6 正体

 ***


 過去を一通り思い出したら、急に激しい尿意に襲われた。弱り目に祟り目だ。


 「華奈、トイレ貸して」と呟いたが返答はない。振り向くと、華奈は足と手を一直線に伸ばして寝ていた。その光景は淳樹の偽装工作に使われたパジャマを着たヨギボーを想起させ、再び吐き気に襲われた。同時に膀胱も刺激される。


 まずはトイレだ。忘れていたがここはシェアハウスで、部屋にトイレはない。確か華奈は一階の共用部にトイレがあると言っていた。


 パーカーの女性と鉢合わせる不安を抱えながらも、ドアをそっと開く。彼女の部屋のドアは夜の海のような深い黒。開いている様子はない。安堵のため息が漏れた。


 抜き足で廊下を歩いて階段を下りた。リノベーション物件なのか、内装は綺麗なのに階段を踏み締めるたびにギィと音が鳴る。昨日は気にならなかったのに、静寂の中では思いの外響く。じわじわと冷汗が出てきた。


「コロシおわってにげますか?」

「ワッ‼」


 背後からアニメの悪役美少女のような声が飛んできて、驚きのあまり最後の一段を踏み外してしまった。スリッパを踏んで捻った足首にさらなる負荷がかかり、立てなくなる。


「ケイサツよびます」

「まっ……」


 見上げた先に、黒いパーカーの女性がいた。相変わらずフードで顔を隠している。彼女はスウェットのポケットからスマホを取り出し、番号を入力し始めた。


 大事にはしたくないと、必死の思いで二段目まで手を伸ばし、パーカーの裾を思い切り引っ張った。すると、彼女はよろけて私に雪崩れ込んできた。


 再び倒れて足首に激痛が走る。身体には彼女の重みを感じた。いつだったか、酔って私に覆いかぶさってきた華奈よりも随分と軽い。


「ちょ、なにするんですか。アブない」

「すみません……」


 彼女は煩わしそうに身体を起こした。しかし、落下の衝撃でフードは頭から落ちている。


 銀髪ショートの彼女は二十代前半に見える。鼻梁が高く、目元がくっきりとしたアイドルのような風貌だ。陶器のような白い肌だが、右頬には一円玉ほどの赤黒いアザがある。


 私の視線を嫌った彼女は、すぐさまフードを被ってキッチンに向かった。何やら物色をしている。私は通報されなかったことに安堵しつつ、共用のリビングを抜けてトイレに向かった。


 用を足して少し落ち着きを取り戻すと、パーカーの女性の言動を思い出した。何かが引っかかる。

 記憶の断片と彼女の要素が結びつきそうで結びつかない。もどかしさを覚えながらリビングに戻ると、キッチンに白い煙が充満していた。


 咄嗟に火事かと思い、パーカーの女性に向かって「大丈夫ですか?」と声をかけながら急いでキッチンに入ろうとすると、「来ないで」とあしらわれた。

 煙は彼女の手元辺りからモクモクと立ちのぼり続けている。


「いまトリコミ中です」


 そのひとことを聞いた途端、脳に靄がかかった。現実を受け入れたくないという身体の拒絶反応だ。

 

 しかし、彼女の言葉は鼓膜にへばりついて離れない。


 あの日――淳樹に電話を掛けた日、スマホから聞こえた鼻につく声。

 いまトリコミ中です。何気ない言葉のようで、少し癖のあるイントネーションだった。


 間違いない。淳樹の一度目の不倫相手は、彼女だ。動悸が胸を襲う。身体の芯がぐらつく。


「アッチ行ってください」


 白い煙が私の方まで流れてくる。しかし、焦げ臭いどころか甘い匂いと冷気を伴っている。肌は冷やされ、身体は硬化して動けない。


「ジャマです」


 やがて煙は霧散し、彼女の手元が見えた。透明なボウルに、クリーム色の何かがたっぷりと入っている。


「じゅ……き……」


 本能が淳樹との関係を問えと訴えている。しかし、口は思い通りには動いてくれない。キッチンに重い沈黙が横たわる。それを破ったのは私でも彼女でもなかった。


「わぁ~、またアイス作ったんだ! らっきぃ」


 背後から聞き慣れた陽気な声音が響く。華奈はお団子が半分崩れたボサボサ頭のままパーカーの女性に駆け寄った。


「ひと口ちょーだい」

「いや、これからヒやすんで」

「えー、冷やしたらぴりぴりなくなるじゃんね」


 華奈は水切りラックからスプーンを取り、強引にボウルの中の物体を掬って口に含んだ。パーカーの女性は大きく嘆息する。私は呼吸がうまくできない。


「うーん、やっぱりドライアイスで作ったアイスが一番おいしい! ……あ、頭キーン」


 煙の正体はドライアイスのようだった。アイスに混ぜると炭酸が生成されて、ぴりぴりとした食感がら生まれるのだろうか。

 そんな細かいことまで考えてしまうのは、まだ現実を受け入れられていない証拠だ。


「二日ヨイですよ。ねててください。ジャマです」

「今日も辛辣だね、マイカ」

 

 マイカと呼ばれるパーカーの女性は、終始不機嫌そうな表情を浮かべていた。

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