8 納豆の男性

 複雑な気持ちを抱えながらも、いつも通りパート先のスーパーに出勤した。家から一駅しか離れていないため出勤時は不安に駆られていたが、平日の昼間だから淳樹に会うこともなく職場にたどり着くことができた。


 捻挫の足を引きずりながら品出しの作業を行う。賞味期限が近い納豆を手前に、新たな納豆を奥に置いているのに、大体の主婦が奥から品物を取っていく。


 その光景を見るたびに小さくため息が漏れるが、当然文句は言えない。自分も客としてスーパーに行くときは同じように奥から商品を取るから尚更だ。


 こんなとき、華奈を少し羨ましく思う。彼女は思ったことは何でも口にできる。きっと華奈がスーパーに勤務したら、客が奥から商品を取るたびに「手前からお願いします!」と意気揚々と言うだろう(だからいつもクビになってしまうのだろうけど)。


 私は自分に少しでも負い目があるときは肝心な主張をためらってしまう。子どもを望む夫婦として当然のことだと思っていた排卵日のセックスは主張できたけど、それによって淳樹が私に勃たなくなり、代わりに他の女と不倫したときは、自分にも責任を感じて離婚を切り出せなかった。


「自業自得、か……」


 ポロッと漏れた言葉が自らの心に刺さる。多少の偏見はあれど男という生き物全般が浮気性なのだから、変に自らの非を引きずらずに離婚すればよかったのだ。そうすればこんなにも傷つかなくて済んだ。その点は自分のせいだ。


「あのー、すみません」

「あ、はぃ」


 感傷に浸っているときに声をかけられたせいで素っ頓狂な声が漏れた。振り向くと、少し離れたところから男性がこちらへ向かってくるのが見えた。慌てて立ち上がり駆け寄ろうとするが、捻挫のせいで足取りがおぼつかない。結局男性の方が先にこちらへ着いた。


 明らかに平均を超えた身長に、すらっとした細身。顔は塩顔で、右目だけ二重なところが印象的だ。ラフな格好や肌艶から見るに大学生くらいだろうか。平日の日中に出歩いているし、間違いないだろう。


「賞味期限がいちばん早い納豆ってどれですか?」


 また来た、と思った。どの客もみんな賞味期限が長いものを選ぶ。


「あ、奥からとっていただければ長いですよ」

「違います。は・や・いやつです」


 面食らって数秒間フリーズしてしまったが、急いで手に持っていた商品を差し出した。ひとつだけ数日前の売れ残りで、ほかの商品よりも三日も期限が早い。どうせ売れないから二割引きのシールを貼ろうとしていたところだった。


「失礼しました。こちらになります」

「ありがとうございます」


 男性は律儀にも会釈してその場を去っていった。なぜわざわざ賞味期限が早いものを選ぶのだろう。


 作業に戻ると間もなく店長がやってきた。ぶっきらぼうな小太りの四十代男性だ。私に話しかけてくることなどめったにないから身構えてしまう。


 もしかして、淳樹から連絡があったのだろうか。緊張が走る。


「あー、笹川ささかわさん」

「なんでしょうか」


 足首の痛みに耐えながら立ち上がる。店長は仏頂面で淡々と話した。


「今日サービスカウンターでいいよ」

「え?」

「それ僕がやるから」


 言葉の真意がわからず、思案する。

 このスーパーのサービスカウンターは常駐するスタッフがおらず、客が来たらレジから人員を都度配置するシステムだ。そのくらい暇なポジション。


 つまり、無能だから代われということだろうか。店長は戸惑う私に構わず豆腐の品出しをはじめた。


「あの……どうしてでしょうか」

「あー、さっきのお客さんが『あの人足怪我していますよ』って教えてくれたんでね。配慮しないわけにもいかないし」


 店長は私の方を全く見ずに答えた。行動と言葉にギャップがあるが、恐らく客からの指摘を無視して店の印象を下げたくないのだろう。その証拠に、怪我を気遣う言葉は全くない。本社勤務を狙っているという噂を聞いたことがあるし、そういうところだけはしっかりしている。


 それよりも、さっきのお客さんって――


「もしかして、大学生くらいの男性ですか?」

「あー、うん」


 納豆の男性だ。まさか私が数歩歩いただけで足の負傷に気づいたのだろうか。


「治るまでサービスカウンターで。またお客さんに言われても困るし」


 混乱しながらも、店長の指示に従ってサービスカウンターに入った。


 ややあって納豆の男性が会計を済ませてサービスカウンターの前を通過した。

 何か声をかけようと口を開くも言葉が出てこない。


 結局男性は、私に目を合わせることもなく出口の自動ドアを通過していった。

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