした溜息が漏れる。濡れた衣服を着用しているかのように重たい身体を起こすと、頭に鈍い痛みが走った。久々のお酒は予想以上に身体を蝕んでいる。


 淀んだ気持ちのままバッグからスマホを取り出して確認すると、案の定淳樹だった。着信七十件は狂気の沙汰じゃない。この後も永遠に続くと思うと気が滅入り、観念して電話を取った。


「もしもし」

「有里! どこだ」


 焦りが滲むかすれた声だった。「爆弾テロ?」と言ったときの呑気さはない。あのとき私のキャリーケースに気づいていれば、私は家に帰っていたのに。今更焦ったってもう遅い。


「心配だ。早く帰ってこい」


 不倫をしておいて『心配』はない。上から目線の『~してこい』という言葉も受け付けない。怒りが沸々とわいてくる。


「もう電話しないで」

「どうしてだ」

「わかるでしょ」

「あ、いや……夜中はたまたまコンビニに買い物に――」

「タクシー」

「えっ」

「『爆弾テロ?』」

「……」

「車内でニヤニヤしてたんでしょ」


 あれほど息巻いていた淳樹が一瞬で閉口した。やはり不倫は図星らしかった。身体中の血が煮えたぎる。


「もう帰らない」

「有里、あの、えっと、ごめ……」

「自業自得だから」


 簡単に謝らせなんかしない。謝れば全てが解決すると思い込んでいる性根が腐っている。

 乱暴に電話を切り、スマホの電源を落とした。思った以上に呼吸が荒くなっている。


 あの日――淳樹の一度目の不倫が発覚した日を思い出してしまい、沈鬱な気分になった。


 なぜ私はあのとき、離婚しなかったのだろう。


 後悔の波が押し寄せ、記憶が鮮明に浮かび上がった。


 ***


 淳樹の一度目の不倫は、結婚二年目、二十八歳のときだった。


 妊活のためにブラック企業を退職した私は、中々子どもを授からないことへの焦りと淳樹のいびきによる不眠に悩んでいた。些細なことで喧嘩が増え、関係は徐々にぎくしゃくしていった。


 その中でも最大の問題は、淳樹が私で勃たなくなったことだ。


 妊活が生きる目的になっていた私は、淳樹に排卵日のセックスを義務化していた。当時は夫婦共通の目標なのだから当然だと思っていて、彼が仕事でどんなに疲れていても義務として求めた。


 しかし、ある日突然、淳樹が勃たなくなった。

 いくら触ってもピクリともしないのだ。


「ごめん、有里……もうできない」


 淳樹の言葉に応える代わりに私は嗚咽した。ショックと不眠が重なり、体調も崩してしまった。


 しかし、そこから淳樹が幾分か優しくなった。

 セックスレスになった代わりに、日々の衝突は劇的に減った。私の不眠を考慮してなのか掛け布団を顔まで被ってくれるようにもなった。


 私も自分自身の言動を反省し、妊活を一旦中断した。セックスレスになったことに対する心の傷は大きかったが、妊活のプレッシャーから解放されたおかげで心にゆとりが生まれた。夜も眠れるようになった。前向きになり、週二でスーパーのパートを始めた。


 しかし、ある日の夜中に目覚めると、掛け布団がぺったりとしていた。淳樹がいなくなっていたのだ。

 何度も電話をかけ、にようやく出たのは彼ではなく女だった。


「いまトリコミ中です」


 それだけ言われてすぐに切られた。鮮明には思い出せないが、やけに鼻につく声だったことは覚えている。


 私は呆然としたまま玄関に座り込み、淳樹の帰宅を待った。そして明け方に帰ってきた瞬間から問い詰めた。最初は「コンビニに……」と言い訳をこねくり回していた淳樹だったが、女が電話に出たことを告げると真っ青になって土下座をした。


 ごめん。ほんとにごめん。もうしない。ニンカツ?でプレッシャー感じてて、癒しが欲しかった。ただの性欲で、ほんとに気持ちはなくて、一回だけで、だから許して欲しい云々かんぬん。


 謝れば許してもらえるという魂胆が見え隠れしていることにも、妊活を他人事のように話すことにも、私は癒しではないと暗に突き付けらえたことにも辟易し、その日の日中に役所に離婚届を取りに行った。


 しかし、自宅で記入して判子を押す直前、躊躇してしまった。


 淳樹の気持ちを無視して排卵日にセックスを強要したのは私だ。でも彼は私を責めなかった。寝るときも、私の不眠を気遣って布団を頭まで被るようにしてくれた。


 自分の行いへの罪悪感と、淳樹の少しの優しさ。それが離婚を思いとどまらせた。

 

 そして数週間後、私は彼を許した。

 

 「次は家を出るから」と灸を据えて。

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